第247話 ガリラヤニンでの一幕 後編*

 督戦隊の使者を帰したあと、フリッツ・ロニーは政治的作法の一環として、政庁と隣接している市庁舎に顔を出した。

 ここはガリラヤ連合ではなく、ガリラヤニンという都市を管轄している庁舎で、ガリラヤニン総督が仕切っている。


 フリッツはガリラヤ連合の副統領である。これは統領コンスルに指名されて決まるもので、選挙などを経て席を得るものではない。

 統領コンスル連合都市ユニオン・シティが一人づつ出す代表がガリラヤニンに集まり、投票をして決める。都市には大小があるので、一都市の持つ票の重さは違うが、よほどの傑物がいない限りガリラヤニンの政治家が選ばれるのが通例になっている。

 やはり連合の中ではガリラヤニンが圧倒的に大きい中核都市なので、それが伝統になってしまっているのだ。


 現在は、老齢のオラーセム・ハトランがガリラヤニンの総督とガリラヤ連合の統領を兼任している。二つの役職を別々の政治家が担うこともあるが、兼任することのほうが多かった。

 ただ、それだと余りに仕事量が増えるので、その場合は副統領と副総督というポストが実務の大部分を担当し、重要な役割を演じることになる。

 ガリラヤニンの総督業務は、現在ベルビオ・ハトランという副総督が担っている。彼はオラーセムの甥っ子である。

                             

 立場上、フリッツはガリラヤ連合全体の代表代行をしているので、総督代行と比べれば重職を担っていると言えるだろう。

 国家としての外交もフリッツの職域なので、督戦隊の男はフリッツに会いに来た。

 だが、ガリラヤニン総督というのはただの地方長官ではないので、教皇領から使者がきたとなれば、一応は伝達内容を報告して情報を共有しておくのが、角の立たない処世術というものであった。


 *****


「なるほど。それは、ゲリジムに援軍を出せと暗に言われてるのではないか?」

 市庁舎の総督室の椅子に腰掛けたまま、ベルビオが言った。

 ベルビオ・ハトランはフリッツよりだいぶ年上だ。もう五十歳に差し掛かっている。

「いや、そうではないでしょう」


 ベルビオは、ハトラン本家の現家長ということになっている。

 これには少しややこしい経緯があって、老齢のオラーセムは家長ではないのだ。


 オラーセムには兄がいて、若い頃に兄のほうが本家を継いだ。

 二人は政治家兄弟で、当時は兄のほうが優秀という評判だったようだが、大器晩成型だったのか、最後にはオラーセムのほうが傑出した政治家として多くの実績を残した。

 家督の騒動は五、六十年も昔の話なので、さすがにフリッツもその頃の事情は詳しく知らない。

 兄のほうはとっくの昔に死んでしまっているので、もういない。ベルビオは、その兄の息子なので、ハトラン本家の正統な嫡流ということになる。


「なぜだ?」

「なぜだ、とは?」

「どうして、そういう意図でないといい切れる」


 フリッツは、少しうんざりした気分になった。


「エピタフ殿は、そういった迂遠な指示をなさる人ではないからです」


 フリッツは納得させるために適当なことを言った。

 ベルビオ・ハトランは無能な男ではないが、政治に関する感性が鈍感なところがある。

 少しずつ的が外れているというか、固執する部分がズレており、普通に理屈を説いて納得させるのは難しいと経験上分かっていた。


 そもそも、政治的な駆け引きと軍事的な指示というのは質が違うもので、前者は迂遠な言い回しが好まれる場合があるが、後者はそれを嫌う。

 戦場で、突撃とも退却とも取れるような曖昧な言い回しをする現場指揮官がいるだろうか?

