第275話 皇太子アーディルⅠ*
クルルアーン竜帝国の皇子、アーディルは囚われの身になっていた。
出征の日、帝都アシュレイアの龍宮を出る時、母ミーディアはこう言った。
「あなたは何もしなくて大丈夫よ。旅行に出かけると思って、気をつけて行ってらっしゃいね」
いつものように微笑みを浮かべながらそう言ったのち、親衛隊としていつも警護の任についている顔見知りの近習たちに向かって、厳しい顔でなにかを繰り返し伝えていた。
それからのことは、輿に乗ってしまったので見ていない。アーディルが最後に見た母の顔は、険のあるその厳しい横顔だった。
船旅で北へと向かい、ガリラヤニンに辿り着き、親しい人々と数日異国の地の観光を楽しんでから出立すると、そこからは地獄だった。
アーディルは馬に乗ることはできる。習わされた諸芸の中でも自分では得意な分野だと思っていたし、それは馬に乗りながら兎や狼に矢を射っているような人々よりは劣るだろうけれども、まあ普通に乗って走らせるくらいのことは苦労なくできる。
だが、それはせいぜい数時間の稽古でのことで、一日の大半を鞍にまたがって過ごすなどということはなかった。遠出するときは、輿や馬車を使っていた。
ガリラヤニンからの旅程では馬に乗ることになり、ガリラヤニンを出発して一日で尻の皮が痛くなった。侍医に軟膏を塗ってもらい、就寝するときはうつ伏せに寝たが、翌日鞍にまたがった時には激痛で転げ落ちそうになった。
なので出発する前から「馬には乗れない」と言ったのだが、将軍のイルハームに連絡がいくと、何が何でも乗るようにと伝えられた。
そのほうが大将らしく見えるし、皇族用の輿など用意していない。なにより輿に乗って遠征に行く皇帝などいない。すぐに皮が厚くなり、そうすれば平気になる。騎馬兵たちはみなそうしているのだと、まるで叱責するような文面が送られてきた。
痛みに耐えながら拷問のような行軍を耐えると、行軍が終わって宿営地に着いた頃には尻の皮が全部剥がれていた。
初日と同じようにうつ伏せに眠り、三日目の朝になると下履きが滲出した漿液で濡れて、漏らしたように固まっていた。
たまらず、輿など必要ないから荷馬車に乗せてくれと言うと、それも退けられた。
アーディルはよく従う少年だった。誰かを困らせてでも叶えたいと思う強い欲求は少なかったし、苦痛があると母であるミーディアに伝えれば大抵のことは退けてくれたから、従うだけの生活が苦ではなかった。
アーディルが泣いたり、体に傷ができるようなことが起きると、それらの環境は自然と遠ざけられた。厳しく叱責してくるような家庭教師はいなくなったし、武術の訓練も怪我をしないように整えてくれた。
そうやって、アーディルは苦痛のない環境で育った。我儘を言うことで母が困った顔をすると、我慢できる範囲で我慢もした。アーディルはそうやって世界と折り合っていた。怠惰ではないが熱心でもなく、ただただ与えられる義務をこなしていた。
アーディルにとって世界とはそういうものだった。それで立派な皇太子だと言われていた。
なので、アーディルは母という装置抜きで環境を改善する方法を知らなかった。
これほど激痛を訴えているのに改善してくれず、続けろと平然と言ってくるような環境には恐怖しか憶えず、周囲を支配することで改善しようとは思わなかった。ただただ、従うしかなかった。
足の力で尻を浮かせながら馬に乗ると、尻の痛みから逃れることができた。だが中腰のような体勢になることで足が疲れた。痛みから逃れたい一心で、ガクガクと足が震えても尻を鞍から離した。だが、すぐに内ももの皮が赤くなり、今度はそちらに大きな水疱ができた。
四日目には足全体が激痛を伴う筋肉痛になっていた。
その時、ようやく決戦地に着くことができた。アーディルには、そこがようやく辿り着いた楽園のように感じられた。
