第4話 ビターチョコレートは私を赦してくれる




バレンタイン。

クリスマスに続き、私には最も縁遠いイベントである。


その日は仕事をしていればただの平日であるのに、今年はそれが日曜日であるから、家で過ごすことにした。


外は、毒だ。


全力で、“恋人なし“、“独身者”の、私のメンタルを叩き壊そうとする。

最近は『ご褒美チョコ』なんて宣伝文句も主流になり、まんまとその言葉に踊らされて、自分の為に可愛らしいチョコを買うのもいいかもなぁなんて去年は思ったけれど。いざ、デパートへ行って、大層後悔した。

休みの日に、きゃっきゃと彼氏に選んでいるんだろう若い女の子達に混ざってデパートでチョコを選ぶ気にはなれなかった。

あの子達はきっと彼氏に。友人同士でも買うのだろう。あちらの方は、きっと旦那様に。あら、お子さんがいたの?可愛らしい…。

他人の幸せを見て、自分の立ち位置を思い知るのが辛かった。


恋人いない歴イコール年齢。

私はもう、二十九だ。

二十九年も、恋を知らない。

周りの知人は三十を前に結婚ラッシュ。もう、子供がいる子もわりといる。


「っはぁ~…!」


自分しかいない自室で、これでもかと大きく息を吐く。

思考を打ち切る為に。そうだ、コーヒーを飲もう。

いつも朝食にトーストを焼くが、今日はパンをトースターにかける前に、以前半分にして取っておいた板チョコを乗せた。


チョコレートトースト、と書いて、『幸せ』と読む!


子供の頃からチョコレートが大好きな私は、それだけでもう、特別な気分になる。いいのだ。私には。こんな幸せで。百円でお釣りがくる板チョコを半分にしたものが、分相応だ。

学生の頃は貧乏性で、板チョコ…と言うか、一切の甘味を絶っていたので、社会人はビバ!って感じだ。…あれ、ひょっとして死語かな?私もう、アラサーど真ん中だもんね。

トースターからチョコレートの甘い香りがしてきて、淹れたてのコーヒーを飲んだ。はぁ。幸せなひととき。

焼けたチョコレートトーストをそのままキッチンで立ち食いしながら、徐にSNSを開く。勿論、すぐに後悔する。ささやかな幸せが、霧散する。


(………皆、幸せそうだなぁ……)


いや、それは、良いことだけど。

彼氏とデートとか、旦那に買ったチョコレートだとか。今日はランチに何処へ行くだとか。やっぱり、そんな投稿が並んでいて、閉じた。


良いんだよ、別に。結婚が出来ないのは。

寂しくない、…なんてのは嘘になるけれど、そんなことよりも淋しいなと思うのは、

今まで私が、誰かを好きになったことが無いということだった。





皆様、初めまして。

申し遅れました。私、一之瀬楓夏と申します。楓に夏と書いて、「ふうか」。なかなか綺麗な名前でしょう?わりと、気に入ってる。「ふうかちゃん」なんて柄ではないけれど。

ところで皆さんは、誰かを好きになったことがありますか?あっ、あります?そうですか。

では、是非教えて頂きたい。

それって、どういう気持ちなの?




今日は家から出まいと決めたのに、午前をだらだらとソファーの上で過ごし、お昼前にお腹がすいたなぁと冷蔵庫を漁れば、何もないことに気が付いて愕然とした。


で、でりばりー…。


にも、頼りたいような気持ちだが、……信じられますか?このご時世で、私の住むこの市にはデリバリーなんて一つもないのです。ネットで調べても、水道工事くらいしかやってこない。世知辛い。


「はぁーっ、くっそー。着替えなきゃなあ…」


寝巻きにしていた部屋着をやっと着替える。

こましな格好だろう、と思って着るのはいつもグレーのパーカーに適当なロングスカート。洗面所で眉毛だけ書いて、家を出る。靴下を履くのがめんどくさいので、スーパーにしか用事がないような時はいつも素足にサンダルだ。…つまり、年がら年中、大体そうだと言うことだ。


