第269話 フリッツ・ロニー*
「そうだ。夜の間に、港に停泊している全船舶を接収しろ」
フリッツは、臨時に対策本部として開放された政庁の大会議室で、指揮を執っていた。
「停泊させておいても、どうせ鷲を繰り出されたら出港させることはできない。出港しようとすれば燃やされるのだからな」
「わ、わかりました……でも、港の管理組合が……」
ガリラヤ連合海軍の上級大将が渋った声を出した。
古来、ガリラヤニンの港は広く開放され、港を牛耳る商人たちは、定められた税金を払う代わりに港を牛耳る権利を与えられてきた。
港の管理組合は、大商人たちの連合であって、ガリラヤニンでは強い権力を持っている。
市政にとって不可侵の領域……とまでは言えないが、歴代の政治家たちはいくらかの献金を受けながら、その独立性を尊重してきたのは事実だ。
「一切、気にするな。海兵を使って強引に接収しろ」
どのみち、侵略者たちはそんな事情を汲んでくれないのだ。
その仕組みが今日壊れるか、明日壊れるかの問題に過ぎないのなら、気にする必要などない。
「海軍も、民間船も、すべてを使うんだ。避難を求める市民を、一人でも多くクリラフィヤに脱出させろ」
クリラフィヤは、ガリラヤニンから短い海峡を挟んで東にある都市である。
「食い扶持が一人減れば、兵糧攻めを仕掛けられてもその分長く持ちこたえられるのだからな」
本来、ガリラヤニンは兵糧攻めをあまり想定していない都市だ。
クルルアーン竜帝国あたりと戦争になり、海で敗北して港を封鎖されたとしても、陸から食料を調達すればよい。
ティレルメ神帝国あたりに陸を攻められたとしても、海までは取られない。食料は船で運び込める。
海と陸、両方を奪われるなどという状態は、さすがに外交的な努力で回避できるし、それさえできなくなったら降伏しかない。
だが、そういった前提は、火焔を落とす鷲の登場ですべて吹き飛んでしまった。
爆弾と飼料さえ持ってくれば、船は簡単に潰されてしまう。港など使えるわけがない。
陸上を抑えられれば、海上にまで抑えが効いてしまう。
もちろん、そのことは前々から分かっていたわけで、備蓄は多く貯めてはあるが、ガリラヤニンは人口が多すぎるため、その対応には限界があった。
市民全員に毎日食料を配るとなると、切り詰めて三十日と少しの分しかない。
「分かりました。では、夜のうちに接収するということでいいんですね。準備に走ってもよろしいか?」
海軍の上級大将が言った。
「お願いします」
フリッツが敬語に直して言うと、上級大将はすぐさま走っていった。
「統領、こちらはいかがしましょう?」
ガリラヤニン郷土軍の司令官が指示を求めている。
こちらは、命令系統の問題で、チラチラと事務局長のほうを見ている。
そもそも厳密に市法に則れば、事務局長に指揮権があるわけではないのだが、ベルビオが職務を放棄している以上は市政側のトップが彼であることは間違いなかった。
フリッツは国政側の人間である。国と市で利害が対立しているわけではないが、
だが、ベルビオが働かない以上は、そんなことを言ってはいられない。
「郷土軍は、城壁の防衛に最低限の兵を残し、あとは今晩から見回りを強化して、市民の外出を禁止しろ」
「外出を禁止? 避難させるのでは?」
「明日、早朝から文官を総動員して各戸を訪問し、市民に避難の意思の有無を確かめる。その後、地区番号の少ない順に、船に乗せて運び出す」
幸いなことに、夜の訪れと共に市民の錯乱状態は収まりつつあった。
彼らは、住居を焼け出されたわけではない。住まいはまだ残っているので、すでに抜け出した者たち以外は、自宅に戻っているらしい。
それは好都合だった。
とにかく、今日の昼間のようなパニックが起きてしまっては、避難どころではない。
「……分かりました」
「では、よろしくお願いします。私が不甲斐なく敗北したせいで、恐縮ですが」
