第227話 エンリケ

 キャロルの形ばかりの国葬が終わった後、俺は寝室で酒を飲んでいた。


 忙しくなかったわけではない。


 いままでは、過剰なほどの仕事が終わると、泥のように眠るのが日課だった。

 だが、今は過剰労働をしたあとでも眠れないので、仕事が終わった後も、酒を飲んで時間を潰すようになった。


 そして夜中にやっと浅い眠りを得て、朝起きる。

 それで、なぜか昼間も眠くならない。


 ただ、眠れない夜を一人で過ごすのは辛すぎて、俺は城の職員も寝静まった夜に、酒を飲み続けていた。


 俺の頭がおかしくなっているのか、はたまたこの体の体質なのか、酒を幾ら飲んでも良い気分にはならない。

 ただ、思考が少し鈍り、悔恨が襲ってくる頻度が減る。

 それだけで、酒を飲む理由は十分だった。


 十分な水準の酔いを覚まさないように、漏れる器に水を足すように、少しづつ酒を体に入れてゆく。

 少なくとも、酒を飲んでいるうちは退屈を感じず、悲しみに潰れることもなかった。


 仕事が終わった後、一人用のソファに座って、三時間ほど酒を飲み続けた頃だった。


 キィ――と、寝室のドアが開いた。

 目を細めてそちらを見ると、そこに立っていたのは一人の美女であった。


 どこか扇情的な服を着た、エンリケだ。


「――どこから忍び込んだ」

「そんなこと、どうでもいいじゃないですか」


 俺は、ウイスキーをグラスの縁まで注ぎ、一気に飲み干した。

 喉に焼け付くような熱さを感じ、鼻腔を独特な芳香が突き抜ける。


 こんな阿呆の相手をするには、酒を増やしたほうがよさそうだった。


「たくさん飲んでいるんですね」

「そうだな」

「私が暗殺者だったら、死んでいましたよ」

「やってみろ」


 飲んでも飲んでも酔えないんだよ。

 何度も試してみたが、昔と同じで、どうしても頭の芯のところが残ってしまう。


 相性が悪いのか、理性までは失えない。


 反射と動作性が鈍って、反応が遅れ動きは大雑把になるだろう。

 だが戦えないとは思えなかった。


 その結果死んでしまっても、別にいいという感じもする。

 未練も感じないだろう。


「だから好きですのよ」


 エンリケは近寄ってきて、しとやかに俺の頬に手を触れた。

 何かの秘術で調整しているのか、少し暖かく感じる、柔らかくしっとりと肌に吸い付く、女の手だった。


 エンリケは、そのまま一人がけのソファの肘掛けに尻を乗せ、足を俺の両膝に重ねてきた。

 邪魔だ。


「殺す気がないのなら、出ていけ」

「ふふっ、寂しいくせに」


 俺の頬を撫でた手が、首元の服の隙間に差し込まれる。

 胸板から肩まで撫でられた。


 なにも付けていない胸が、一枚の布越しに横顔に押し当てられた。


「やめろ、うざったい」

「キャロル様が死んでしまって悲しいんですよね? その穴を埋めて差し上げましょうか……?」


 耳元で囁いてくる。

 肘掛けの上で腰をずらし、俺の脇腹に密着させる。


 エンリケのすらりとした脚が、股の間に入った。


「いいんですのよ……この身体を好きにしてくれて。キャロル様にしたのと同じように、使ってくれて構いません」

「やめろ」


 足がやたら多い虫が、皮膚の上を這いずり回っているような気分だった。

 エンリケの舌が首筋に当たり、首筋を伝って耳まで舐めた。


「ふふっ、キャロル様の身体をどんなふうに弄んだんです……? どう啼かせたんですか……? 教えてくださいな……」


 酒が入っていなかったら、とっくに激高していただろう。

 だが、酒のせいでなにもかもが億劫で、黒々とした怒りが激しく渦巻きながらも、それは表に出ないでいた。


「やめろと言っているだろ……」


 いっそ願うような気持ちでそう言った。

 怒らせたいのはわかるが、こっちの気持ちも考えろ。

