第92話 森
リャオの荷物から槍と、使えそうなものを取り上げると、俺は歩き出した。
このあたりの森は歩きにくい。
キルヒナとイイスス教地域との境目で、定住者がいないのだろう。
これがシヤルタの森なら、周辺住民が薪取りに木を切ったりするため、まだ歩きやすいのだが、ここは里山ならぬ里
「あー、くっそー……いってぇ……」
言っても仕方がないのだが、思わず口に出してしまう。
歩きやすい道を気をつけて歩いていても、何かの拍子に腰に激痛が走る。
ヒビ程度の骨折でも、無理をすれば内出血で腫れてくるはずだから、骨折はしていないと思うのだが。
これが休日に気軽にやっている山歩きなら、遠慮せず休憩するところだが、そうもいかない。
キャロルがどうなっているか、一刻も早く確認しなければならない。
星屑のように、晴嵐が下敷きになって助かっていてくれればいいが……。
そこで、悪い考えが、ふいに頭をよぎった。
俺の場合と逆だったら……。
星屑と同じように、キャロルが人の形を留めないような怪我をしていたら、どうなるんだ。
それで、まだ生きていたら。
思わず、足が止まり、頭から血の気が引いた。
そうしたら、俺は星屑と同じように、キャロルの命をも絶ってやらなければならないのか……。
その発想は、あまりに現実味を帯びていて、ゾッとした。
十分に有りえる……。
背スジが凍りつくような感覚がして、腹が気持ち悪くなって、唐突に吐き気を催した。
愕然として、何も考えられなくなった。
数秒後、自分が立ち止まっていることに気づき、俺は再び歩き出す。
そんなことを考えていても仕方がない。
まだ何も確定的ではない……。
俺はコンパスにマークした方向に、ずっと歩き続けた。
もうそろそろか……。そう思った時だ。
グゥゥウッ……。
まるで猛獣……ヒグマのような猛獣の威嚇音のような音が聞こえてきた。
こんなときに……。
行くべきか、行かざるべきか。
行ったとしても、下半身に力が入らない俺の状態では、猛獣どころか野犬にも勝てるかどうか怪しい。
だが、キャロルが襲われている可能性がある。
リャオの槍が手元にあるのが唯一の慰めか……。
そう思いながら、俺は腰を低くして、こそりこそりと近づいていった。
ああ……。
近づくにつれ、俺は納得していった。
木立の間から、竜の翼が動いているのが見えたのだ。
灰色がかった緑色の肌は、南洋のトカゲのように、細かい鱗で覆われていた。
かすかに濡れたような質感は、なめらかな織物のようにも、板を連ねた鎧のようにも見える。
猛獣の声に聞こえたものは、竜の呻き声だったらしい。
だが、限られた情報から分析するに、竜のほうも横たわっていて、健常な状態とは思えない。
とりあえず、今すぐ暴れ始める様子ではない。
ふう……と息を吐いて、緊張しつつ、竜の横を回りこんでゆく。
もう、のんびりと痛みに声を漏らしていられる場合ではない。
アドレナリンかなにかが回ってきたのか、痛みはあまり気にならなくなってきた。
竜がここにいるのなら、星屑の近くに俺が倒れていたように、生きているにしろ死んでいるにしろ、
竜を遠巻きに回りこんでゆくと、果たしてそこには見知らぬ人物がいた。
こちらに背を向けており、まるで見慣れぬ意匠の服を着ている。
そういう文化なのか、頭には灰色のターバンのようなものを巻いていた。
後ろ姿だけだが、頭のてっぺんに載せているだけではなくて、顎も額も巻布で覆っている。
おそらくは、竜騎士の伝統的な意匠なのだろう。
こいつが竜騎士で間違いない。
そしてその先には、なんと一羽の王鷲がいた。
ピクリとも動かないので、おそらくは亡骸となっているのだが、羽色から見るに、あれは晴嵐だ。
竜に噛まれたまま落下したのか、一緒の地点に墜ちたらしい。
そして、俺は、その隣にキャロルがいることにも気づいた。
キャロルは、腰が痛いのかなんなのか、その場にへたり込み……そして、自分の短刀を、自分の首にかざしていた。
つまり、自決しようとしていた。
脊髄に氷水でも流し込まれたような、凍りつく感覚を覚える。
キャロルは竜騎士と対峙している。
竜騎士は、キャロルに自害して欲しくはないらしく、なにやら短いナイフのようなものを突きつけながら、しきりに怒鳴っている。
テロル語を話せないのかなんなのか、話しているのは俺にも意味不明な言語だった。
たぶん、これがココルル教圏で話されるアーン語なのだろう。
