第200話 オレガノでの騒動*
「……引っ越すことになるかもしれぬ」
ボラフラ・ノザは、家族に対して言った。
その目は、これから去ることになる、オレガノを見ていた。
フィヨルド地形の末端に形成されたオレガノは、ノザ家領で最も裕福な港町である。
ノザ家領の南端にあるのは、より北と比べれば、温暖で住みやすいからという理由がある。
オレガノはノザ家領の交易中心地であり、港湾都市でもある。
北方の各都市で造られた干し鱈を始めとする産業品が、沿岸航法によりこの都市まで運ばれ、それから各地に送られてゆく。
ノザ家領の至宝とも言うべき都市で、領内では抜群の繁栄を見せている。
オレガノを囲む山々の稜線には薄い壁が敷かれ、長い壁の所々には石造りの
一箇所しかない出入り口には立派な門扉が設えられていた。
ボラフラ・ノザは、それら全てを捨てようとしていた。
「降伏するのですか」
妻である、オーレス・ノザが言う。
「うむ。降伏すれば、それなりの待遇を約束するそうだ。ただ、騎士家として存続することは叶わぬだろう」
「では、これからどうするのですか?」
「アイサ孤島に土地を貰い、財宝を持って移住するのだ。それくらいの譲歩なら、あの男も受けるだろう」
「そんな……」
今までの生活を棄てることについて、妻には抵抗があるようだった。
「それほど悪い条件ではない。どのみち、これから十字軍が来る……彼らが勝つ可能性は五分五分以下と見るのがよいだろう。それを考えれば、ホウ家の手配でアイサ孤島に逃れる機会を得たのは、奇貨とも言える」
「父上、それはあまりにも……」
ボラフラの息子、トーマ・ノザが言った。
彼は三十二歳になったばかりの若者で、騎士としての理想を胸に抱いていた。
「……戦う必要はない。恐らくはユーリ・ホウが兵を使ったほうが上手くいくのだ」
「父上が、あのような密約を交わさなければ……」
「言うな、トーマ。もはや何もかも手遅れなのだ」
ボラフラからしてみれば、二国で対抗できないものを一国で対抗できるはずはない、という考えがあった。
だが、ユーリ・ホウは一ヶ月と少しの間に、王都を陥とし、ボフ家すらも滅ぼした。
五分五分以下と言ったが、そう考えたのはユーリ・ホウの底知れぬ手腕ならば何かを仕出かす可能性がある。という、いわば理解の及ばぬ未知数に対しての評価であり、やはり勝ち目が薄いとは思っている。
「とにかく、降伏する」
「父上、向こうからしてみれば、約束を守る必要はないのでは」
「いや、キエン・ルベも来るのだ。奴は義理堅い男よ。それに、彼らにとっては重い約束ではない。破ることで堕ちる世間の評判のほうが重要だろう」
それは、ボラフラの頭の中で歪められた理屈だった。
自分の正常性を保つため、分析において都合の悪い側面を見ない悪習が、この場でも出ていた。
魔女の囁きを実現可能性のあるものと解釈し、合意してしまった時と同じプロセスが、ボラフラの頭の中で発生していた。
「お父様、私は残りますわ」
そう言ったのは、一人娘であるメヌエット・ノザであった。
ボラフラには一男一女の子どもがおり、彼女のほうが年少で、去年教養院を卒業した二十五歳の娘だった。
「なぜだ。というか、そんなことは許さん」
「許嫁がおりますもの、ヴィラン・トミン様が」
「そういった状況ではないのだ。我らはこの国を去るのだから」
そもそも、将家ではなくなるのだから、許嫁などという話は根本から消える。
政略結婚として片方の価値が消滅してしまうのだから、それはもう仕方がないことだ。
「私とヴィラン様は、心から愛し合っております。お願いですから放っておいてくださいませ」
「ならん」
「……そうですか。分かりました、それでは仕方がありません。諦めますわ」
「うむ。言うまでもないことだが、ここで話した内容は他言せぬように。国を想ってのこととはいえ、我が家だけが特別扱いを受けるというのは批判が降り掛かって来ぬとも限らぬ」
「分かっております」
最初に言ったのは、メヌエット・ノザだった。
*****
「メヌエットはまだ来ぬのか」
燭台の明かり灯る食卓で、メヌエットを除いたノザ家の面々は、食事を摂っていた。
「お別れを言いに行っているのでは?」
オーレスが言った。
ノザ家の生活は簡素で、食卓には少しの食事しか並んでいない。
今日の夕食は、鹿肉を焼いたものであった。
机は、大きな節目が浮いた朴訥な作りのもので、ニスが剥がれたままになっている。
天井にはシャンデリアも吊られていない。
民や諸侯が貧しいため、あまり豪華にするとやっかみの元になるのだった。
「あやつは分別がなきゆえ、心配です」
トーマ・ノザが言う。
