第5話 後藤 守 ②
「後藤君、ちょっといいかな」 研究データを入力しているとき、佐伯教授が教授室のドアを開けて手招きした。「普段、研究中は決して声をかけないのに珍しいな…」そう思いながら教授室に向かった。「失礼します」ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、いつもの温厚な顔つきとは違う、苦悩の表情に満ちた教授の顔だった。「教授、何かあったのですか?」佐伯はすぐには答えず、腕組みをして机上の一点を見つめていたが、意を決したようにこちらに顔を向け、絞り出すような声で言った。「科研費が打ち切られるかもしれない。」後藤は耳を疑った。科研費とは、科学研究費補助金のことで、文科省が有用と認めた研究に補助金を出すというもので、事実上この補助金がなければ、大学をはじめすべての研究機関は存続が難しくなる。「なぜそんなことに…」と言いかけた後藤は、すぐにその原因に思い当たった。「天下りの件ですね。」2か月ほど前、文科省から「参事官だった吉田明を工学部の特任教授に」という打診があった。年俸は1500万円、3年間という期限付きではあったが、工学の知識など皆無である人間に、退職金も含めて5000万円を超える国費を費やすという馬鹿げた申し出にもかかわらず、当初、大学側は文科省との関係悪化は是が非でも避けたいがために、「受け入れやむなし」という方針だった。それに対し後藤は「天下りなどという一官僚の私利私欲のために、国民の税金をつぎ込むことなど決してあってはならない。このような不正に国の最高学府である大学が加担することは許されない。」という内容の意見書を大学側に提出、同時に毎朝新聞の社会部にいる旧友に事の詳細をリーク、この天下りは白日の下に晒されることとなった。文科省は即座に「そのような事実はございません」というコメントを発表、大学側も天下りの件が白紙になったことで、すべての当事者に「これ以上、事を大きくしないように」と厳命して沈静化を図った。しかし、それでは終わらなかった。文科省はこの件の「主犯」として「後藤を切れ」と暗に要求、学長も佐伯教授もこれを拒否したことが今回の「科研費打ち切り予告」になったのは間違いない。後藤にはもう選択肢は残されていなかった。権力者たちの私欲を満たすための、そんな馬鹿げた事のためだけの圧力に屈することなど、自分のすべてを犠牲にしてもあり得ないことだが、佐伯教授や他の研究員たちが、毎年削減される研究予算を何とかやりくりして、「自分たちの夢のため」それはとりもなおさず「この国の未来のため」の研究を、身を削りながら行っている。そんな彼らの志を、自分が原因で潰してしまうことだけは絶対にできない。後藤は静かに研究所を後にした。
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