第2話ボストンの家族

マサチューセッツ州選出の民主党上院議員「トム・クーパー」の書斎で、一条はクーパーと政治・経済談義に花を咲かせていた。クーパー夫人は元国連職員の日本人で、日本名は「藤堂香織」、国連当時の後輩が一条の姉「一条真由美」であった。真由美は現在イギリスで、夫と共に実業家として活躍し、今でも香織とは連絡を取り合う仲である。一条のボストン行きが決まった時も、真由美はすぐに香織に連絡し、弟のことをお願いしていた。 クーパーが尋ねた。「人間には水が必要だ。そしてその水を一人一人の手元まで運んでくれる川がなくてはならない。元来、水のない場所には川はできない。そのような場所では、まず水を掘り当てなければならない。これにはとてつもなく長い時間を要する。しかし、日本には水がある。それが流れる小さな川も無数にある。にもかかわらず、国民に行き渡る前に途切れてしまう…なぜだと思う?」 一条は即答した。「政治家が無能だからです」この答えを聞いたクーパーは満足げにうなずき、目でその先を促した。「政治はその小さな川を結び付け、方向性のない無数の流れを大きなうねりとして一つの方向、つまり国民の方向へと向かう大河にする必要があります。しかし日本の政治はこれをやってこなかった。それどころか規制という堰を使ってこの流れを止めることさえある。」  「わが国にも規制はあるが…」 「少なくとも貴国には大河が育つ土壌が整備されている。GAFAの登場がそれを証明している。この先、これらの大河が氾濫しないようにコントロールすることは大変でしょうが…」 「アッハハ…そうだな、それはこれからの我が国の課題だな」クーパーが楽しそうに笑っているとき、キャサリンが芳醇な香りのモカマタリとクーパー夫人お手製のアップルパイを運んできてくれた。「楽しそうねパパ、何のお話しをしているの?」「ああ、ケンが日本の技術力の衰退を嘆いているんだよ。」「なにそれ、それでなぜパパが笑っているの?変なの。」そう言うとキャサリンは一条に目配せして書斎を後にした。クーパーの一人娘キャサリンは、ハーバード大学ケネディスクールで国際政治を研究する才女で、肩下まで伸びた絹のような黒髪に端正な顔立ち、その仕草や立ち振る舞いは「麗しい」という言葉が思わず出るほどの美しい女性だったが、その眼差しには一瞬の隙もない力があり、初対面のものは軽々しく声をかけることなど到底できない雰囲気を醸し出していた。しかし家族や親しい友人、特に一条の前では、優しくお茶目な一人の女の子だった。        モカマタリを一口飲んだ後、クーパーが突然切り出した。「何か話があるんじゃないのかい、ケン」 一条はクーパーの真剣な、しかし優しい眼差しを見つめた後、数秒間目を伏せ、再びクーパーに向き合い、答えた。「日本に帰ろうと思います。」それを聞いたクーパーは一瞬眉を寄せ、その後小さな声にならないため息をついて言った。「やはりそうか。最近の言動を見ていて、何かが君の心の中で動き始めているような気がしたんだ。これまで表に出なかった君が、先の論文では全米にその名を知らしめた。先日「ネイチャー」に取り上げられたオックスフォード大学、ジョン・カール教授のAIに関する論文にも君の名があった。そして今度は「TIME]の表紙に、という話まである……政治家に…なるんだね。」 一条はクーパーの目をまっすぐに見ながら答えた。「はい、もう時間がありません。このままでは、日本の国民が、金と権力と自己保身だけを求める無能な政治家や、企業の存在意義を忘れ、利益だけを求めて労働者を使い捨てる資本家に食いつぶされてしまいます。」 いつも穏やかに、淡々と言葉を発する一条が、初めて見せる怒気を含んだ言葉にクーパーは少し驚いた。  「今の言葉は日本だけではなく、わが国も含めたすべての資本主義国家共通の問題だと思うんだが…ケンは資本主義経済体制自体を否定するつもりかい?」クーパーの問いに、一条は迷うことなく答えた。「第4次産業革命と呼ばれるこれからのテクノロジーの時代は、AIを駆使した機械やコンピューターが人間の仕事の多くを行うようになるでしょう。その時問題になるのは、それらが生み出す富を誰が手にするか…。もし資本家がこれを独占すれば、貧富の差は極限にまで達し、希望も持てず、低賃金で奴隷のように一生働かされる労働者があふれかえることになるのは火を見るより明らかです。しかし、この富を、国民が手にすることができれば、皆が豊かな生活を送れるようになる。