「そう言うな。年頃の娘ゆえ、あまり自制を求めるのも酷というものだ」
「しかし、王都での生活に毒されすぎております。アイサ孤島での暮らしになど耐えられぬのでは?」
「アイサ孤島も近頃は活気がでていると聞く。湯が吹き出る風光明媚な土地というし、それほどの退屈はなかろうよ」
小さく切った鹿の腿肉を口に運びながら、ボラフラは言う。
アイサ孤島を統べるエット家については、ボラフラは殆ど知らなかったので、不安はあった。
だが、世の中の物事は大抵金で解決できるというのも事実だ。
土地の恒久的支配権などというものは、中々金では
「湯ですか……あまり好みませぬ。それより、私はここに残って、一兵としてでも戦い、名を残すべきではないでしょうか」
「ならぬ……おまえはノザ家の跡取り息子なのだ。大皇国の時代より続くノザ家を途絶えさせてはならぬ」
そう言いながら、ボラフラは騎士としての心を持つ息子を嬉しく思った。
そのような感覚は、ボラフラの胸からは消え去って久しい。
武断の家を統べるのは何かにつけ億劫で、強者どもを集めて
戦争など辟易する。
対十字軍に乗り出したときは、移動しながら天幕で暮らす日々の生活で、体を壊してしまったくらいであった。
「これからは、槍を捨てて生きていくのだ。おまえにとっては辛いことかもしれないが、切り替えなくてはいけないよ」
ボラフラが、そう言った時だった。
食堂の扉が勢いよく開いた。
「おう、一家団欒の最中だったかな?」
そう言って現れたのは、ヴィラン・トミンであった。
藩爵のドラ息子だ。
傍らには、泥酔したメヌエットを抱いている。
「ヴィラン・トミン。一体何の用かね」
「いやぁ~~~~」
強く、長く言いながら、ヴィランは扉を後ろ手に叩き込めるように締めた。
バタンッ! と強い音がする。
「ヒッ!」
妻オーレスが短い悲鳴をあげる。
「ボラフラ様、降伏ってのはいかんでしょ」
ボラフラは頭を抱えたくなった。
早速、言ってしまったようだ。
家族の情などかけずに、軟禁してしまえばよかった。
「貴様、ここはノザ家の本邸なるぞ。礼を失した行いは慎みたまえっ!」
トーマ・ノザが言った。
「ハア? もう騎士やめたんじゃなかったのか? そんなら、もうここはあんたの家じゃないよな」
ヴィランが理屈を返した。
「たっ、退任するまでは騎士であろうっ!」
「はー、もう黙ってろって。お坊ちゃまは」
「黙るのはお前だっ」
「はぁ~~っ」
ヴィランは、傍らに抱いたメヌエットを離すと、トーマの元へ歩いて来た。
「なっ、なんだっ!」
「ウラアッ!」
「グッ」
トーマの顔面に拳が炸裂し、椅子から転げ落ちる。
「キャアアアアッ!」
オーレスが叫んだ。
「貴様! なにをするかっ!」
ボラフラが椅子から立ち上がりながら、一喝した。
トーマを見ると、頭を強打され、床で伸びてしまっているようだ。
「そりゃこっちの台詞だぜ。ボラフラ様よぉ。自分だけ小遣いもらってケツ捲って逃げるってさ、そりゃない話っしょ。オレらはどうするわけよ」
「そっ、それはっ――」
「ユーリ・ホウにナシつけてくれんのか? オレらが今までどーりやってけるようにさ――話によると、そうじゃねえらしいじゃん」
「おいっ、衛兵! 誰か居ないのか!」
ボラフラは大声で衛兵を呼んだ。
「来ねえって。ウチで一番つええ大男が通せんぼしてんだ。あんたのところの軟弱な兵じゃ抜けやしねえって」
「ぐっ……」
「ボラフラさん、あんたオレに天爵譲りなよ。そうすりゃ命だきゃ助けてやる」
「馬鹿なっ! 天爵とは女王に授けられる物、譲るようなものではないッ!」
実際には天爵の授与は女王が決めることではなく、将家が会議によって決めるもので、確かに叙勲式が終わっての天爵ではあるが、女王は事後承諾するだけである。
だが、ボラフラの中での天爵を渡したくないという思いがそれを言わせた。
「ちげーって。頭領降りてオレに譲るって言ってほしいわけ。それを全土に送りなよ」
「例えそれをしたところで、誰が貴様に従う! 皆こぞってホウ家に降伏するだけよ!」
「あー、やっぱ、そうだよな」
ヴィランは頭を掻いた。
そして、後ろ腰に下げていた
「ウあッ!」
床で気絶していたトーマが、奇妙な声を上げた。
手斧が頭蓋を割っている。
「やっぱ、力を示して従わせるしかないよな。そんなら、こうしたほうが早いか」
「いやぁああああぁぁああ!!!」
一瞬遅れて、母親の悲痛な叫びが、食堂に響き渡った。
「トーマ! トーマっ!」
オーレスがトーマの体に走り寄り、床にひざまずいて触れるのを恐れるように斧に手をやった。
「うるせぇ!」
ヴィランが力いっぱいオーレスの首を踏んだ。
「うギッ」
脊椎を踏み折られたオーレスの首が、不自然な方向に曲がる。
