第228話 イーサ先生の準備室
俺はその日、イーサ先生の講義準備室に来ていた。
今では教養院の殆ど全生徒がテロル語を学んでいて、直接的にしろ間接的にしろイーサ先生の教え子のような形になっている。
彼女らの中で特に語学に秀でた者たちが、五万三千人の捕虜の尋問をしている状態であった。
戸を叩くと、
「どうぞ」
と声がしたので、中に入る。
イーサ先生は、引っ越しをして一回り大きくなった部屋で、書類仕事をしていた。
忙しそうだ。
「あっ、ユーリさん」
イーサ先生は慌てて椅子から立つと、深々とお辞儀をした。
「このたびは御戦勝、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀を返す。
「どうぞ、お掛けになってください」
勧められるまま椅子に座った。
「わざわざどうも……偉い立場になったのですから、呼びつけてくださったらよかったのに」
「いえ……師を呼びつける失礼はできかねます」
「そんな、師だなんて……でも、嬉しいものですね、そう言って頂けるのは」
イーサ先生は謙遜するが、俺はイーサ先生から沢山のものを教わった。
テロル語だけではない。イイスス教圏の地図や歴史、国々固有の国民感覚、イイスス教の教義や歴史……。
挙げればきりがない。
「イーサ先生、これを」
俺は、二センチはあろうかという紙束を机の上に置いた。
「これは?」
「捕虜の一覧です。指揮官レベルから上に限りますが」
「そうですか……ユーリさんは、彼らをどうするつもりなのですか?」
イーサ先生は心配そうに聞いた。
俺は、必要とあらば魔女どもを天然痘の苗床にするような人間だ。
イーサ先生はそれを知っている。
「身代金を取って、送り返します。それと、シャン人の奴隷との交換も考えています。人身交換のほうが少し安上がりになる設定で」
「なるほど……それで、私はなにをすれば?」
「途中にアルビオ共和国を挟まなければなりません。彼らは海賊兼商人ですので、買い叩こうとしてくるでしょう。おおまかな
やはり気が進まない仕事なのか、イーサ先生は、はぁ……と小さいため息をついた。
ただ、これは重要な仕事だ。
国家元首クラスならこちらも分かるが、例えば○○○公、とか×××辺境伯、といった名前だと、その貴族がどれくらいの大物なのか、なんとも区別がつかない。
同じ天爵でもホウ家とノザ家では兵数から予算から大幅な開きがあったのと同じように、十把一絡げでこういう爵位なので幾ら、という設定では上手くはいかない。
「分かりました、ただ、私の専門ではありませんので、知識には限りがありますよ」
「構いません」
「ところで、代わりと言ってはなんですが、できれば戦死者の方々に――」
「
俺が言うと、やはりそのことだったのか、イーサ先生は口に出しかけた言葉を飲み込んだ。
「……ユーリさんにはお見通しですね。さすがです」
「不肖の弟子とはいえ、このくらいのことは」
「不肖なのは私のほうです……それでは、承らせていただきます」
イーサ先生は机の上の紙束を取り、一番上の一番始めの名前を見た。
眼鏡の奥の目が細まるのが見えた。
「エピタフ・パラッツォ……」
「ええ、捕まえました」
今回で二番目の大物だろう。
そして、例の陰謀の発案者でもある。
ティレルメ神帝国皇帝、いや細かい解釈だと帝王と呼ばなければならないんだったか。
アルフレッド・サクラメンタの次に大きい獲物だ。
「彼は生きて捕まったのですか?」
「ええ、戦場で戦ったホウ家軍の将校が目端の利く男だったようで。特別良い服を着ていたのが徒になったようです」
イーサ先生には言うまでもないことだが、イイスス教において自殺は禁忌だ。
なので死にたい時は他者に殺してもらうことになるが、エピタフ・パラッツォは最後まで抵抗し、戦って死ぬつもりだったので、その機会は訪れなかった。
貴種ということで、それなりの部屋に軟禁される形になっていたが、部屋を壊して見張りを悩ませるので、今はマルマセットの屋敷にあった闇の深い座敷牢のような部屋に入れてある。
「どうも、教皇膝下の挺身騎士団というのは、特別根性のある連中のようですね。殆どが最後まで戦い、戦死したそうです」
「彼らは古い伝統を守っていますから……クスルクセス神衛帝国の騎士たちと同じ訓練をしていますしね」
クスルクセス神衛帝国の騎士は、信仰に支えられ苛烈な訓練をこなし、突撃の号令を叫んで敵陣に突っ込んだが最後、矢が刺さろうが槍に刺されようが、ヴァルハラを夢見るバーサーカーのように戦って散ったという。
今の挺身騎士団はそこまで大した連中ではないが、教皇膝下の一部分は今も伝統を守っている。
ホウ家の兵にかかればそこまでではなかったようだが、それでも最後まで崩れることなく戦ったというのは、精兵の証と言える。
「ともかく、彼は戦場で味方に殺してもらう機会もなく、兵に取り押さえられたわけです」
「………」
イーサ先生は、そこで何故か黙り込んだ。
目を瞑ってなにかを考えている。
「……ユーリさんには失望されてしまうかも知れませんが……彼は、殺してしまったほうがいいと思います」
びっくり仰天なことを言いだした。
イーサ先生が誰かの死を願うとは。
「どうしたんです? 彼になにか問題でも?」
昔何かされたのだろうか?