 エピタフ・パラッツォが援軍を出すなと言っているのであれば、それは援軍を出すなという意味であって、逆の意味を検討する必要はない。


「これは重要な問題だぞ。教皇領の機嫌を損ねれば、援軍が来ない可能性もある」

 それは私が考えることなので、お気になさらずとも結構です。と言いたいのを、フリッツは飲み込んだ。

「大丈夫です。間違いありません。ご心配ならば、使者はまだ出発していないでしょうから、船に行って尋ねてみても構いませんよ」

「すまないが、そうさせてもらおう」

 馬鹿げたことだが、ベルビオは本当にそうするだろう。過去に連絡の不備で痛い目を見てから、気になったことは直接確かめないと気が済まないようになってしまった。

「それでは、邪魔をするのもなんなので、私はこれで失礼します」

 と、フリッツは応接ソファから腰を上げた。

 そもそも事務連絡に来ただけなので、長く居座るつもりもない。

「今日も見舞いにいくのか?」

「ええ、そうするつもりです」

「オラーセム殿によろしくな」


 彼にとってオラーセムは叔父に当たるが、ほとんど見舞いには来ない。

 フリッツは特別な事情があって日参しているが、立場上の上司に当たる人間を、一年に一、二度しか見舞いに来ないというのは、さすがに冷淡な話であった。

 彼の父親は弟を恨んでいたという噂もあるので、父親からの影響もあるのかもしれない。


 *****


「フリッツさま、いらしたのですか」


 オラーセムの居室には、マージェリー・ロニーが来ていた。

 彼女はフリッツの妻である。

 彼女は、今日も修道女シスターの服を着ていた。禁欲的な黒い服に、黒いベールで頭髪を隠している。


「フリッツ。戻ったのか」

 オラーセムは、少し驚いたような顔でフリッツを見た。

「ええ、なんとか戻りました。ご無沙汰してしまい申し訳ありません」


 オラーセムの呆けは、フリッツが第十五次十字軍に出征する少し前から、いちじるしい物忘れという形で症状が現れはじめた。

 その時は、オラーセムはまだ政務についており、フリッツは全権委任された連合の利益代表者として従軍した。


 不思議なもので、オラーセムにはフリッツが戦争に行った、という記憶は残っているが、確かな記憶はそこで終わっている。

 それ以降のことは思い出したり、思い出さなかったり、日によって様々な様相を呈する。


 少し前までは、シビャクの会戦で大敗北を喫し、生死が不明という頃の認識だったが、今は症状が進行してその頃の記憶が失われたのか、大敗北を知らされた前後の記憶はなくなってしまったようだ。

 オラーセムの中では、フリッツは従軍して出ていって、仕事をして帰ってきたということになっている。

 最初こそ突然の帰還に驚いていたが、何度も顔を合わせているうちに記憶の残滓が蓄積したのか、今はフリッツが会いに来ることに対してはそれほどの驚きはない。


 記憶の持ち具合は日によって様々だが、ほとんどのことは忘れてしまうので、政務はとても務められない。

 今朝の食事の内容は夜になれば忘れてしまうし、同様に今日紹介を受けた人物の顔も、明日になったら忘れてしまうことがほとんどだ。

 安定して顔と名前を覚えていられるのは、呆ける以前から交際のあった人物だけだった。


 それでも、一年くらい前までは一から概要を説明して判断を仰ぐようなこともあったが、現在ではそういった判断能力も著しく鈍ってしまっていた。

 かつてのオラーセムは、大抵の政治家が避けて通る難しい問題を果断に切って捨て、一部には恨まれながらも快活な人柄で人々に愛された政治家だったが、現在はその面影はない。


「マージェリー。オルターに言って酒を持たせなさい。いい酒が手に入ったんだ」


 フリューシャ王国のシャティール・ルージュというワインだ。四十年前のもので、とても口当たりがよい。

 これを手に入れて試飲したとき、フリッツが帰ってきたら飲ませようと思った感情がよほど強かったのだろう。オラーセムにはその記憶が残っていて、フリッツがここに来るたびに勧めてきた。


 専門家によると、オラーセムの病状は世の中にはありふれたもので、日常の記憶はほとんど消えてしまうが、嫌な思い出だけは強く残るらしい。

 なので、フリッツは何百回と同じワインを飲んでも、一度も断ることをしていなかった。


「はい。それでは、お伝えしてまいります」


 マージェリーは、そう言ってぺこりと頭を下げると、用件を伝えるために出ていった。

 シャティール・ルージュはとっくに飲み干してしまったが、ボトルは捨てず、同じような味のワインを詰めてある。それを持ってくるはずだ。


「……すまんな。あんな服まで着て。どうにも、あれのイイスス狂いは直らんらしい」


 マージェリーのことに話題が及んだ。

 彼女は、オラーセムの娘だが、フリッツが婿に行くのではなくロニー家に嫁に来た。

 ロニー家はただの中級官吏の家柄で、歴史などはない。普通は逆なのだが、結婚した当時のオラーセムには、ハトラン家以外の政治家の家系が立ち、競争することが将来的にガリラヤニンの発展に繋がるという考えがあった。

