第268話 総督と統領*

 会戦の翌日、フリッツは馬を替え、少数の護衛に守られながらノイミラベルを発っていた。

 そして、昼過ぎに開かれた市門から中に入ると、ガリラヤニンは異様な雰囲気に包まれていた。


 通りを大荷物を持った人々が満たしている。一様に必死の形相で、他人の慌てる姿を見て、自分も慌てているようだった。

 有り体に言えば、彼らはパニックになっている。

 手の空いている男は何かに急き立てられるように走り、運よく荷車を手に入れた者は家財を山と積み、中にはタンスを担いで逃げようとしている老婆の姿まで見えた。

 全員が全員、それぞれ、自分だけは助かろう、財産を守ろうと必死になっているようだ。


 だが、このような有様では防衛どころではない。


「おいっ!」


 フリッツは、自らを迎えるために出てきていたガリラヤニン郷土軍の司令官を睨みつけた。


「どうなっている。いつからこの状況なんだ」

「どうって、昨日からです。昨日、敗戦の報せが入って、それから……」

 フリッツは昨夜、ノイミラベルにて状況を市長に詳細に指示していた。

「だれも市民を統制していないのか……」


 フリッツは信じられない思いでいた。


 こういった場合、情報を管制して密に漏らさず、市民を統制しなければならない。

 敗戦の報せなどは、政庁と市庁舎、そして軍の段階で止めておき、嘘の布告を出してでも不安がる市民を秩序の下に留めて置かなければならない。


 それをしなければ、このように無秩序な混乱ばかりが広がり、幅に限りのある道路をパニック状態の市民が満たし、行動が無意味に制限されてしまう。

 市民を逃がすなら逃がすで、老婆からはタンスを取り上げ、陸を歩かせるのならばルートを決めて案内をし、船を使うのなら船を接収して人々をつめこみ、粛々と逃がさなければならない。


 このように無秩序状態でいさせるのは、下の下としかいいようがない。


「市長のベルビオ・ハトランは? もう逃げたのか?」


 逃げてしまって最高責任者がすでに居ないのであれば、まだ考えられる状況であった。


「いえ、市庁舎におられるはずです。海から逃げたのでなければ」

「……そうか。分かった。確認するが、お前たちは何も指示を与えられていないのだな」

「はい」


 信じられない。

 フリッツは頭をかかえたい気分になった。


「なら、陸路で逃げようとする市民たちを、クルルアーン街道のほうに誘導しろ。会戦で逃げ残った兵はノイミラベルにいる。そちらのほうがまだ抑えが効いているはずだ」

 クルルアーンへ通じるクルルアーン街道は、ノイミラベルの勢力圏下を通る。

 この有り様では、逃げている市民たちはなにも武装をしていない。野盗に襲われたらひとたまりもないだろう。

「は……しかし」

「命令系統が違うのは分かっている」

 彼らガリラヤニン郷土軍は、ガリラヤ連合ユニオンの軍とは違う。それとは別に、ガリラヤニンを防衛するために市長をトップとして成立している軍だ。

「だが、周辺地域のパトロールは君たちの仕事だろう。その名目で騎馬隊を出せ。もし強く咎められたら、全責任は私に被せてもらって構わない」

「――はっ。了解しました」


 郷土軍司令官は敬礼をした。



 *****



「ベルビオ殿!」


 そう声を荒げながら扉を開け、市庁舎の執務室に入ると、フリッツは自分の気持ちが急速にしぼんでいくのを感じた。


 ベルビオは、重い重厚な執務室に向かい、焦る様子もなく、自分の爪を切っていた。


「ベルビオ殿。街の様子は、一体なんなのですか。説明してください」

「お前が負けたからだろう?」


 ベルビオは、なにをいっているのか、というふうに言った。


「お前が戦いに負けたからこうなっているのだ。なにをしに来た」


 冷たい目でフリッツを見据えている。


「私が負けようが、国が亡びようが、政治家には果たさなければならない責任がある。のんびりと爪を切っている場合ではないでしょう」

「今更何をやる? ここに軍勢が押し寄せてくるのに」

「民を導くのが政治家だ。あなたが導くべき民は外で混乱の只中にあり、秩序を求めている」


 虐殺かなにかをされて死に絶えてしまったのなら分かる。だが、ガリラヤニン市民は、現実に大半残っているのだ。

 将来的にはユーリ・ホウの支配を受けることになるのかもしれない。だが、今なにもしなくていいわけではない。


「この時節に仕事を放り出すのなら、一体、あなたはなんのために政治家になったのですか」

「親が政治家だったからだ」


 ベルビオはぽつりと言った。


「私は、自分が政治家に向いていると思ったことなどない。だが、それが家業なのだから仕方がないだろ。長男が家業を継ぐことは、それほど非難されるべきことか? 大工だろうと、百姓だろうと、同じように継いでいるだろうが」

「……知るか」


 フリッツは怒りがこみあげてきた。


「そのせいで民が迷惑している。今仕事をしないのであれば、今すぐ辞任をして事務局長に政権を渡せ」


 ガリラヤニンの制度では、市長が倒れた場合は副市長が役目を引き継ぐ。副市長も倒れた場合は、官僚のトップである事務局長が役割を一時的に担うことになっている。

 ベルビオは、オラーセム政権時代に副市長だった。副市長もその座を降りるなら、次は事務局長が市長権を握ることとなる。


「やつなら勝手にやっているから安心しろ。俺は市長の座を降りるつもりはない」

「なぜだ? 国外に逃げるために職権を使うからか?」

「俺は逃げるつもりはない。お前に話すつもりもない。今は何もするつもりもないし、負けたお前にあれこれ指図される謂れもない。早くここから立ち去って、事務局長にでも会いに行け」

「……分かった」


 このように敗北の責任をなじられるのは想像がついていた。

 言い訳しようというつもりもない。


 ベルビオがなにを企んでいるのか知らないが、これ以上追求する気は起こらなかった。

 どんな言葉も、この男には届かないだろう。


「何をするつもりかは知らないが、国を売るなよ」


 そう言い放つと、フリッツはベルビオに背を向け、執務室から立ち去った。

 重厚なドアがバタンと閉じた瞬間、一つの言葉が脳裏によぎった。


”政治家というのは、愛する国民に要らぬと言われながら、国のために尽くす仕事だ。”

”ひとたび失敗をすれば、どんなに国を愛していても……彼らは使い古された雑巾のように、政治家を捨てる。”


 在りし日のオラーセムの声色が、そのまま耳を打ったようだった。

 ああ、そうか。

 今、私はそこにいるのだ。とフリッツは思った。


”愛するのをやめた政治家は、己のために国を使うようになる。そうなったら、政治家をやめるのだ。”


 ああ……。


 自分は国家に尽くしている。その実感が、フリッツにはあった。


 ユーリ・ホウは、勝ったあと、この国を統治するのに自分が適任だと言っていた。

 実際、それは政治的な駆け引きではなく、事実そう思っているのだろう。


 このままガリラヤニンに残ってユーリ・ホウと交渉すれば、ユーリ・ホウは自分を便利に使うはずだ。

 そこそこ役に立っていれば、それなりの権力と、家族を養うに苦労しない金をくれるはずだ。


 だが、国民から石を投げられ、今のようになじられ、それでも国民を愛し続けられるだろうか?

 いつか己のために国を使うようになるのではないか?


 分からなかった。

 フリッツには、自信がなかった。


 オラーセムは、そうなることを危惧していたのか……。

 フリッツは、痺れるような感覚とともに、それを考えていた。

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