スーパーまでは徒歩五分程度。

ずぼらな私が生きていけるわけである。


スーパーに行けばつい、割引シールのものや今日が賞味期限のものを買ってしまう。貧乏性なのもそうだが、誰にも手に取られないと廃棄されてしまうというのが嫌だった。こんなささやかなことで、日本の食品廃棄量を減らすことに貢献している気になる。…いや、大事なことだと思う。本当に。一人一人の意識が、大事。

まぁ、そんなわけで。

カゴにはまとまりの無いものが無造作に放り込まれていく。

見慣れない魚はそもそも捌けないので、いつも心の中で「ごめんね」とスルーしていく。


『偽善者』とは何か、と私は時々考える。

固有名詞で表して良いのならば、「それは『一之瀬楓夏』である」と答える。

しかし、もし私が真の『偽善者』であるとするならば、きっと今ここで、魚でさえもスルーしないだろうと思う。だから、きっと、私は『偽善者』ではない。


「………」


ふと、スーパーに買い物に来ている人々を見る。

みんな、自分が何者かなんて、考えたりしないのだろうか…?

そんなことをいつも、ふと、思う。

スーパーに買い物に来て、ファミリーパックのお肉に手を伸ばして、不意に、「あれ?私、何をしてるのだろう」と思う時、…あなたにはありませんか?

私だけが、こんなに。

地面を信頼できずに、立っているのだろうか?

それとも皆、知らないふりをするのが上手いのだろうか?誤魔化すことに慣れているのだろうか?


聞いてみたいと思う。いつだって。誰かに。

けれど、聞いてはいけない事なんだろうな、と弁えてはいる。


「ねぇ、それ、本当に笑ってるの?」

「ねぇ、それ、本当に泣いてるの?」

「ねぇ、それ、本当に思っている?」


いつだって、私は、違和感の中に居る。

例えば、私が“そう見えるように演技している”ように、周りの皆だってきっと、演技しているんだと思っていた。


違う個体が集まって、同じ話で皆が笑い合えるのが不思議だった。…私も笑った方がいいの?

卒業式で泣く子に、目を丸めた。そして、嗤った。「感受性が豊かなのね」。…私は違うけど。

「楓夏ちゃんって、何だか大人だよね。わたしは、良いと思うよ」。ありがとう。それって、線引きしてるんだよね?「周りは受け入れてないけど」って言ってるんだよね?


私は、社会不適合者だと思う。

こんなにも、生き辛い。


「9870円です」

「あ、はい」


また買い物に出るのが面倒なので、一週間分のつもりでまとめ買いをした。いつも、一回のお会計で大体一万円近くする。何故だろう?と思うけど、よくわからない。

昼と夜とで食べようと、お総菜を沢山買ったせいかもしれない。私は案外、よく食べる。「そんな細身で?!」と、驚かれることもしばしばあった。…生きているので、いつだって空腹だ。


買い込んだ荷物は重く、エコバックも二個分になった。

牛乳を二本も買った上、お酒も瓶で買ったせいかも知れない。いや、明らかにそれだろう。車で来ればよかった…。


帰り道。

中学生くらいの男女が後ろから私を追い越していった。女子が自転車に乗っていて、男子が歩く早さに合わせてふらふらと自転車を漕いでいる。

道幅一杯に離れたり、近付いたり。

無関係な二人なのか?と思っていたら、前方にある月極駐車場で二人とも留まり、何やら話を始めた。あ、やっぱりカップルか。


初々しいなー。


勝手にちょっと甘酸っぱい気持ちになった。

初々しいな、なんて、私の記憶のどこを探したって、同じような甘ーい経験なんて無いくせに。

例えば、そう、「ちょっと失礼しますけど」なんて彼らに話しかけてしまいたい。


「あなた達は、お互いがお互いの事を好きなの?それとも、どちらかに『好き』と言われたから、好きなの?それとも、“誰かと付き合っている自分”が好きなの?」


ねぇ、酷かしら?

それとも、怪訝な顔をして、「お互いにお互いが好きだったから付き合ったに決まってるじゃないですか」と答えるのだろうか?