イントネーションはテロル語よりシャン語に近い感じがするが、鼻にかかった発音がやけに多く、なんとも耳慣れない。
キャロルを
可及的速やかに、この状況をどうにかしなければならない。
早く処理しなければ、キャロルが死ぬ。
作戦など考えている暇はない。
気持ちを定めると、スッ……と頭のなかが冴え渡り、痛みもなにもなくなり、自分が一個の機械になったような気がした。
俺は、木立から歩いて出て行った。
数歩近づき、キャロルが俺に気づいて、こちらを見る。
竜騎士が、視線の変化に気づいた。
振り返ろうとする。
『よう、トカゲ乗り』
俺はテロル語で、話に聞く竜騎士の蔑称を言いながら、右手に持った槍を肩に担ぎ、左足で地面を勢い良く蹴った。
右足を強く踏み込むと同時に、至近距離から槍を投擲する。
槍は、初速の勢いのまま、振り返ろうと半身になった男の右腕に、ドガッと突き刺さった。
しまった。
投げるのが早すぎた。
胴体に刺さるのが理想だったのに。という思考に包まれながら、やった、とも思う。
槍は腕を横に裂くように突き刺さっており、その下には大ぶりのナイフがぶら下がっている。
武器を持ったほうの、つまりは利き手に致命的なダメージを負わせたのだ。
これは大きい。
俺は槍を投擲したままの勢いで突っ込むと、すぐさま男の腕にぶら下がった槍の柄を握り、体ごと槍をより深くさしこむようにぶつかった。
「グッ……」
うめき声を上げながらも、男は足を踏ん張り、倒れなかった。
ぶつかった反動で、五体が持っていた勢いが消える。
「フッ!」
勢いが削がれたと同時に、一歩踏み込み、男の膝を踏むように蹴った。
膝の骨がゴクリと砕ける感触がし、蹴った反動を利用して引っこ抜くように槍を抜いた。
男はバランスを崩し、武器を持った片手を地面につける。
俺は間髪入れずに抜いた槍を突き出し、地につけた手のひらを地面に縫い付けた。
その場で腰を回し、たたんだ膝を振る。
殆ど密着した距離で、座り込んだ男の顎に、吸い込まれるように膝が入った。
アゴを撃ちぬいた感触が膝に響くと、男は脱力したようにその場に崩れ落ちた。
勝った。
数秒じっと男を見るが、ピクリとも動く様子はない。
「はぁ、はぁ……。キャロル、大丈夫か」
男から目を離さず、言う。
ひとまずの勝利を手にすると、人の心が戻ってきたかのように、安らいだ気分になった。
心が高揚し、体に運動後の温かさを感じる。
「は、はい」
なんだ「はい」って。
座学の先生かなんかに返事するんじゃないんだから。
本当に大丈夫なのか。
視線を外し、キャロルを見ると、命に別状がありそうにはみえなかった。
流血もしていないし、内臓にダメージがいっているようにも見えない。
よかった。
心の底から安堵した。
「まずは、刀をしまえ」
「あ、ああ……うん、そうだな」
ブラフではなく、本当に自決まで覚悟していたのか、キャロルの短刀を持つ手は震えていた。
震える手で、首から恐る恐る短刀を離し、鞘に納める。
これでもう安心だ。
俺は、振り返って竜を見た。
竜は、真正面から見るとぐったりと倒れていて、乗り手の
元より、鷲と違って乗り手との信頼関係などない動物なのかもしれん。
獰猛な動物が本能的に人を襲おうとするのを、どうにかこうにか制御して、自分にとっての敵側に牙を向けさせる。といったやり方なのかも。
思えば、俺をたたき落とした時も、そんな感じだった。
乗り手が攻撃を指示してから攻撃に移るのでは、どうしてもワンテンポ遅れるものだが、あのときはまったくそれがなかった。
あれは、本能に従った竜が勝手に攻撃したのだろう。
竜についての興味は尽きないが、いまのところは放っておいてもいい。
落下の衝撃で内臓破裂でもしているのか、羽を貫いて胴体に侵入している俺の槍がよっぽどの急所に刺さっているのか、動くのも億劫という感じだ。
そのうちに死ぬだろうし、刺激をしなければ襲ってはこないだろう。
「キャロル」
「う……うん」
うんって。
まあいいか。
「ついさっきまで、リャオとミャロが上空を飛んでいた。リャオによると、決戦はこちらの負けらしい」
と、俺はかいつまんで今の状況を説明した。
「つまり、ここで待っていても、状況は悪くなるばかりだ。先にここに来るのは、心配してやってくる味方の軍じゃなく、敵のほうだろう」
「わ、わかった。そうか……」
キャロルは、なんだか落ち込んでいる様子だ。