疲労から呆然としながら軍議に参加すると、あとは一日中天幕の中でうつ伏せになって養生していた。
そして戦争が起こった。
この戦争においてアーディルに求められていた役割は、指揮者ではなく
戦旗は戦陣において立てられ、国章を誇示しながらはためいていればよい。
だがしかし、堂々としていなければならない。破れていたり、汚れていたり、半ばで折れたりしている戦旗を自ら掲げる軍はないだろう。
なので、アーディルは汚れのない軍装を身に着け、軍馬に座り、堂々としていればよかった。将軍のイルハームの横でそうしていれば、総大将であるという格好はつく。
だが、戦争には負けた。
そして、敗走する道の途上、空からなにかが降ってきた。地面に落着すると、走っていた馬の集団の前に突然に炎が立ち上がった。
アーディルの乗る駿馬は、それに驚いてあらぬ方向に走り出した。アーディルはそれを制御することができなかった。下半身が気を失いたくなるような激痛の塊のようになっていて、ただただ手綱を短く持って
母に助けを求め、次に神に助けを求めたが、誰も助けてはくれなかった。
そうしているうち、アーディルは捕虜になった。
◇ ◇ ◇
手紙を書くように身振り手振りで促されたので、アーディルはとりあえず無事である、早く戻れるよう手配してほしい、というような内容を手紙に書いた。
母から貰ったお守りの指輪を手紙に同封されると、アーディルは貴人用と思われる天幕に通された。周り中を兵士が囲んでいる気配がする。
アーディルは言葉が通じないため、ただただ立っていた。
軍議のときは痛みをこらえて堂々としていろと言われたから座ったが、本当は座らないほうが楽だ。
いつまでも椅子に座らず、ベッドにも横にならずにいると、湯浴みの代わりなのか女性が沸いた湯を持って現れた。
ボタンを外され、戦衣を脱がされる。下半身も脱がされ、肌着があらわになると、その女性は肌着が血で滲んでいることに気づき、血相を変えて出ていった。
すぐに軍医らしき者が現れ、身振り手振りで寝台で横になるように促されると、人肌に濡れた清潔な布で尻を拭かれ、軟膏を分厚く塗られた。
刺激のない軟膏で皮の剥げた肉が覆われ、痛みが薄れると、次第に疲れが勝り眠気が訪れた。
翌日、目が覚めると、寝たままの姿勢で朝食を供された。軍医は一晩中付き添い、軟膏を塗り直し布を替えていたようだ。
その後、数人の男が現れると、うつ伏せのアーディルを抱え上げ、少しだけ横に動かす形で担架に移した。担架の上から、頭からつま先まで全身を覆う大きな毛布を被せられ、屈辱のないよう配慮をされて長い長い距離を運ばれた。
毛布の隙間から、城門をくぐるのが見えた。戦争の焦点となっていたところのクルトスとかいう都市が降伏したので、そこに入るのだろうと思った。
どこかの城館に入り、担架のまま応接用の部屋に運ばれた。きちんとしたベッドに寝かされる。
軍医は軟膏を塗り直すと、一人がけのソファに座ってしばらくこちらを見ていた。言葉が通じないので会話ができない。少しすると、本を読み始めた。
枕を抱え込み療養に努めることにしたアーディルは、そこで周囲が静かであることに初めて気づいた。
戦陣での喧騒が遠ざかり、静かであるという感覚を久しぶりに感じた。ここ数日の体験は、一年にも感じられるような長いものだった。
アーディルは、好ましい旧友と久しぶりに再会したように、その静寂を受け入れた。
言葉が通じる同胞の軍は、いくら苦痛を訴えてもなにもしてくれなかった。
だが、こちらの人々は、言葉が通じないのに痛みを察し、下半身を晒している惨めな姿を嗤わず、屈辱を感じないよう配慮して運んでくれている。
皮肉なものだ。そう感じながら、アーディルは再びうとうとと眠りに入った。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして、にわかに扉の外がガヤガヤとうるさくなると、人が入ってきた。