例えば、そう。

私にだって、告白されたことくらい、ある。


「ありがとう」

ありがとう。

「…気が付かなかった…」

…嘘です。バレバレでした。

「……でも、ごめんね。私、好きな人が居て…」

嘘です。断る為の口実です。

「………ごめんね。でも、嬉しかった…。ありがとう」

って、言っておけば、彼にとって淡い記憶になるかしら?


…………そんな感じ。


まず、驚いた顔をします。それから、少し戸惑ったように笑います。そして、申し訳なさそうに眉を下げます。そして、最後に少し、微笑みます。

はい、完璧。


そんな感じ。


そうやって生きてきた。

代償がそう、年齢=彼氏いない歴。因みに、親しい友人もおりません。


当たり障り無く。

浮かず、離れず、引っ付かず。

生きてきた。

スムーズに行くように。そんなことばかり考えていた。そこに、感情と言うものは一つも入ってなかったのだと思う。だから、同じグループでよく一緒に行動してた子達の名前すら、もう覚えていない。

私は、そんな淋しい人間なのだ。


例えば。

あなたは、何を持って自分を自分だと証明できますか?

あなたの本質って、何?って聞かれたら、説明できますか?


私には、

沢山の『私』がいる。


内気な『私』。

しっかり者の『私』。

ひょうきん者の『私』。

リーダーシップを執る『私』。

守ってあげたくなるタイプの『私』。


私は、それら沢山の『私』を使い分けて息をしている。


勿論それは、多重人格や統合失調症という類いではない。


私はいつだって、『フリをする』。


こんな私が、“誰かに愛されたい”なんて、烏滸がましい。

誰かを好きになるなんて、生身のままで地上から空へ飛び立つことができるのと同じくらい、不可能に近い。つまり、不可能だ。


幾重にも嘘や演技で塗り固められた『私』を、好きなってもらっても虚しい。

虚しいのに、『本当の私』なんて、…こんな嫌なやつ。誰にもさらけ出せないし、好きになって貰えるわけがない。だから私は、『私』だけでいい。


ねぇ。教えて。

『素敵な人たち』は、どうなの?


皆、嘘や演技でなくて、本当に、そうなの?

そんなに素敵な人間なんて、この世にいるの?

相思相愛なんて、この世にあるの?


「ただいま」


おかえり、なんて言ってくれる人も居ないのに、私は必ず、「いってきます」と「ただいま」を言う。

空気。もしくは、この一室に対しての挨拶で、特に意味はないけど続けていた。

靴を脱ぐと真っ直ぐにキッチンに向かい、お昼に食べようと思ったもの以外は全部、冷蔵庫にしまった。

お昼ご飯にと買ったのは、チキン南蛮弁当とでか盛りのカップ麺とサンドイッチ。それから、デザートにミニパフェ。飲み物は、ミルクティー。


ビバ、社会人!


かつて、学生の時の私にはできないお金の使い方である。

毎月決まった額、給料が貰えるってスゴい。無趣味の貯金残高、ヤバい。休日も誰かと合う予定なんていつも無いので、交際費とかも一切かかりません!


