第7話 後藤 守 ③

「もしもし、後藤か?俺、吉川だけど…」 研究室を去ってから一年が過ぎようとしていたある日、突然、吉川卓から連絡があった。吉川は東都大学の同期で、今は西北大学で自分と同じナノテクノロジーの研究を行っていた。「お前、研究室クビになったんだって?今何してるんだ?」相変わらず相手のことなどお構いなしの言葉に、少しムッとしながら答えた。「中学校の教師をしているよ。」「お前が教師?それも中学のガキども相手に?落ちたもんだなあ…。」「用がないならもう切るぞ!」「まあ待て、お前にいい話があるんだ。お前、まだ研究に未練があるんだろ?」未練がないはずがない。実際、佐伯教授とは今でも連絡を取り合い、仮説の実証実験もやってもらっていた。吉川は続けて言った。「俺とお前を雇いたいという企業があってな、驚くなよ、年俸は2000万円で研究費は使い放題だぞ。」驚くなと言われても驚く言葉だった。そんな夢のような話があるんだろうか?思わず吉川に聞いた。「どこだ?」「大京化学。」その名前を聞いてすぐ、頭の片隅で警鐘が鳴った。大京化学・・・・中国資本が2年前に買い取った会社だ。「お前、その会社がどんなところか知ってるのか?」「ああ、中国系の会社だろ、何か問題があるのか?」「俺たちの技術を中国に売り飛ばすということだぞ、そんなこと出来る訳ないじゃないか!」「お前もっと現実を見ろよ。日本の政治家や官僚が俺たちに何をしてくれた?研究費は毎年削られ研究用機材のひとつも満足に買えないんだぞ。それどころか、大学の給料だけで生活できる奴が何人いる?金と権力のことしか頭にない政治家や、そいつらをうまく利用して自分たちの利権を死守することしか考えていない官僚連中の牛耳るこの国に未来はないぜ。お前もわかってるんだろ?」(それはわかっている…他の誰より…)そう心の中でつぶやきながらも後藤は言った。「それでもこの国を裏切ることはできない。」わずかな沈黙の後、吉川は静かに言った。「お前はご立派だよ。俺はもう決めたし、北東大学の相浦教授も行くみたいだぜ。」「相浦さんが…?」「ああ、研究者である限りは、自分の能力を存分に発揮したいと思うのは当然のことだろ?もう一度よく考えてみろよ、じゃあな。」                                吉川の言っていることは正しい。正しいがゆえに悔しい。相浦さんのような優秀な頭脳が次々とこの国を見限っていく。この国はいったいどこへ向かっているのだろう。後藤はいたたまれない喪失感に襲われた。                                     吉川から連絡があった数日後、毎朝新聞社会部の井本恭平から電話があった。井本はあの「天下り」を阻止した時の協力者で、その後自分が中学校の教師になったと聞いて、教育コラムの執筆を依頼してくれた。自分は公務員なので、その依頼を無償で受け、教育現場の現状と改革の必要性をストレートに発信した。しかしその内容が、「今の教育制度を批判するもので不適切である」という理由で、教育委員会から校長を通してコラムの執筆をやめるように何度となく圧力をかけられ、これに応じないでいると、「指導力不足教員」というレッテルを張られ、教育センターでの再教育という名の辞職勧告も受けた。                                         「一条健という人がお前に会いたいそうだが、お前知ってるか?」その名前を聞いた瞬間、大学の研究室で、屈託のない笑顔で楽しそうに話していたあのモデルのような顔がすぐに思い浮かんだ。「ああ、知っているけど、一条さんがそこにいるのか?」「今、うちの社長以下重役たちに「メディアの将来像」についてレクチャーしているよ。しかしあの人は何者だ?唯我独尊で人の意見など聞かないあの社長が、自分から招いて来てもらったんだと。まったく「アンビリバブー」だよ。なんでもイギリスのヨーク大学で、「未来のメディアのあるべき姿の構築」、に関わった人らしいな。」それを聞いて、こちらが驚いた。大学の研究室での、あのナノテクノロジーやAIに関する人並み外れた深い知識と佐伯教授の話から、非常に優れた科学者なのだろうとは思っていたが、メディア論? いったいどういう事かと考えていると、井本が続けて言った。「その一条さんから、お前にアポをとるように頼まれてな、どうする?」  予定では、重役たちへのレクチャーはあと1時間位で終わるということなので、自分がそちらに出向くと言って電話を切った。                               毎朝新聞社のロビーに入ると、一条が研究室の時と同じ笑顔でティーラウンジから手を振って迎えてくれた。二人は立ったまま言葉を交わした。「お忙しいところ、突然お呼び立てする形になってしまい、申し訳ありません。」「いえ、それはいいのですが、驚きました。それで何かお話があるのでしょうか?」一条は後藤にソファーを勧め自分も座ると唐突に切り出した。「私と国会で働いていただけないでしょうか?」後藤は何を言われたのか理解できず、思わず聞き返した。「国会で働く?…いったいどういう事でしょうか?」一条から笑顔が消えた。「次の衆議院選挙に私と立候補してほしいのです。」相手を圧倒する、しかしなぜか引き込まれる一条の強い眼差しに一瞬、気おされながらも、後藤は何とか言葉を発した。「なぜ私に…私はただの中学校教師、それも今は教師失格の烙印を押された人間です。とてもあなたのお役に立てるとは思えません。」するといつもの優しい笑顔に戻った一条は、目の前のコーヒーを一口飲んでから言った。「あなたの大学での研究論文と、この国の科学技術政策に対する批評、そして今の教育行政に関する問題提起と改革案、すべて拝読させていただきました。それはまさしく私の考えと一致するのです。それに何よりあなたの心は澄んでいらっしゃる。自分の欲のためではなく、この国のために力を尽くしてくださると思ったのです。」「一度しかお会いしていないのに、私のことなど分かるはずはないと思いますが…」「いや、分かるのです。なんといいますか…若いころからの特技といいますか…一度お会いしただけで相手の心が見えるのです。何か変なことを言っているでしょ、でも本当なんです。」そういって笑う一条につられて後藤も微笑んだ。その後一条から、この国が間違った方向に向かっていること、そしてそれを正すための驚くような政策のいくつかを聞くうちに、後藤の心の中の迷いは消え失せていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る