扉の外には大勢の人々がいたが、最終的に入ってきたのは二人の男だった。
一人は昨日捕虜になった際、手紙を書かされた時にいた長耳のシャン人で、一人はこちらと同じ人種の者だ。服装からして、ガリラヤ人だろう。
シャン人の男がこちらを見た。
年下のほうの男がこちらにやってきて、布をめくりアーディルの尻を見た。次にアーディルの顔に近づき、額に手を当て体温を確かめ、次に二本の指を首筋に強く当てると、しばらくして離した。
そしてガリラヤ人に一言命令をすると、言葉を話し始めた。
「昨日会った時は自己紹介もしていなかったな。俺はシヤルタ王国摂政のユーリ・ホウと言う。きみの敵方の総大将と考えてもらえれば、まあまあ正解だろう」
ガリラヤ人がすぐに通訳をして、言葉をアーン語に直して追うように話す。
自分と同じような年齢に見えるが、敵方の総大将だったのだという。
「僕は龍帝皇太子のアーディルです」
「うん。気分はどうだ?」
意外な質問だった。捕虜にとって初めて通訳を介して意思疎通できるようになり、真っ先に聞きたいことはそれらしい。
「悪くはないです」
「痛みは?」
「それほどでも」
「吐き気があったり、体がだるかったり、思考が濁っている感じはあるか?」
「いいえ」
痛みはあるが安楽な状態だった。筋肉痛が酷いので動こうという気にはならないが。
「そうか。きみは――というか、君たちの国は皮が剥けた程度のことと軽く考えていたようだが、そういう傷から病毒が入れば深刻な病気になることもある。現在はきみの体にもともと備わった抵抗力が、そういう病毒を退けている状態だ。だが、時間差で悪くならないとも限らない。体調が悪くなったらすぐに言ってくれ」
「はい」
「しかし、その状態になるまで馬に乗るとは、きみはよほど我慢強いんだな。ずっと黙って耐えていたのか?」
「よく分かりません。馬に乗っているのが義務だと言われたので、ずっと乗り続けていました」
「ふうむ……」
ユーリと名乗った男は、悩ましげに顎を撫でた。
「他の捕虜や、使者から得た情報を総合すると、どうも君たちの軍の偉いがたは、この戦争を機にきみの性根を叩き直そうと考えていたらしい。爺さんの大将……イルハームは特に、君の父親である龍帝から厳しくあたるよう言い含められていたそうだ。気分の悪い話だな。虐待と苦痛で人間が成長するのであれば、鞭で打たれて育った奴隷を王にすればいい。まったく不条理なことだ」
「………」
アーディルは何も返さなかった。龍宮にいたときから、しばしば「もう少し男らしくなれ」というような意味の叱責をされていたから、薄々感づいてはいたが、本当にそういうことだったらしい。
このユーリという男は、それがあまり良くない方針だという意見を持っているようだ。アーディルには、それが良いのか悪いのか、それもよく分からなかった。
現状ではアーディルは龍帝にふさわしくない資質を持っているが、尻の皮が剥げる苦痛を受ければふさわしい資質を獲得することになるのだろうか。ユーリという男は違うという意見を持っているが、アーディルには見当もつかない。それは、なにかしら劣ったことのように思われた。
「さて、きみはすぐにでも元いたアシュレイアに帰りたいのだろうが、まだ交渉の席を設けていない。それが終わるまでもう少し待つことになると思う。その傷の療養が終わるころには答えが出るだろう」
「はい」
仕方がない。捕虜になるということは、そういうことだ。
「クルルアーン竜帝国の料理人はいないから、料理は口に合わないかもしれないが、食べたくなくても頑張って食べてくれ。肉を食べないと傷が治らないからな。それでは、まあ、ゆっくりしていってくれ」
そう言うと、ユーリという男は部屋を去った。
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