 だが、その目論見は実らなかった。


「大丈夫です。気にしていませんから」

「……夫婦生活はどうなのだ? 上手く行っているのか?」

「そこは順調です。ご心配なく」


 まったく順調ではなかったが、フリッツは嘘をついた。マージェリーとの間には、ここ数年性交渉はない。子どもも産まれていなかった。

 マージェリーは元々性について潔癖な性格だったが、結婚後にイイススの教義にのめり込むと、それがエスカレートしていった。

 性交渉を持ちかけると、強姦に抗う乙女のような態度を取るようになり、自然と夫婦の営みはなくなった。


 これが結婚前であったら、女子修道院に入って修道女シスターになったのだろうが、結婚後ではそうもいかない。

 女子修道院は純潔でなければ入れないというわけではないが、男と婚姻関係にありながら入れるものではない。

 入るのであれば、せめて離婚をする必要があった。


 離婚をすれば、教会で行った婚姻の誓いを破ることになる。修道院に入るために自分から神前の誓いを破りにいくというのは、本末転倒な話だ。

 マージェリーから離婚をすることはできないし、信仰というのは内心の問題なので、フリッツに離婚をしてくださいとせがむのもおかしな話になる。

 そういう理屈があるからか、内心では離婚して名実ともに修道女シスターになりたいのではないかと思うこともあったが、そのような話がマージェリーから出たことはなかった。


「シヤルタの分割はどうなった?」

「ええ、幸いなことに、フィルーシェとノイテトラス他、八市を交換で得ることができました」

 これはもちろん嘘だった。不自然でない適切な範囲で、十分な成果と思われる植民都市を確保したことにしている。

 どうせ……と言っては良くないが、オラーセムは明日になったらこの会話を忘れている。

 ガリラヤ連合が直面している厳しい現実を突きつける意味はなかった。

「そうか、そうか。十分な成果だな」

「ご報告はおいおい」

「いや、報告になど来なくてもいい。連合のことはお前にすべて任せた」

「……はい。立派に務めさせていただきます」

「うむ。お前は儂が手塩にかけて育てあげた政治家だ。なにも心配はしていない。ただ、儂の真似はするなよ。何度も言ってきたが、政治家は自分の信念がなければねずみと同じだ」