「彼は幼児期に強烈な体験をしておりまして……シャン人を病的に憎んでいるのです。彼の父親はシャン人の女奴隷に殺されたのですが、その後家を継いだ彼は、シャン人を買っては、吐き気をもよおすような残虐な方法で拷問して殺すという、猟奇的な行為を行い続けていて……彼の犠牲になったシャン人は数知れません」
「へえ」
多少は聞いていたが、やはり頭がおかしい野郎のようだ。
「なら、なおさら好都合ですね。彼は解放しますよ」
「えっ……なぜ?」
「彼は俺の両親と妻を殺した陰謀の首謀者ですしね。生きていてくれないとモチベーションが保てませんし……」
「……ユーリさん、そのことは」
やば、説教が始まりそうな流れになってしまった。
「本当の理由はもう一つのほうですよ。ワタシ派をカルルギ派の二の舞にしてはいけませんから」
「カルルギ派の二の舞……?」
イーサ先生ほどの人が、ピンとこないのは意外だ。
「宗教改革は、民衆の宗教への失望を原動力に進みます。それへの対抗策は、宗教を改善することなんです」
俺はそう言った。
「カルルギ派は、クスルクセス時代の酷薄な教義に対して、いわばカウンターで成立したものです。クスルクセス時代の教義は民衆を顧みない酷薄なもので、民衆はそれに嫌気が差していました。だからカルルギニョン・ペストパセリが唱えた新しい教義を新鮮な風と捉え、それを受け入れた。カルルギ派が広まったのは、聖典解釈が格別に優れていたからではなくて、その時代に需要があったからです」
「……まあ、そうかもしれませんね」
「それに対して、聖寝神殿にいた聖職者たちは、クスルクセス時代の教義を軟化させて――といったらおかしいですね。すみません」
イーサ先生がちょっと怖い顔になった。
そうだよな、軟化させたっていうのは表現がおかしいよな。
「まあ、教義を受け入れやすい形に変えることで、こちらもまた民衆に迎合したわけです。その結果、カルルギ派は民衆にとって不要になってしまった」
「ふう……そうですね、オイゲンの宗教改革はクスルクセス時代の教義を軟化させたものではありませんが、一理あるかもしれません」
侍従長オイゲンは、カソリカ・ウィチタの教義を実際に世に広めた人間である。
カソリカ派の創始者といったらおかしいが、発足当初のカソリカ派教会の代表者であった。
「ワタシ派が広まれば、同じようにカソリカ派が軟化してくる恐れがあります。物凄く単純な例を出せば、カソリカ派が、例のガリラヤ書5:35問題の誤りを公会議で修正して、過ちを認めたら、困ったことになります」
ガリラヤ書というのは、正式な名前をガリラヤの信徒への手紙といい、そこの五章三十五節に、例のシャン人が悪魔という曲解の元になった記述がある。
「そうしたら、改革の必要性は失われ、ワタシ派は地方の良くわからない宗派として歴史に埋まってしまいます」
宗教が腐り、宗教改革が必要になる。それへの最善の対抗手段は、自浄することだ。
ワタシ派をイイスス教徒に望まれるものであり続けさせるためには、彼らには腐ったままでいて貰わなければならない。
「それはそれで勝利だと思いますが……」
「それでは、シャン人への偏見はなくならないし蔑視もなくならない。根源的な対立をなくすには、占領してからカソリカ派の聖職者を排除し、腰を据えて十年以上伝道する必要があります。そのためには占領時に派遣される代理権者の文官も必要だ。イーサ先生が育てている教養院のひよっこが、将来それになるでしょう」
「なんとも壮大な話ですね……」
まあ、夢のような話だな。
まだ会っては居ないが、エピタフ・パラッツォが死んでしまったら、とてもモチベーションが持たないだろう。
「話を戻すと、彼を戻しておけば、内部からそんな動きを潰してくれるでしょう、ということなんです」
