第14話 光明子の思惑

光明子にとっての最大の誤算は、自分が産んだ子供のうち大人にまで育ったのが娘の阿部内親王だけということだった。

光明子は念願の男の子を娘を産んでから九年後に産んでいたが、わずか一年で亡くしてしまっていた。藤原氏は急いで他の姫を聖武天皇に嫁がせたが、ついに皇子は生まれなかった。

阿部内親王は、聖武天皇と藤原家との間に生まれた唯一の娘となってしまった。

その阿部内親王は、すでに吉備真備の教育で聡明で教養深い女性となっていた。幼い頃の内親王は天皇候補ではなく日本古来のしきたりや伝統、由来や成り立ちという天皇になるために必要な知識を充分に教えられていなかった。

しかし聖武天皇は、藤原家の血をひく皇子に恵まれない。しかも聖武天皇には、すでに他家の妃との間に皇子が生まれていた。このままでは、よその家の皇子が皇太子になる。

焦った藤原家は、阿部内親王を皇太子とした。女性の皇太子は前代未聞で、しかも日本史上今日まで唯一1人だけである。

阿部内親王の立太子は、光明子立后の十年後の天平十年に実現した。十年の歳月は、光明皇后を始めとする藤原系妃の皇子誕生を待ちながらそれがかなわなかったことを示している。

女性皇太子は、結婚できないというきまりがあった。女性の天皇は結婚できない、という暗黙のルールが存在していたからだった。女性天皇の伴侶の男性が政治に口出しし、実権を握ったり新たな国をつくるのを防ぐためであった。

そのような問題のある女性皇太子には、強大な権威が備わっていた天皇家にさえ多くの氏族が反発した。そんな女性皇太子としての地位を安定としたものとするために、さまざまな行事がおこなわれた。

とりわけ天平十五年、五月五日節の日にあたって内裏において阿部皇太子は自ら五節舞を舞った。阿部皇太子はこの舞をひときわ艷やかに舞い、ほぼ全ての廷臣の心をわし掴みにし廷臣の反感を和らげた。

五節舞は天武天皇が君臣秩序維持のために創始したもので、それを阿部皇太子が舞うことで天下に「君臣祖子の理」を教えることができると述べている。

五節舞の創始者が本当に天武があったかは、その際問題ではなかった。重要なのは君臣秩序維持の論理の創始者が天武に仮託され、それを正当な継承者である阿部皇太子であったことである。

二十一歳で立太子した阿部皇太子は、十一年後に即位する。藤原系妃の皇子が予想に反して生まれず予想外の展開になってしまったのである。即位した孝謙天皇は、藤原系の皇子が生まれるまで結婚できなくなった。いずれは結婚できると考えていた阿部皇太子にとっても大きな誤算であったが、母の光明皇后を多くの親族に説得され泣く泣く了解せざるをえなかった。すでに聖武太上天皇は老いてはいたが、まだ皇子が生まれる可能性はゼロではなかった。

孝謙天皇は、天皇になって一年後に十八年ぶりに遣唐使を再開する。この遣唐使の派遣は当時天皇が即位した際よくおこなわれた政策ではあるが、彼女はこの派遣には始めて派遣する役人や優秀な留学生などの選抜に彼女が主導し、手配や任命式に積極的に関わった政治だった。

彼女は、まだ政治をよく理解していなかった。二年後の大仏開眼も父聖武や母光明子が主導し、彼女はただついていくだけであった。

しかし彼女はそういった行事や朝廷の評定などに関わることで、次第に人脈をつくり徐々に政治がわかってきた。それでは彼女が政治を主導しようする意思はなく、あくまで自分は中継ぎの天皇という立場を崩さなかった。

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