しかしこんな私にも、友達はいつだって、一定数居た。

部活だって、中高大と何かしらはやっていた。

その時々の色んな事をもっと大事にしておけば、縁が出来た人達は、想像よりももっと沢山居たのだと思う。

たけど、今、手元に残っているものは何もない。

それが、やっぱり……虚しい。


悲しい人間だな、私は。

何も愛せないから、何からも愛されない。

それを淋しいと思うのに、それでも良いと思っている。だって、気が楽だから。


誰かと過ごす時間は、煩わしい。

必ず、演技をしなくちゃいけないのも大変。

あ、私また演じてるなって思うと、やっぱり少し呆れてしまう。自分に。悲しくなる。


考え事で胸が一杯で、結局、チキン南蛮弁当とミニパフェだけ食べて御馳走様をした。


ああ………チョコが食べたい。

しまったな。買うの、忘れてた。







「お先に失礼します」


職場での『一之瀬楓夏』は、向上心があって真面目な性格をしていた。

常に効率を考えて働き、話しかけられれば気さくに社員とも雑談を嗜む。

仕事は大体、定時には片付けている。いつも、定時を少し越してから、デスクの上を片付け、部長の席まで行って挨拶する。


「あ、一之瀬さん。明日、有給だったっけ?」

「はい。ご迷惑お掛けしますが…」


突然の思い付きで、今朝、朝礼の時に「明日は有給でお休みを頂きます」と伝えた。他の会社はどうだか知らないが、私の勤める会社はそういったことに大分緩い。取り急ぐ仕事もないし、先日の日曜日にだらだらと過ごした分、平日にちょっとゆっくり美容院とか行ってみるかなぁと思い付いての事だった。


「ゆっくり過ごして」

「ありがとうございます!」


緩い会社によく似合う、緩い上司が笑顔で見送ってくれて、私はにこりと微笑んで一礼した。

では失礼します、と踵を返す。

私が歩く度、ヒールが音を立てる。そうそう、私、わりと形から入るタイプなんです。




どうですか、皆さん。

私の心の中を覗いて、私の事、嫌いになっちゃいましたか?

ははぁ、それは仕方がありません。私も、私の事が嫌いです。

あ、いえ、でも別に。「いい性格してるなぁ」とも思います。やっぱりそういうところは、わりと好きです。我ながら。

すみません。適当なんです。何にでも。私の言葉をあんまり、真剣に受け取らないで下さいね。


さて、平日休み。

有給を取って、思い付きでやってきた美容院は電車に乗って二駅の商店街の中にある。以前、知人に紹介されたのを何となく覚えていた。

今時珍しく、ドアを開けるとドアに吊るされたベルがカランと音を立てた。


「あ、いらっしゃいませー!」


ベルの音を聞き、店の奥からスタッフさんが小走りでやってくる足音がした。


「すみません、予約してないんですけど」

「はい!大丈夫ですよ。今のお時間でしたら、直ぐにご案内できます!」


やってきたスタッフさんは、その可愛らしい声とは少し印象が違う見た目をしていた。

毛先だけ赤く染めた短髪。沢山の耳ピアス。スラリと細身で華奢な体に、黒のエプロンがよく似合っていた。

案内された先には鏡と向かい合う席が五つあって、内、二つは既に埋まっていた。パーマをかけている人と、恐らく、カラーを髪に馴染ませている人と。それぞれスマホを弄って、時間を潰している。成程、丁度よく手が空いたところのようだ。


「本日担当させて頂きます、清水です。今日はどうします?」


私が案内された席に深く腰かけると、鏡越しにイケメン女子スタッフ・清水さんが訊く。

真剣な目に、ちょっとドキッとした。


「毛先が傷んでるので、十センチくらい切ろうかなと思って。あと、いつも自分で切ってるので不揃いで…。整えて頂けたら」

「えっ!自分で切ってるんですか?凄いですね!」

「いえいえ。ほんと、適当に。バサバサとハサミ入れてるだけなんで」


驚いた顔をした後、清水さんは「あ、本当だ」と笑った。


「めっちゃ短いのとかありますね!」

「ですよね。前髪かな?と思って切っちゃったら、そいつら、横へ行くんですよ」


私が不思議そうな顔をして首を傾げたら、清水さんは「あはは」と笑って、「前髪はこのラインなので、次からはこっちの髪は切らないで下さいね」と教えてくれる。


「先、シャンプーしますね。ご案内します」

「はぁい」


今日の『私』は、オシャレで気さくに喋る、親しみやすいOLだ。

こんなお洒落な美容院に来るのだ。化粧は念入りにしたし、服もいつものこましな格好よりも更にキチンとした可愛らしい格好をしてきた。裾の長いプリーツスカートを揺らし、シャンプー台のある部屋に移動した。

