第2話

 そうして、鬼との邂逅より、すでに90日が経とうとしていた。


 後、十日ばかりと長谷雄はそればかりが頭を離れなかった。何も女とまぐわいたいということではなく、女を自慢して歩きたいと云う話でもない。ただ、その手に触れてみたいという、情念だ。長谷雄はその思いに胸を焦がしていたのである。


(あと十日、私はついに報われる)


 しかして、京の町には不穏な風が吹きすさんでおりました。そんなある日のことでございます。


 今日も今日とて、長谷雄はといえば、鼻歌まじりに通りのど真ん中を進んでいた。


 はたと、長谷雄は思いつく。団子でも買って帰ってやれば、女は喜ぶに違いない。


「やあ主人、団子を二本もらおうか」


 主人は、へいと答えると嫁さんへのお土産かいと聞きました。


「そんなところだ、早くしてくれ」


 団子を受け取ると、主人は心配そうな顔をした。


「なぁ旦那、旦那ったら。きいたかい、また鬼が出たんだとさ」


 長谷雄はそれをきいて、大層愉快そうに大笑いした。


「鬼など、恐るるに足らずというものよ。主人、おれはな、鬼に勝って見せたのだ」


「へぇ、そりゃあ剛気なお人だ」


 主人の方を見てみれば、呆れたような、そんな顔。

 続けて、主人は忠告する。


「けれども旦那、鬼が狙うは女子供だそうで。もう日も暮れましょう、早く帰って良い人とうちの団子でも食ってくだせえ」


 長谷雄は踵をかえすと、団子をもって道の端を早歩きで帰った。


(まさか、鬼も自分で与えた女まで食おうなどという恥知らずではあるまいな)


 一歩、また一歩、足は早くなっていった。


「帰ったぞ、水姫」


「あらまぁ、お早いお帰りで」


 しとしとと、女の名前のような冷たい声に長谷雄は心底安心した。


「なぁ、鬼が出たそうだ」


「それは恐ろしいこと、あなたさまも、そう思いませんか?」


 水姫は美しい顔で言う。

 長谷雄の心に、一つの疑問が湧いて出た。鬼より、渡されたこの女は、果たして一体何者なのか。妖の類ではあるまいが、さりとて只の女のはずがない。


 けれど、それを口に出せば、なんだか女が目の前からいなくなってしまいそうで、長谷雄はむんずと口の端を噛み締めた。


「さて、もう夜になりましょう。火を焚き、鬼を遠ざけましょう」


 そうして、満月が空に上がった。

 女は何も言わなかった、長谷雄は何も言えずにいた。

 囲炉裏に火が揺れ、団子を食む音がする。

 遂に、長谷雄は耐えかねて、口を開いた。


「長く聞かずにいたことだ。そなたは一体何者なのだ」


「何者とは?」


「鬼の、戦利品が只の人であろうはずがあろうか」


「ついてきてくださいませ」


 家を出ようとする女を前に長谷雄は声を張り上げた。


「待て、答えてくれ」


「ついてきてくださいませ」


「ならぬ、そなたは人前に出してはならぬのだ」


「皆、鬼を恐れて表にはおりませんでしょう」


 女の目は、長谷雄の目を深く見つめていた。


「ついてきてくださいませ」


 いつのまにか、夜はすっかり深くなっておりました。前を歩く女の肩が揺れるたびに、闇はどんどん暗くなっていきます。


 長屋の窓から漏れでるはずの灯はどうしてか、消えていき、女の小さい背中は輪郭がぼやけていきます。


「水姫、水姫、返事をしておくれ」


 それから、何度呼びかけたでしょう。ぴたりと、止まった女は途端に振り向いた。


「あなたは、私を愛しておりますか」


「愛しているとも、早く帰ろう」


「ならば、この手を取ってください」


 女は、その青白い手を伸ばした。勿論、長谷雄はその手を握ることなど出来はしない。


「そんなことをすれば、消えてしまうではないか」


「さぁ、さぁ、さぁ」


 長谷雄は、ようやく気づいた。水姫の、その背後のものに。

 そびえるは荘厳なる朱雀門、そこに腰掛ける大男、周りを囲む角の群れ。


「ああ、なんということだ」


 腰を抜かして、尻餅をつくと、鬼どもはゲラゲラと笑い始めた。


「水姫、そなたは鬼であったのか」


 女は笑う。

 鬼どもとは比べものにならないほど綺麗に笑った。


「あなたさまが、私に手を出さないものですから、本当に指一本触れないものですから、鬼どもめは耐えかねたのでしょう」


 女は語る。


「鬼より作られし、我が身なれば、溶けて消えるが定めでありましょうに」


 長谷雄は震える足を力一杯殴りつけ、生まれたての馬のように立ち上がり、女の目を見て、こう言った。


「なんと馬鹿なこと、消えるなどと冗談でも言うな」


 何と愚かな、紀長谷雄。けれども、彼は愚かな故に、未だに女を深く愛していたのです。


 女はとうとう、泣き出した。


 周りの鬼はそれを見て、怒号をあげて野次を投げた。


「やい、笠置山の。話がちげえじゃねえか、つまらねえもんを見せやがって」


「おれらは、肉の水に浸る愚物を見に来たんだ」


 笠置山の、と呼ばれた鬼はそれを見て、一際大きな声で宣った。


「やあやあ、愚かな紀長谷雄。丹精込めた我が見世物よ。わたくしは面目潰れし、次第にございます。そなたが欲すはその女、けれどもそれは水の泡。なれば、誠をかけまして、水をも掴む勝負を一つ。恥をかき捨て今一度、鬼との勝負を今一度」


 空を割るような鬼の声は京の果てまで鳴り響く。長谷雄も大きく息を吸い込んで、負けじと鬼へ啖呵を切った。


「奉られし、北野天神よ。我が災厄を退けたまえ」


 つまりは、これが最後の勝負。その始まりの合図に他ならぬのでございます。

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