 それは、オラーセムが健全であったころからの口癖だった。

 自分のやり方が悪いものだったから真似をするな、という意味ではない。オラーセムは、信念のない政治家という存在自体、つまらない存在だと言っている。

 つまらない仕事をする、つまらない人間にはなるな。ということであった。

「そうですね。自分なりに、思う様やってみようと思っています」

「うむ、それがいい。それでこそフリッツだ」


「失礼します」

 そう言ってドアを開けたのは、オラーセムの屋敷に古くから務める執事、オルターだった。

 手には見慣れたワインの瓶を持っている。

「おお、来た来た。ほら、飲んでみなさい」

 早速といった具合に、注がれたワインのグラスを勧められる。


 フリッツは、それを傾け、飲み込んだ。

 そして、少し虚しい気分になりながらも、いつものように決まった感想を言うのであった。


 *****


 フリッツは、オラーセムの屋敷を辞したあと、あるところに向かった。

 夏の夜、もう外は暗くなりつつある。

 なんの変哲もない家の扉を叩くと、ドアが開いた。


「おかえりなさい」

 温かい女性の声がフリッツを迎え入れる。

「ただいま」


 そう言って、いくばくかの罪悪感とともに敷居を跨いだのは、ノセット・メトリーゼの家だった。

 ノセットはフリッツが二十の時、市庁舎でオラーセム担当の連絡係の仕事をしていた時に出会った女性で、その頃付き合っていた。

 二十五の時、オラーセムに見出されたフリッツに、マージェリーとの政略結婚の話が出た時、フリッツは断らずに頷いた。

 その時に別れたのだが、マージェリーとの夫婦関係が冷えると、再び会うようになった。


 要するに、不倫相手であった。


「今日はどうだった?」

「まあ、大変な一日だったよ。疲れた」

「……じゃあ、泊まっていく?」

「いや、すまないが、戻ることにする」


 泊まるのは週に二日までと決めていたので、今日は帰る日であった。

 疲れたとはいっても、厄介な案件が飛び込んできて気が揉まれ、本当にどうしようもないほど疲れたというわけではない。


「それじゃ、腕によりをかけた料理でねぎらってあげなくちゃねっ」

 フリッツをせめて励まそうとしてか、ノセットは元気づけるように言った。その心遣いが嬉しい。

 フリッツは靴を脱ぎ、居間へ向かった。

「今日はどんな料理?」

「ま、いつものパスタとサラダなんだけど」

「それがいいんだよ」

 そう言うと、ノセットは嬉しそうにニッコリと微笑んだ。


 お世辞ではなく、半ば庶民の家で育ったフリッツにとっては、それが一番良いのだった。

 フリッツは栄達した政治家として、ガリラヤニンの一等地に十分な広さの家を持っているが、そこでの生活はどうしても体に馴染まない。

 使用人を何人も雇わないと保てない家より、家族数人で隅々まで手の届く家のほうが居心地がいい。

 オラーセムのように生まれついての政治家だったらそんなことはないのだろうが、フリッツは結局、そうはなれなかった。


「じゃ、作るね」

 ノセットはエプロンを締め、台所で動き始めた。


 ソファに座って、料理を作るノセットをゆっくりと眺めていると、ひび割れた砂に温かい湯が充溢していくような、満たされた気分になった。

 住処すみかに帰ってきたという感じがする。

「おとーさん?」

 絵本に夢中だった娘が、本から顔を上げて近づいてきた。

 彼女はフリッツの唯一の子どもで、ミュセットと名付けた。

「おかえりー」

 微笑むと、乳歯の抜けた歯が現れる。

「ただいま。絵本を読んでたのかい?」

「もういいの。ひまならものがたりを読んで」

 と言って、本棚の一番下の段から子ども向けの本を持ち出してきた。

「いいよ。どこからだ?」

「わかんない」

 分からないのでは、読みようがない。

「エーリヒが魔法使いの話を聞きに行くところからよ」

 台所で話を聞いていたのだろう。ノセットが声をかけてきた。

 これは有名な物語なので、それだけ言われればどのシーンかは分かる。中盤の少し手前だろう。

 本の五分の二あたりのページを開いて、そこから少し探すと、目的のシーンがあった。

「エーリヒは、緑色の薬をもらって言いました」

「そこじゃない。もっと先」

「赤色の薬のところか?」

「そう。けんがもえるとこ」

「エーリヒが魔法使いからもらった赤色の薬を剣にかけると、剣はまたたくまに燃えあがりました。これで竜を倒せるぞ――」

「……………」

 フリッツが朗読を始めると、ミュセットは途端に黙って、物語に集中しはじめた。


「ごちそーさまでした!」

 ミュセットは大きく食後のあいさつをした。

「茄子、食べられて偉かったね」

 ノセットが褒めてあげた。今日のパスタには、大きく切られた茄子の煮浸しが入っていたのだ。

 渋りながらも食べられたのは偉い。

「うん」

「美味しかったよ。ごちそうさま」

 心の休まる家庭的な料理は、本当に美味しく感じられた。

 自邸での食事は、マージェリーは信仰の問題から薄い塩味のパンと野菜だけのスープしか食さないので、どうしても寒々さむざむとしたものになる。

 それに比べると、一家三人で食べるこの食事は、この上なく贅沢に感じられた。

 これで、明日も頑張れそうだ。

「おそまつさまでした」

 ノセットは嬉しそうだ。

 ノセットの笑顔を見ると、本当に気が休まる。色々と言いたい愚痴はあるだろうに、自分が疲れているときはそれを飲み込んでくれる。その心遣いが嬉しかった。

 汚れた皿を下げると、ノセットは残り火で沸かしていた湯でお茶を淹れはじめた。しばらくして、茶を大きなマグカップに入れ、食卓に置いた。

「……これを飲んだら帰らなくちゃ」

 フリッツはポツリと言った。

「えーっ、帰っちゃうの?」

 素直なミュセットが不満を露わにした。娘にこう言われるのは、悲しいながらも、父親冥利に尽きる。

「だめよ。お父さんはお仕事なんだから」

「ごめんな」

 そう言いながら、フリッツは娘の頭を撫でた。

 仕事どころか、娘に恥じる理由で帰るわけだが、それを娘には知られたくなかった。


 家に帰れば、マージェリーが自宅に設けた礼拝室で祈っているだろう。

 少し気鬱に思いながらも、フリッツは惜しむようにお茶を飲んだ。

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