無理もない。
キャロルの件を処理してから、再び冷静に考えてみると、これほど面倒くさい状況はなかなかない。
どれだけの面倒事を処理しなければならないのかと思うと、気が遠くなる。
「分かってるのか?」
「なにがだ」
「ここにいたら、追手がかかるってことだよ。さっさと行くぞ」
上空で近距離から視認していた
だが、ここに金髪のシャン人がいる。ということが判れば、まず間違いなく追ってくる。
なにしろ、向こう側では金髪のシャン人で、かつ美人とくれば、王国間の政治取引に使われるくらいの代物で、対価として国策レベルの譲歩が引き出せると聞く。
イーサ先生の話によると、実際に三十年くらい前にそういうことがあったらしい。
つまりは、値段がつかないほどの価値を持っているわけだ。
あちらさんがキャロルの素性について情報を得ているかはともかく、世にも珍しい竜の空中戦を、地上にいた誰かが観察していたのは、まず間違いない。
それを考えれば、鷲が二羽と竜が一匹落ちた。というところまでは、確実に把握されているだろうし、目がいい奴や望遠鏡で見ていた人間がいたら、二羽のうち一羽に乗っていたのは金髪だった。ということが把握されていても、おかしくはない。
「すまない……」
何故かキャロルは、謝ってきた。
謝るどころか、なぜか悔しげに目に涙をためている。
「なんだ?」
「足が……どこか悪いようだ。痛くて立てないんだ……」
………。
…………。
あー…………。
なんてこった。
あっけにとられ、しばらく呆然とするしかなく、俺はその場に突っ立っていることしかできなかった。
「私のことは、置いていってくれ……」
キャロルは、寂しさを噛み殺すような声で言った。
置いていけ、というのは本心から言っているのだろう。
そしたら、まあここで万に一つの救助を待って、クラ人のほうが先に来たら自害……みたいな感じか。
「今のは、今までのお前の発言のなかでも、とびきりアホな
「……ぇ?」
キャロルは、囁くように小さく声を発した。
「お前を置いていくわけがないだろ」
「だが、ここにいたらお前まで危険になる……」
「諦めるのが早すぎる。お前の命はそんなに軽くはない」
だが、事態は深刻だ。
ため息の一つもつきたくなる。
「はぁー………」
本当についてしまった。
これからどうしよう……。
考えてみれば、立って歩ける状態であれば、
それさえできずに、へたり込んで首に短刀を突きつけて、自らの命を盾にしていたのだから、骨折なのか肉離れなのかわからんが、本当に歩けないのだろう。
……俺が背負って歩くしかないか。
その結論は、案外と簡単に出た。
しかし、どこまで歩くのか……。
リフォルムまでは無理としても、キャロルを背負っての歩きでは、拠点にしていたニッカまでも……おそらく、一週間以上は軽くかかる。
しかも、決戦で負けた以上、主要な街道は敵方の騎馬が走り回っていると見ていい。
身一つなら、見つかっても森の中に逃げ、追手が諦めるまで逃げに逃げるという手が使えるが、キャロルを背負っていたら無理だ。
追手に見つかった時点でアウト。
森に隠れるにしても、見つかるか見つからないかは運否天賦。
命が幾つあっても足らない。
森のなか、道無き道を歩くしかない。
「背負って歩くか……」
自分の決意を確かめるため、試しに口に出してみると、背筋を絶望感が這い上がってきた。
キャロルは痩せているほうだが、筋肉はついているし、小学生程度の体重ということはない。
加えて、ギリギリまで切り詰めるにしても、携行する荷物はゼロというわけにはいかない。
どんなマラソンランナーであっても、五十キロからの重量を担いで競争したら、アマチュア相手に勝てるものではないだろう。
追手がかかるとしたら、キャロルを背負った俺は、どうしても速度に劣り、いつかは追いつかれる計算になる。
神様に土下座したら、ケアルガだのベホイミだのの魔法を使って、キャロルの怪我を治癒してくれるのであれば、今すぐ土下座したい気分だった。
神頼みしたいほどに状況が悪い。
いっそ犠牲を覚悟して、王鷲隊を全員森に突っ込ませるべきだったか……。
そうすれば、二十六羽の鷲と何人かの事故死者を犠牲にして、二十人かそこらは手勢が手に入る。
それだけ手勢がいれば、追手がかかっても突破できたかもしれない……。
いや、補給が駄目か……。
一人二人の食料なら、歩きながら確保できないこともないが、二十人以上の食料は絶対に無理だ。
