第18話 決断

木本は久遠を総理官邸に呼び、最低賃金の大幅な引き上げ案を詰めていた。各方面からの強固な反対にあい、施政方針演説には盛り込めなかったが、今回は内閣提出法案として出すつもりでいた。民自党の了承や委員会の審査など、いくつものハードルはあるが、本会議審議までたどり着ければ、野党も味方になるはずで、法案成立の芽が出てくる。                                                「下請けの中小企業の賃金上昇分を元請けの大企業に認めさせる法整備が必要です。同時に労働生産性を上げ、賃金の上昇分を吸収できるように、生産過程の効率化を促し、そのための補助金制度も充実させましょう。」久遠の説明に木本は頷きながら言った。「製造業はそれでいいとして、問題はサービス業だな。この業種は個人経営も多いから、人件費の上昇は死活問題になる。」「確かにこれらの業種に生産性を上げる余地はあまり残っていません。」「やはり賃金上昇分を価格に転嫁するしかないだろうな。」「国民の理解が得られるでしょうか?」「最初は反発するだろうが、低賃金で働かされている労働者の窮状を丁寧に説明して、理解してもらうしかない。もう待ったなしの状況なんだ。」                                     木本は最低賃金改正法案を閣議にかけた。経済産業大臣の真壁博史が即座に反対した。「総理、最低賃金を1500円にするなどあり得ません。そんな事したら中小零細企業は潰れますよ。いや、それだけでなく、大企業も国際競争力を失って大変なことになります。」それを聞いて木本は言った。「週に40時間労働として、時給1500円でも週に6万円、月に換算すれば25万円位にしかなりません。年収で300万円、これが最低ラインだと思います。大企業は派遣でも時給1500円をクリアしているところが多いので問題はないと思いますが、中小零細企業と個人事業に対する対策は確かに重要です。」「大企業でも下請けの賃金が上がればそれだけ商品単価は上がる訳ですから、苦しくなるのは明らかです。体力のない、零細企業や個人事業に至っては、もう廃業するしかない。国内経済は破たんして、失業者があふれかえりますよ。」真壁は(何を言っているんだ)と言わんばかりに声を荒らげた。                       「今、わが国は、年収300万円以下で働いている労働者の割合が全体の約4割にもなっています。いわゆるワーキングプア―と呼ばれる人々です。真壁さんはこの問題をそのままにしておいてよいとお考えですか?」「その中には(103万円の壁)を超えないようにして働く主婦層や学生アルバイトが相当数含まれていますので、その数字を鵜呑みにはできません。」「今の学生の多くは、実家の収入が減り生活が苦しい。奨学金を満額まで借りている者も少なくありません。時給が上がれば、そういった状況を緩和できるのではないでしょうか。主婦層にしても、年金財政の破たんを回避し、少子高齢化時代に不足する労働力を確保するため、将来的には103万の壁はなくす方向で進んでいます。そのためにも最低賃金の引き上げは絶対に必要です。」真壁はため息をつきながら言った。「少し時間を下さい。よく検討してみます。」                  閣議の翌日、金山が官邸を訪れた。「総理、真壁から聞いたが、馬鹿げた法案はすぐに引っこめるんだ。経済団体から反発を食らうのは目に見えているし、何より日本経済は大混乱になるぞ。いったい何を考えているんだ。」「金山さん、今の状況を放置したままでは、国民は疲弊し、日本という国自体が持ちません。経済界も早くそれを自覚して、安い労働力で利益を出すのではなく、生産性を上げて利益を出すことにシフトすべきです。」「機械化を進めて、少ない労働力で事業を行えということか?そんなことをすれば失業者が大量に発生して、低賃金どころか収入が0になるぞ。それこそ国が持たんだろう。」「ですから、その対策として…」木本が説明しようとすると、金山がそれを遮るように言った。「とにかく、そんな法案は引っこめるんだ。もしお前が法案提出を強行しても民自党は反対に回る。どのみち、そんな法案が通ることはない。お前、民自党をクビになりたいのか?」金山の恫喝に木本は唇を噛んだ。 木本の全身を虚無感が包んだ。一国の総理大臣といっても、実情は党の方針に逆らえない無力な存在…。この国の社会システムはどこかおかしい…わかっていてもそれを変える力など自分にはない。暗い部屋の中、木本は腕組みをして座ったまま、しばらく目を閉じていた。その後、ゆっくりとスマホを取り出し、ある人物に連絡した。           「もしもし、民自党総裁の木本ですが……」                                         

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る