本来、彼らはフリッツの命令を受ける立場にない。多少へりくだっておいたほうがいいだろう。
「いえ、そんなことは。それでは、失礼します」
と、郷土軍司令官もまた、ぺこりと一礼をして走り去っていった。
「……助かりました」
そばで見ていた事務局長が言った。
彼もこの状況で頑張ってはいたが、そもそもが事務仕事を四十年間誠実に勤め上げたことで局長になっていた人物だ。
市を統べる部署の人事や、各年度の予算の計上のことは隅々までよく知っているが、戦時にどのような対応をすればよいのかなど、門外漢もいいところだった。
「……いえ、元はと言えば、私がいけないのですから。戒厳令下で各戸を訪問する作業については指揮を任せてしまってよろしいですか?」
「はい。もちろん」
「では、よろしくお願いします。私は……少し、やることがあるので」
フリッツは、ぺこりと頭を下げて、席を立った。
「お休みになられるのですか?」
「まあ、そのようなものです。敗戦からずっと一睡もしていないもので」
「それは……」
事務局長は気遣うような表情を見せた。
それは嘘だった。フリッツは、ノイミラベルで数時間の睡眠をとっている。
元気とはいえないが、緊急に睡眠を取らなければならないほど疲弊してもいなかった。
「それでは、少し失礼します。皆さん、よろしくおねがいします」
フリッツは立ち上がって、政庁の建物から去った。
職責を果たしたことで、フリッツの脳裏を不思議な充足感が満たしていた。
それは、己の心の中にある使命感が、ようやく赦しを与えてくれたような奇妙な感覚であった。
*****
永い永い仕事を終えたフリッツが、焦燥に駆られながら一直線に向かったのは、ノセットと愛娘ミュセットの待つ我が家だった。
果たしてノセットは、まだ家にいるのだろうか?
早々にガリラヤニンを退避したのであれば、それはそれで喜ばしい。
ノセットは頭がよいので、遅く危険な陸路で行こうとは考えないだろう。預けた金を使って、海から行こうとするはずだ。
だが、ここに留まるという判断も、ユーリ・ホウのこれまでやってきた占領地の統治法を考えると、悪い判断とはいえない。
どちらであってもいい。
無事でさえいてくれれば。
フリッツが我が家の玄関ドアのノブをひねると、鍵がかかって開かなかった。持っていた合鍵で、鍵を開ける。
やはり出ていったのだろうか?
中に入ってみると、男の声が聞こえた。
「だまれ――――おさえとけ――」
「――やめてぇ」
厚い扉を通して、ノセットの声がかすかに聞こえる。
最悪の事態だ――と、フリッツは頭の中で唸った。
愛人宅に護衛を伴ってくるのは気が引け、人を連れてきていないが、ここで逃げるという選択肢はない。
フリッツは、激情に駆られるまま、出征した時から腰に刺したままだった細い剣を、初めて抜いた。
リビングのドアを蹴破るように開けると、部屋の中をすばやく確認をする。
強盗が、三人見えた。
フリッツは両手で剣を握り、ノセットに馬乗りになろうとしている大男に突きかかった。
腕に、鋭い切っ先が脇腹の肉をえぐり、柔らかいなにかにぐっさりと突き刺さる感触が伝わる。
「グッ!?」
「――!? てめっ!」
フリッツは体ごと剣を抜くと、大声を上げた男にもう一度突きかかった。
剣術もなにもない、両手で握った剣を構えたままぶつかるだけの動きだったが、剣はその男の胸に深々と突き刺さる。
一仕事を終え、男は酒を飲んでいたらしい。慌てて机の上に置いていたナイフに手を伸ばしたところだった。
「フリッツ! 危ない!」
ノセットが声をあげた時、フリッツの背中に何かが強く当たった。
最初、フリッツは体当たりされたのだと思い、一瞬遅れて、背中に異物感を感じ、何かが刺されているのだと悟った。
「ぐっ」
剣を抜きながら背中で突き飛ばすと、背中から異物感が消えた。