ちょっとシックな内装の個室空間で、ジャズだか何かのBGMがかかっていた。エステサロンを連想させる薄明かりの部屋は、ともすれば寝てしまうのではないかと思わせる。


「おねーさん、めっちゃ肌、綺麗ですね」


椅子を倒しながら、清水さんはそんなお世辞を言う。


「えっ、本当ですか?うれしー!」


弾んだ声で、私は返す。

上から、にこにことした顔が覗く。清水さんは髪の毛のから受け取る印象もあって、澄ました顔をしたらクールに見えそうな外見だが、人懐っこい笑顔をする人だな、と第二印象。笑うと、少し幼く見える。


「言われません?」

「全然!肌褒められるの、初めてですよ!」

「えー?こんなに綺麗なのに?あ、こちらの布をかけさせて頂きますね」


アイマスクのように掛けられた布切れはほんのりと温かくて、ますます眠気を誘う。

だからだろう。

うっかりしてしまった。


シャンプーをして貰いながらも色んな会話をしている中で、不意に。




「私って、とても希薄な人間なんです」




ああ。

一人握りの『本当の私』が顔を出してしまった。


『えー?そんなこと無いですよ』


続く言葉を想像して、心の中で薄ら嗤いを浮かべる。ああなんて、つまらなくて、満たされない会話なの。


「…そう思う気持ち、私も分かる気がします」

「……」


しかし、清水さんは想像した言葉を紡がなかった。


「私、美容師になるの、両親から反対されてたんです。実は両親共、公務員で。現実主義なんです。そんな『夢追い人みたいな職業、どうするの?』なんて。反対されてたんです。歳を重ねたからって、給料増えるの?とか」

「……」

「反対されたままでいい!なんて、家を飛び出して、好きなように生きようって思ってここまで来たけど……。二人共、私が大事だからこそ、将来を心配してくれてたんだよなぁって。大事に育てられて来たのに、親不孝だったなぁ…って。この歳になって思うんです」


なんてひどいことをしてしまったんだろう、って。と。

彼女はきっと、苦笑するように笑ったのだと思う。布がかかっているせいで、影さえも見えないけれど。


「………そんなこと、なんですよ」


いつもは、その人が今欲しいであろう言葉を選んで言う。私はそれが得意であると自負していた。

けれど、こんな時。なんて言葉をかけるべきかまるで浮かばない。

薄っぺらい人生を歩んできた私には、どこを探しても誰かを本気で助けてあげられるような言葉は見付からないのだ。


「…清水さんは、とても素敵ですよ。キラキラしてて、いいなぁって思いました。赤い短髪も沢山のピアスも、似合ってて素敵です。美容師だって、両親に反対されても自分の夢を貫くなんて、憧れます。…私、そんなに何かを好きになったこと、無いので……」


ああ、ついまた、『本当のこと』が零れる。


「………ありがとう。…まぁ、今はすっかり和解して、好きなことさせて貰ってるんだけどね!」

「えっ?あ、な、なんだ…!」


両親死んでるのかと思ったわ!

…とは流石に口には出さず。当の清水さんは、シャンプー流しますね、なんて飄々と言う。


「私のこんなつまらない身の上話に、そんな優しい言葉をくれるおねーさんは、全然『希薄な人』なんかじゃないですよ」

「……ありがとうございます」


素敵なコミュニケーション能力だなと思った。してやられたわけだ。

塗れた髪をタオルで少し押し拭きして、新しいタオルでターバンのように巻かれる。

じゃあこっちに、と先ほど案内されていたカットする席まで移動する。

髪を切って貰ってる間にも、色んな他愛もない話をしたが、きっとどれも記憶に残ることは無いだろうなぁと思った。

今さえよければ、と思って生きてきた人間は、そうそう変わらない。


「私、時々思うんです。元々優しい人間と、優しくあろうと思って必死な人間は、どっちがより、優しいんだろうなぁって」


けれど、またしても。予想に反して。

清水さんの言葉は耳に残った。



美容院を後にして、ドラッグストアで陳列棚に並ぶ、ありったけの板チョコを購入した。

買うのはいつも、決まってビターチョコレート。

ミルクチョコレートは甘過ぎる。ハイミルクなんて、もっての他だ。


私はいつでも、ビターチョコレートを好んで食べた。


金欠だった学生の時も。

どうしても、辛い時。

嬉しいことがあった時。

ビターチョコレートを無視できなかった。


時に、自分を励ます為に。

時に、自分を祝う為に。

ビターチョコレートを買って食べた。

板チョコを割らずに、豪快にそのまま噛るのが好きだった。

ストレスもそうやって解消した。


ビターチョコレートだけがいつも、私に寄り添ってくれた。


いつも、こんな私を、誰かに赦されたいと想っていた。

……神様なんて、居ないのに。ねぇ?