「しかし、犠牲者が……」
「彼の身代金で、簡単に計算して最低でも一万人は救えます。三日に一人殺しても、八十年以上かかる計算になる。単純に考えてシャン人奴隷の相場は上がりますから、三日に一人ってわけにはいかないでしょう。救える数のほうが圧倒的に多いんですよ」
救ったシャン人は生殖して増えることができるのだから、これはもう比較にならない。
今回の戦争で大分領土は増えるし、シャン人は幾らいても困ることはない。
「おまけに向こうの足も引っ張ってもらえる。いい事づくめなんです」
「……ユーリさんがそう仰るのであれば、なにも言うことはありませんが」
「まぁ、とにかく……そこにイーサ先生の所感を書いてもらえれば、それを持ってアルビオ共和国に行って、交渉してきますので」
俺がそう言うと、イーサ先生の顔に疑問符が浮かんだ。
「え? もしかして、ユーリさんが直接行かれるのですか?」
言ってなかったか?
「そうですが。とんでもない大取引になりますので、僕がいかないと」
「なら、私もついて行ってもよろしいでしょうか?」
え、イーサ先生が?
「それはまた、どうして?」
「その、カルルギ派の総主教と一度お会いしたくて……もう相当往復書簡で論を交わしたのですが、キリがなく……」
「論戦ですか? 双方にとって実りがなければ、虚しいだけだと思いますが」
「大丈夫ですよ。私も昔と比べるとずいぶん丸くなったと思うので……」
本当かな……。
「構いませんが、一ヶ月以上の長い船旅になりますよ。大丈夫ですか?」
「たぶん、大丈夫です」
「なら……出発は六日後で。あっ、じゃなかった」
船はスオミから出る。
俺は鷲で行けるから出るのは当日出発でもいいが、イーサ先生は当然だが鷲には乗れない。
「イーサ先生は、馬には乗れるんでしたっけ?」
「はい、もちろん」
「では、馬を貸しますので、それで……あっ、荷物がありますよね」
女性は荷物が多い。
「馬車のほうがいいですよね……」
「いえ、馬で大丈夫ですよ。荷物は少ないほうなので、積めると思います」
「そうですか。では、馬だと四日ほどかかるので……念を入れて、明日出発したら安心かと思いますが」
「明日、ですか……」
あまりにも急な話だ。
というか、自分から提案しておいてなんだが、馬車だとかなり厳しいかもしれない。
「予定があるのであれば、出港を一日遅らせますが」
「……いえ、大丈夫です。教え子には事情を話しておきますので」
「では、明日出発ということで。護衛の者の鞍にも多少は積めますので、荷物は少し多くてもいいと思いますよ」
「わかりました。お気遣いありがとうございます」
イーサ先生はぺこりと頭を下げた。
「あの、できればなのですが、歳のいった紋章官の方を一人、捕虜の中から連れてきていただけると、こちらの仕事の助けになるかと思います」
「ああ、紋章官……」
紋章官というのは、貴族の場合もあるが大抵は民間から選ばれる職業で、各貴族の紋章を学んで熟知していると聞いている。
貴族の連中も何万という貴族の家を暗記しているわけではないので、大きな社交の場や戦場で、相手がどういう立場の人間なのか尋ねるためにいる。
言ってみれば歩く辞書のような存在だが、歳をとって居ればそれだけ知識も深いのだろう。
「分かりました。一人同行させましょう」
「お願いします」
イーサ先生は、ぺこりと頭を下げた。
「それでは」
俺は椅子から立った。
「明日の昼ごろには迎えを来させますので」
「はい」
俺はぺこりとお辞儀をすると、イーサ先生の部屋から出た。
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