振り返ると、そこに最後の一人らしき男が、先程までフリッツの背中に刺し込まれていたのであろう、血の着いた短剣を持って立っていた。
「へへ……」
その男は、仲間がやられたことはどうでもいいらしかった。
ただ、机の上に置かれている、フリッツがノセットに残した金貨の箱を、物欲に染まった目でチラチラと見ている。
独り占めできると考えているのかもしれない。
「……さっさと死ね、忙しいんだからよ」
男は、フリッツを見ながら、手の中のナイフを油断なく構えている。
自分からは来ず、背中の傷でフリッツが失血死するのを待っているようだった。
フリッツは勝てる気がしなかった。なにせ、剣を握ったこと自体、初めてのようなものだ。
不意打ちで、突っ立った男を刺したりするのならともかく、相手は構えてこちらと戦う気でいる。
どうやって戦ったらいいものか、見当もつかない。
「このっ」
そのとき、ノセットの小さなかけ声とともに、横合いから見覚えのある大きな花瓶が投げられ、男の頭にゴツンと当たった。
「いっ」
と、男がうめき、花瓶が床に落ちて割れたとき、フリッツは一か八か動いた。
背中を刺されたせいか、うまく体に力が入らない。体ごと力強く飛び込むことができず、ただがむしゃらに剣を大きく振った。
フリッツが振った剣は、慌ててこちらを振り向いた男の肩に浅く当たり、肩の上を滑ると、首筋を深く斬って抜けた。
「ぐっ……くそっ」
男は自分の首を片手で抑えながら、まだ短剣を握っている。
だが、首の血管を完全に切断できたようで、その指の間からはとめどなく血が流れていた。
構えあっているうちに、男は次第にフラフラとしはじめ、
「―――くそお」
最後に言って、足に力を失ってその場に崩れた。
「……ふう」
フリッツは、一つため息を吐くと剣をその場に捨て、ふらふらと二歩あるいてソファに寄りかかった。
「フリッツ!」
ノセットが走り寄ってくる。
「……ミュセットは?」
「大丈夫、隣の部屋のクローゼットに隠れているわ」
「……出すなよ。すべてが片付くまで、この部屋を見せるな」
このような凄惨な現場を、ミュセットの目に焼き付けたくはなかった。
できれば一生涯、戦いなどとは無縁な場所で生きてほしかった。
「わかった、わかったから……ああ、どうすれば……」
「――糸と針はあるか?」
「う、うん……」
「縫ってくれ。助かる……かもしれない」
フリッツは、意識が朦朧としはじめていた。
不思議なもので、刺された痛みは疼く程度で、それほどの激痛は感じなかった。
「やってみる。向こうを向いて背中を見せて」
時間の感覚がなくなっている。耳も遠くなっているのか、ノセットが裁縫道具を用意する音も聞こえなかった。
思考が鈍っている。背中に針が刺さっても、自分が今なにをされているのか分からなかった。
「ノセット」
「喋らないで」
「ノセット、愛してる……愛してる。愛してるんだ」
最後まで普通の結婚をしなかった負い目からだろうか。
フリッツは、最後に残った単純な思考で、それを伝えたくて仕方がなかった。
「知ってるわ。あなたが私を愛していることくらい」
「死にたくない……」
「分かってるわ。あなたは死なない」
「死にたくない。ミュセットの成長を見たい……」
なぜ戦争などに行ったのだろう? ノセットはあれほど止めていたのに。
家族より仕事を優先して、自分は何を為したのだろう?
縫い終わったのか、ノセットの顔が見えた。
血を失いすぎたのか、霞んで見えた。
ああ、そうか。
家族を守れたのか。
「愛してるよ、ノセット」
「分かってる。分かっているから、喋らないで! 今、お医者様を呼んでくるから!」
死にたくない。
蜘蛛の糸のようにか細くなっていたフリッツの意識は、ぷつりと切れるように、そこで途切れた。
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