三日か四日で飢えてしまう……。
いや、今はそんな非建設的なことを考えている場合じゃない。
これからどうするかだ。
逃げずにここで穴でも掘って隠れる……という手も、ないことはないか。
俺には、一人だけ必ず救助にくる人材の心当たりがある。
王剣だ。
彼女は、自分が死のうがなんだろうが、いつかは必ずここに来るだろう。
だが、一日か二日後、ここに辿り着いたとして、やはり逃げる時はキャロルを背負うことになる。
あの女は、敏捷性や技量は高く、体力の鍛え方も常人に及びもつかない域に達しているだろうが、あの体格でキャロルを背負って俺以上に歩けるとは思えない。
順番に歩けば一人ひとりの負担は軽減されるが、速度が二倍になるわけではない。
やはり駄目だ。
彼女の到着は、ここで待機することで生じる状況の悪化を看過できるほどの、絶対的効力は持っていない。
やはり、俺が背負って逃げる他ない。
しかし、追手に必ず追いつかれるのであれば、早晩詰むのは目に見えている。
だとしたら、追いつかれないために工夫をする必要がある。
俺は失神している
腕からダラダラと血が流れている……。
こいつを使って、まずは工作をしてみるか……。
時間のロスにはなるが、どのみち相手のほうが早いのであれば、破局が伸びるか伸びないかの違いでしかない。
一か八かで色々とやってみたほうがいい。
俺は、失神した男の上半身を引き起こすと、まずは鎧を脱がせた。
やはり、体格のいい竜といえども積載重量に余裕があるわけではないのか、意匠はずいぶんと違うが、俺のと同じような軽い皮鎧だ。
加えて言えば、体格も筋骨隆々というわけではなく、俺とほとんど変わらない。
鎧に続けて、兜と、脛当ても取って、服も脱がせ、肌着だけにする。
「ユーリ、なにをしているんだ?」
俺の不審な行動に不安になったのか、キャロルが尋ねてきた。
説明している時間が惜しいので、答えない。
俺は自分の装いを脱ぐと、失神具合を確かめながら、男に着せていった。
ルークが用意してくれた上等の鎧だったが、どの道、この後の活動のためには捨てなければならない。
俺は、男に少しサイズの合わない鎧を無理やりに着せ、脛当てやヘルメットなども付けると、仰向けにした。
そうして、周りを探して、なるべく大きな石を持ってきた。
運ぶ最中も、不思議と腰の痛みは感じなかった。
俺はその石を、なるべく高く持ち上げ、失神した男の顔に落とした。
ゴチャッと鈍い音がして、男の体がビクッと痙攣したかと思うと、石は顔を伝って横に滑り落ちた。
男の顔は血にまみれ、陥没している。
まだ呼吸をしているのか、骨折した鼻から出てきた赤い血が、小さな赤い鼻提灯を作っていた。
俺は、再び石を持ち上げると、同じように叩きつけた。
二、三回叩きつけると、男はピクリとも動かなくなった。
顔は、もう原型を留めないほどに潰れていて、ピンク色の筋が全体に見えている……。
俺がさっきまで着ていた鎧にも、血が飛び散っていた。
俺は血のこびりついた男の兜を乱暴に外し、なるべく無造作に軽い力で放り投げた。
そして、男が持っていた大ぶりのナイフを、近くの石に叩きつけて刃を軽く潰した。
その刃で耳朶の先を切り取り、もう片方の耳は自分の短刀で切り取った。
これで、俺の死体ができた。
晴嵐に乗っていた俺は、落下の最中に振り落とされ、不運なことに地面の岩に顔面を激突させ、即死した。
耳を覆うヘルメットは、そぎ取るのに邪魔なので、乱暴に剥ぎとってその場に捨てた。
耳は片方が潰れていて、片方はない。
だが、鎧は確かにシャン人の鎧を着ている。
あまりにも杜撰で稚拙な工作だが、やらないよりはマシだろう。
おそらく、最初に発見するのは、末端の一兵卒だろうし、敵もこちらよりマシとはいえ、緻密な軍制を整えているわけではない。
追手側に疑心を抱かせ、意見を分裂させ、混乱させることができる……かもしれない。
一人分の死体を得たことに満足して、もう一人は見逃す、という選択をしてくれるかも……。
都合が良すぎる考えか……。
「………」
手を見ると、両手が血と土でグチャグチャになっていた。
ボロ布で拭って済まそうか。
いや……やはり洗おう。
気持ちが悪い……。
俺は貴重な水で手をすすいだ。
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