第267話 敗者の帰路*

「オルセウス閣下! 竜帝国軍が、進路を変えて撤退。敵軍はこちらを捉えたようです」


 退却戦の帰路、その報告が入ると、馬上のオルセウスが表情を固くしたのが見えた。


「どういうことだ」


 オルセウスが聞き返す。同じく馬上にあるフリッツは、それを見ているだけで、口出しはしなかった。


「分かりません。とにかく、竜帝国軍はカービナス方面への街道に退却をはじめ、敵軍はそれを追撃していません。現在はフリューシャ王国軍が最後尾で戦っています」


 フリューシャ王国軍は、戦いの最中さいちゅう、予備部隊として丸々後方に残っていた。砲撃は受けたし、最後の突撃にも参加したが、殆ど消耗していない。

 フリッツは撤退段列の順番までは知らなかった。だが、系統としてはガートルートの教皇領命令系統の下に組み込まれているので、彼の命令で後尾を担当させられていたのだろう。

 教皇領の諸軍は、本隊が森の中に入り込んでいたため、撤退が遅れてしまった。


「ふむ……」


 フリッツは、ポケットから懐中時計を取り出して、時間を見た。現在は午後四時半を指している。

 そろそろ日が暮れはじめる。


 敵軍と何かしら取り引きをしたのだろうが、どちらにせよ竜帝国軍は十分に時間を稼いでくれた。

 アーディル皇子を失ったのは心苦しいが、そのことで竜帝国軍が率先して被害を受ける役目を受けてくれたのなら、こちらとしては嬉しい誤算とまで言える。


「オルセウス上級大将」

 フリッツは言った。

「我々は夜を徹して行軍し、このままノイミラベルに入りましょう。援軍の方々には、ガリラヤニンまで一気に撤退すると伝令を出してください」


 ノイミラベルは大都市だが、ガリラヤニンに直通する街道から、少し西にずれた街道を進まないと辿り着かない。

 そのような嘘の情報を流せば、ガリラヤ連合の本隊はノイミラベルに逃げおおせ、教皇領軍は追撃を受けながらガリラヤニンに向かうことになるだろう。


「……フリッツ閣下、どういう意味でしょうか?」


 友軍を騙して被害を増大させるというフリッツの提案に、オルセウスは睨みつけるような顔をして、言外に抗議をした。


「この戦争は、我々の負けです。クルルアーンの軍は、黒海東岸を通ってこのまま帰国するつもりでしょう。教皇領も……彼らは勝つために戦っていたのです。負けたと分かれば、兵を温存しなければなりません。無駄な防戦には参加せず、帰国する可能性が高い」

「……なるほど」

「我々には、まだやることがあります。軍を温存しておけば、まだ交渉ができる。軍を失っては何もできなくなる」

「そのために友軍を犠牲にしても?」


 盟友とまでは言えないまでも、肩を並べて策を練り、ともに戦ったガートルートたちを見捨て、殿軍でんぐんの役割を押し付けるのは、フリッツにとっても心が痛むことであった。

 だが、フリッツは一人の人間である前に、国を担う政治家だった。一人の人間の良心など、国という重みの前では一握いちあくの軽石に等しい。


「そうです。友軍を犠牲にしても。我々は国家に仕えなくてはならないのです」

「……わかりました。そのようにしましょう」

「お願いします、オルセウス殿。ノイミラベルに入って一休みしたら、軍を各都市に分散させてください。包囲されて一網打尽にならないように。都市はいくら見捨てても構いません」

「兵を分散……? しかし、ガリラヤニンは」


 ガリラヤニンこそは敵が目指す目標であり、絶対に守らなければならない。

 とオルセウスは思っているのだろう。


「ガリラヤニンの防衛は、現駐屯兵だけで十分でしょう。城壁は大砲で崩されるし、海も船を燃やされる。大兵力で守ったとしても、どうせ陥ちます。それとも、防衛できる自信がおありなのですか?」

「……いえ」


 オルセウスは苦渋の顔で呟いた。


「なら、敵にとっては各都市に分散されたほうが厄介なはず。こちらが、ユーリ・ホウにとって厄介な敵で有り続けることが重要なのです。

 ガリラヤニンを攻略しても、各都市にこもって抵抗する。

 ガリラヤニンをくだされても、連合ユニオンは滅びない。滅ぼすためには、連合都市を一つ一つ攻略しなくてはならない。その気概を示すのです。

 我々を滅ぼすための苦労が、降伏の条件を引き出すときの天秤の重りになる……。違いますか?」


 フリッツが言うと、オルセウスは頷いた。

 空は陰り始めている。オルセウスの目は、信頼感を増して自分を見てくれているように、フリッツは感じた。


「仰るとおりです。統領コンスル閣下」

「では、その通り手配してください。私は先に馬を飛ばしてノイミラベルに入り、市長と話したあと、すぐにガリラヤニンに向かいます。オルセウス殿とはここでお別れです」

「ガリラヤニンに?」


 オルセウスは、はてな? という顔をした。


「ユーリ・ホウは、やはりガリラヤニンを目指して来るでしょう。私は降伏交渉の窓口フロントにならなければならない。包囲されてしまってからでは入り難くなります」

「……そうですか。確認しますが、私は各地に兵を分散させて、抵抗を試みるということでいいのですね?」


 オルセウスは指示を正確に理解してくれているようだ。


「はい。くれぐれも、都市に立て籠もって撃滅されないように……敵がガリラヤニンに迫ったら、背後を脅かしていただけると助かります」

「分かりました」

「それでは、私は行きます。上級大将、ご健勝をお祈り致します」

「はい。あなたも」


 オルセウスはフリッツを送り出すように、軍式の敬礼をした。

 フリッツは、馬を飛ばそうと、拍車のついた靴で脇腹を蹴ろうとした。


「フリッツ殿」


 そこで、オルセウスはもう一度呼び止めた。


「――? なんです?」

「歴史は敗者に厳しい。後年の歴史家たちは、あなたを厳しく評価するかもしれませんが――私は、あなたを支持しますよ。今このとき、あなたが統領コンスルで良かった」

「――そうですか。いや、嬉しいです」


 フリッツは、大昔に憶えた一つの感動を思い出していた。


 最初に勝った選挙。


 あれはガリラヤニンの市議会議員の選挙だった。

 当選を告げる選挙管理員の声。壇上でお決まりの挨拶を述べて、降りてくると、フリッツの前に出て手を握った老婆がいた。


「あなたに投票したわ。頑張ってね」


 その老婆のしわくちゃの手の暖かかったこと。

 その時フリッツは、自分を信頼して投票してくれた、この人のために頑張ろう。一生懸命、政治家という職に尽くそう。と心から誓ったのだった。


 政治家として擦れていくうちに、そのような気持ちは忘れてしまっていた。

 今、思い出した。自分がその時と同じ気持ちになっていた。


「ありがとうございます。きっと、頑張りますから」


 老婆に返したのと同じ言葉を、上級大将に投げかけると、フリッツは今度こそ拍車をかけ、馬を走らせていった。

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