オーレスはトーマの遺体に折り重なるように倒れ、少しも動かなくなった。
ヴィランは親子の死体に手をやると、トーマの頭蓋に刺さっていた手斧を拾い、腰の後ろに戻した。
「ハッ! お兄様、いいザマ。いっつも偉そうにしているバチが当たったのよ」
メヌエットが、ボラフラが今まで見たこともない表情で家族の遺体を見下ろしていた。
何が起こっているのか、ボラフラの頭が追いつかない。
愛娘は、家にいるときとは人が変わったように、ヴィランに媚びた目線を送っていた。
「お父様もぉ、さっさとヴィラン様に家督を譲っちゃったらよかったのにね。そしたら生きていられたのにサァ」
メヌエットは、しなを作ってヴィランに寄り添った。
「離せや、豚」
そして、ヴィランに突き放された。
「えっ――」
「肉が付きすぎなんだよお前。全身ブヨブヨで気持ち悪ぃったら。ノザ家の娘だから抱いてやってたけどよ、それがなくなったらお前なんざ豚だ豚」
「ちょっと、冗談よしてよ。ヴィラン様、嘘でしょ?」
「嘘じゃねえってのッ」
ヴィランは、メヌエットの腹を蹴飛ばした。
「ず――――っとウザかったんだわ。きっしょく悪い声あげて、ブヨブヨの腹ァ押し付けてきやがってよぉ」
「やめてよ、何いってんのッ!? ね、太ってるのが気に入らなかったの!? なら痩せるから!」
「いやもう全部がキモチわりぃ。ほら、さっさと死ね」
ヴィランは、机の上にあった肉切りナイフを取り、メヌエットのところに投げやった。
板張りの床に跳ねたナイフが転がり、メヌエットの膝下で止まる。
「それで首切ったら死ねるから、今ここで死ね。俺を愛してるなら頼むから死んでくれ、豚」
「嘘……」
「嘘じゃねえったら。死ねったら死ね愚図」
ヴィランがメヌエットを見下ろす瞳は、もはや婚約者を見るそれではなかった。
腐った肉にたかる太った蛆でも見るような目だった。
「やだっ、やだやだやだっ! 嘘でしょ!? 嘘って言ってよ!」
「はぁ~~~ほんとウッザ――」
目に暴力の色を宿したヴィランが、メヌエットに近づく。
「やめいっ!」
我に返ったボラフラが、ようやく声を張り上げた。
ヴィランが一瞬そちらを向くと、
「うわああああああああ!!!!」
メヌエットが叫びながら、腰だめにナイフを持って突進した。
ヴィランは避けようともせず、ナイフが腹にもぐりこむ。
「バァカ。先の丸まったナイフで突いてどうすんだ」
ヴィランは、ナイフを握っていたメヌエットの腕を取ると、肘と腕を持って、曲がらない方向に曲げた。
「イッ――!」
関節が決められ、激痛の予感が走るが、一瞬にして予感が飛び去り、ブチブチと肘の腱が千切れる感触がした。
「アッ、ア゛ア゛あ゛あ゛!!! 痛い!!!」
肘を力任せに壊すと、ヴィランはメヌエットが着た厚手の服の胸元を取った。
「これからもっと痛えぞ」
腕を振りかぶり、力いっぱい殴る。
「あぐッ!」
一発だけに留まらず、むちゃくちゃに連打しはじめた。
「あっ、ぐっ、うぅ、やっ、やべっ、やべてっ」
「豚を抱かされてきたこれまでの精神的苦痛だよ。死ねッ!」
五分ほど殴り続けていただろうか。
ヴィランが腕の疲れを感じ、殴るのをやめたとき、メヌエットの顔は肌色をした部分を見つけるのが難しいほどの有り様となっていた。
ヴィランの右腕から殴りやすい場所にあった、顔面の左側は特に念入りに殴打され、頬骨から鼻骨にかけてが骨折し、腫れ上がっている。
「う、あ――」
「あんたさぁ……」
ヴィランは、ボラフラを見た。
「嫁さんと息子殺されて、娘をこんだけボコられて何もしてこねえの? 本当にチンコついてんのかよ……」
心底呆れたように言うと、ヴィランは飽きたように許嫁であった女を見た。
襟元を掴んだまま、後ろ髪をひっつかむと、握った両拳を合わせるように、力任せにグルンと回した。
「カぎッ――」
首がありえない方向に曲がり、メヌエットの頭が背中を向く。
体から力が抜けると、ヴィランはこれみよがしに襟から手を離した。
ぐしゃり、と地面に落ちる。
ボラフラは、その様子を見ても、動けなかった。
行為の最中は身が竦んで動けず、終わったあとは全てを失った虚脱感で、椅子に座ってしまった。
これで終わりなのか。
「信じられねえな。こんなのが将家の頭領だったのかよ……やってらんねえわ」
ヴィランは自嘲するように言った。
ボラフラには言い返す気力もない。
懐に忍ばせていた短刀を握る気も起こらなかった。
「死んどけ、ジジイ」
ヴィランが手斧を振りかぶり、そしてボラフラの意識は消えた。
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