ビターチョコレートだけが、いつも私を赦してくれた。







「あ、こんばんは。一ノ瀬さん。…今日、お休みですか?」


声をかけてきたのはお隣の奥さま。…奥さまと言っても、旦那さんやお子さんといるのをみたことがない。同じ年頃の女性とルームシェアをしているようだ。詳しくは知らない。

ええっと、と心の中で記憶を巡る。


「…こんばんは。近衛さん。今日、有給だったんです。以前、近衛さんに教えて頂いた美容院に行ってきました」

「えっ?そうなんですね!ゆっくりできたようでよかったです。あそこ、いいところでしょう?親子でやってるんですよ。二人とも、よく似ていたでしょう」

「えっ、親子…?」


はてな?

美容院で聞いた話と辻褄が合わないぞ…?


「そうそう。短髪に、毛先を赤く染めて。昔、お母さんの方がそういう感じだったんです。今は、娘さんがそういうスタイルで、『血は争えないわ』なんて笑ってました。私も、人に勧められてからすっかり大好きになってしまって」

「………そうでしたか」


あの女…。初めから全部、嘘だったのか…?人の純情を弄んで………。

と、思うことは容易い。でも、そうは思えなかった。どこかにやっぱり一握り、本当の感情を混ぜているはずだった。


そうかぁ。

あんな素敵な感じの人でも、嘘ってつくんだなぁ…。


そう思うと、何だか可笑しかった。


「あら。今日は、本当にいい一日だったみたいですね」


私の顔を見て、そんなことを言う。

品の良い感じで近衛さんが笑うと、よく似合うボブカットが揺れた。歳を重ねても、ボブが似合うのは少し羨ましいなと思った。


「引き留めてごめんなさいね。じゃあ、また」

「いえ。お話しできて楽しかったです。また」


簡単な挨拶を交わして、お互い、それぞれの家に入る。


「ただいま」


部屋に入ると、嗅いだことの無い、いい香りがした。

あれ?と不思議に思ったが、どうやら美容院でしたシャンプーの香りのようだった。

真っ直ぐにダイニングに向かい、電気を点ける。鞄はそこら辺に放り投げて、ラグマットの上に座る。ドラッグストアの袋の中から、一枚だけチョコレートを取り出して、銀の包み紙を剥がした。

アロマのようないい香りと、チョコレートの甘い香りがする。混ざっても、不快な香りにはならなかった。


『知ってますか?言葉って、返ってくるんですよ』


誰かに優しくしただけ、ちゃんと自分にも返ってくるんですよ。と、彼女は笑った。


『縁て言うのも、意外と簡単に結ばれるんです。知ってました?』


私達が出逢えたのも、またご縁です!またのご来店、お待ちしております!

なんて続くものだから、上手い宣伝文句だなと感心した。美容師ってほんと、人たらしだよなぁなんて思う。やっぱり、私には務まらない職業の内のひとつだろうな、と。


この、凝り固まって苔の生えてしまった私の心は、そう簡単には解されないけれど。

人って、そんなに簡単に変われないけれど。


パキンッ…。


そんな音を立てて、板チョコを一口噛る。

口に咥えて歯で噛み割って食べるのが、最も美味しい板チョコの食べ方だと、相変わらず思う。


今日は、ほんのちょっとだけ、いつもと違った。

いい一日だったと、そう思えるから。


私は私を、もう少しだけ。

好きになってみようと、そう思えた。

人に優しくあれるように…。


今日も、相変わらず。

チョコレートが美味しい。












ーおしまいー

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チョコレートカルテット 将平(或いは、夢羽) @mai_megumi

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