奇跡の生命体である人間が、テクノロジーという武器をも備えた現代の人間が、たかだか80年の人生を幸せに暮らせない現在の資本主義経済社会など、守る価値はないと思うのです。」                        少しの沈黙の時間が流れた。                          「価値がない…か。しかし資本主義を根底からひっくり返すなど出来る訳がない、と一蹴するのが常識なんだろうが、君が言うと、ひょっとしたら…と思ってしまう。」「(常識とは、18歳までに身に着けた偏見のコレクションのことを言う)でしょ?」「アハハハ…そうだったね、アインシュタインはそう言ったんだった。これからの社会、常識という名の偏見を打ち破っていくことが必要だと私も思うよ。そうでなければこの歪な格差社会を正すことはできない。よろしい、思い切りやってみなさい。私にできることは何でもやろう。まあ、君のとてつもない人脈からすれば、私の力など微々たるものだがな。」「早くに両親を亡くした私にとって、クーパーさんは、強く、厳しく、そして優しい、かけがえのない父のような存在です。」「私もだよ。特に妻の真由美は、君が息子のようにかわいくて仕方がない様だ。」そう言った後、少し寂しそうにつぶやいた。「本当の息子になってほしかったんだが…。」  その言葉の意味を、一条はよくわかっていた。しかし、それには答えられない。これからの自分の行動に対して、今の社会を支配する勢力が、危険な圧力をかけてくることは間違いない。そしてその敵対勢力は、必ず自分に近しい者を攻撃してくる。この素晴らしい家族を、そんなものに巻き込むことだけは絶対に避けなければならない。一条は心の中でそう呟いていた。                          小さなリンゴ園のあるク―パー家のテラスで、一条はキャサリンとベンチに並んで座り、星を眺めていた。「あのね、ケン 天文学者のダニエル・ハンス教授が、太陽系のような惑星に地球外生命体が存在する可能性は0・00…1%(10のー20乗%)とおっしゃってたわ。私は絶対にいると思っていたのに…。」それを聞いていた一条は、微笑みながら言った。「キャサリン、太陽系のあるこの天の川銀河には、太陽と同じような恒星が約1000億個(10の11乗個)あると言われているんだ。そして宇宙には、銀河も約1000億個あると言われている。だから宇宙には10の11乗に10の11乗をかけた10の22乗個の恒星があることになるだろ?ハンス先生は地球外生命体がいる確率は(10の-20乗%)×(10の22乗)=10の2乗%つまり100%と言っているんだよ。」「そっか!ハンス先生は私をからかっていたのね。」かわいいしかめっ面をしたキャサリンを見ながら一条は言った。「でも今の僕たちの存在が奇跡的であることに変わりはないんだ。一人一人の人間が、いや人間だけでなくすべての生物がかけがえのない存在……今の社会はそれを忘れている。」 夜の涼しい風がキャサリンの美しい黒髪をゆらした。「もうすぐリンゴの収穫が始まるわね。去年はケンが、そこの大きな木に登ったと思ったらすぐにかごいっぱいのリンゴをとってくれてママ大喜び。今年はいつやろうかなあ…。」「キャサリン…」「あっ、それと来月のバーベキューパーティーで、お隣のスミス夫妻がケンのお好み焼きを食べてみたいって言ってたわ。本当にあれおいしいもの。それと……」「キャサリン、話があるんだ。」一条は真剣な眼差しでキャサリンを見つめた。「なあに?」そう言ってケンを見つめたキャサリンの美しい顔には表情がなく、唇は少し震えていた。「日本に帰ろうと思う。」一瞬、ぴくっと全身を震わせ、うつむいたキャサリンが、今度は唇を震わせることなく、涙をこぼさないように精一杯の笑顔を一条に向けた。「そうなんだ、ついに決心したのね。ケンの全力が見られるのか…想像もできないけど楽しみ。でも心配だなあ…ケンは少し世間とずれているところがあるし、朝は弱いし、食事も不規則だし……」そう言いながら、キャサリンの瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、その後の言葉は声にならなかった。一条は優しくキャサリンを抱きしめた。夜の静けさの中、小さな泣き声だけが、一条の胸の中で響いていた。                               

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