 いや、考えに考えたからこそ、キャロルを喪った傷が癒えていない今を選んで、挑発しに来ているのか。


「どうですか……? こことか、こことか、キャロル様には触られました……?」


 努めて無感動でいようと思っても、エンリケは声と身体を駆使して心に這入ってきた。

 舌で舐め、体を寄せ、服の中に手を入れてくる。


 限界が近かった。


「なぁ、ユーリ、上に乗っていいか……?」


 エンリケがキャロルの声真似をして、肘掛けから腰を浮かせて跨がろうとしたとき、俺の心は決壊した。


 解放された激流にながされるように、体が勝手に動き、エンリケの細首を掴む。

 立ち上がり、地面に投げつけるようにして、ソファの座面に首を押さえつけた。


 奥歯をギリリと噛みながら、なんの手加減もなく、エンリケの喉を握り潰して体重をかける。


「そんなに死にたいのか――?」


 エンリケは、細首を絞められながら、薄く微笑んでいた。


 これが望みなのであれば、お望み通り死を与えてやろう。

 俺はエンリケの細首を更に握りしめ、体重をかけた。


 エンリケの喉が、くっ、きゅう、と蛙のような声を発した。

 エンリケの口の端からあぶくのような涎が垂れ、頬を伝う。

 エンリケの狂気を発した目が、喉を絞める俺を満足げに見ている。


 エンリケの顔がしだいに青黒くなり、ビクビクと体が跳ねた。


 しばらくして、それも静まった。


 俺は、エンリケを殺してしまった。



 *****



 両手を胸に置いて心臓マッサージを施すと、十二回目の圧迫でエンリケは息を吹き返した。


「ガッ! かっ――――アッ、ハッッ!」


 もういいだろ。


 俺は一人がけのソファに戻り、グラスに新しくウイスキーを注いだ。

 本当、こいつにはうんざりさせられる。


「カハッ――ヒュー、ヒュー」


 あんな変態女でも体は生きたいと思っているのか、生き返ってみれば、全身で必死に呼吸をしていた。


 ひゅうひゅうと必死に空気を吸い、命を繋ぎ止めようとする体のはたらきをみて、俺は可哀想に思ってしまった。

 あそこまで救いようのない脳を持つと、体のほうが大変だ。


 俺は、なんの罪もないのにエンリケの脳をあるじに持ってしまった体に、深く同情をした。


 涙が出てきそうなほど不憫だった。

 こんな変態の無茶に一生付き合わなければならないなんて。


「無茶もほどほどにしておけ」


 つい一言口が出た。


 俺はウイスキーを一息で飲み干す。

 可哀想なのは俺の体もか。


 酒が効いてきて、怒りで興奮した感情が、次第にどうでもよくなってゆく。


「はぁ、はぁ……私は、死んだのですか?」


 喉を潰したからか、エンリケの声は酷く荒れていた。


「死んだよ。蘇生させた」


 上手く生き返ってよかったな。

 いや、悪かったのか。

 たぶん、三分ほどやって生き返らなかったら、すっぱりと諦めていただろう。


「あはっ、はははっ……」


 どうした、障害でも残ったのか。


「感動的でした……あぁ、生きているのが惜しい……」


 本当に救いようのない女だな。


「満足したなら帰れ」


 いや本当にもう帰れ。


「はい――あっ」


 エンリケは、立ち上がろうとして膝を折った。

 立てもしないらしい。


「はぁ……やれやれ……」


 俺は心底億劫になりながら、エンリケの隣に膝をつくと、背中と膝の裏を持ち、抱きかかえた。


「あっ――」


 そのままベッドに移動し、その上に寝かせる。


「今日はそこで寝ろ」

「はい……ありがとうございます……」


 なにがありがとうだ。

 散々迷惑かけやがって。


 俺はウイスキーの酒瓶一本とグラスを持って、別の部屋に向かった。

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