第16話

彼女は高宗が崩ずると、洛陽城内の天堂に乾漆の弥革でないかと推測される大仏を造り、長安、洛陽の二京および諸州に「大雲経」を納めるために「大雲寺」を設立させた。

晩年には、洛陽の北亡山白司馬坂に銅製の大仏建立を企てている。

武則天は弥勒信仰を巧みに利用し、国家的イデオロギーをなしたのである。光明皇后と聖武天皇は、武則天を見習って東大寺大仏と国分寺を建立させた。

当時の先進国唐で流行している形式を取り入れた造営事業で、聖武・光明夫妻が仏教に心から帰依した結果ではない。

しかも光明皇太后は、自分が建立した海龍王寺に武則天に似した毘沙門台まで造らせている。光明皇太后は中国かぶれの風潮が支配的な中で、自分と同じ皇族でない女性が当時では最先端だった中国の唐で出現した中国史上初めての女帝武則天に深い関心を示していた。光明皇太后はこの武則天にならって政治を取り仕切った。

そして身内である藤原氏をとり立て、政権の安定を目論んだ。しかも皇太后は、自分の四兄弟が死んだ後は彼女の弟で武智麻呂の次男、甥の藤原仲麻呂のみを重用した。

もちろん、仲麻呂以外にも有力な一族が多数いた。後に仲麻呂に追放された実兄の豊成もそうだし、吉備真備と並んで左大臣となった永手もいる。

藤原氏は、不比等の子の四兄弟がそれぞれ一家を立て(南家・式家・北家・京家)人材が豊富なのである。仲麻呂を直接討ったのは、討賊将軍の藤原蔵下麻呂だった。その藤原家一族の中で光明皇太后は仲麻呂を選んだ。

彼は一家を代表する長男ではなく、豊成の弟である。彼自身は次男坊を自覚し、学問で身をたて学者になるべく勉学に勤しんでいた。彼は相当に学問に詳しく多くの書物を読んでいた。文化の中心の中国の歴史や法律、政治体制も仲麻呂は熟知しており、光明皇太后はその最先端の知識を必要としていた。

仲麻呂の出世のきっかけとなったのは、聖武天皇が孝謙天皇に譲位した天宝勝完元年に新たに設けられた紫微中台という役所の長官となったことである。この紫微中台という役所は、律令の規定にない令外官である。これは、それまであった皇后官職(皇后の直属にあり補佐する役職)を改めたものと思われた。

しかし、紫微中台の親設には次のような意図があった。

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