朱雀門の鬼
三浦周
第1話
昔々の話でございます。
朱雀門には鬼が出るという。
天に轟く大内裏の、南に開かれしその門は昼は人だかりで埋もれるほどであったが、夜はとなれば、皆その噂を恐れて近づきもしなかった。
とある夜、月あかりの下をゆんらゆんらと歩きし男あり。名を紀長谷雄と申すもので、詩文を主として学び、その才は文章得業生である都言道をもって、綴韻の間、甚だ風骨を得る、と称されるほどである。しかして、そのなりは低い背丈に、顎から足の先にかけて牛蒡のように瘦せ細っていた。
おぼつかぬ理由はその酒癖にある、一献と注がれる酒の香りを長谷雄はひどく好んでいた。今宵も、喉より登る酒気を盛大にまき散らしている。けれども、酒を飲むわけは他にもあった。
長谷雄は呆れるほどの見栄張りであったものだから、目を開いている間は何時も聞き耳を立てていた。耳に入っていくのは、彼の望むものなど一つもなく、大抵は同門のやからのつまらない恋や自慢話ばかりである。それでも長谷雄は懲りずに酒盛りに赴いては、自らへの称賛を待ち望んでいた。
「そこの方、そこの方」と門のほうより声がする、野太いそれに振り向くと、先ほど通った門の上に大男がずいぶん偉そうに座っていた。
「何ようか、天下の内裏の門に坐するとは、不躾であるぞ」
「これは失礼申し上げる」
門の下まで、軽やかに降りた男は背丈を伸ばし、長谷を見下ろした。背丈は五尺を超えようかというほどであり、その頭上には一本の長い角が生えている。長谷雄はその赤ら顔をさらに緩ませて、大いに笑い始めた。
「成程、貴様が都を騒がせている鬼とやらか」
「はて、鬼など何処にでもおりましょうや。けれども、左様、わたくしは鬼でございます」
長谷雄は、さほど驚きはしなかった。むしろ失望するほどであった。鬼の姿が都に流れる噂には程遠いものだからだ。曰く鬼は人食いである。特に美しい女をよく狙い、そのものの最も美しき部位を奪っては食らう為、傍から見れば、この世のものとは思えないほどの美女と同じ姿であったと長谷雄は聞いていた。けれど目の前の鬼はといえば、絵巻にありし赤鬼の類とそう変わらないものであったのだ。
「そこの方、わたくしと一つ双六でもいかがかな」
これに、浮かれ切った長谷雄は二つ返事でうなづいた。しばし双六など、することもなかったが、齢若きころには名人と呼ばれるほどに打ち込んでいたからだ。
取り出したる双六の面の前へ、両者はよいしょと腰を落とした。勝負となれば、景品だ。そう思い、長谷雄は「何もなしであるまいな」と言ったところ、鬼は賽を片手に嬉々として語り始めた。
「鬼との勝負でかけるのは貴方様の命にございます」
長谷雄は膝を叩くと、鬼へ「勝ったならば、どうなるか」と問う。待っていたかのように、鬼はその頭上で両の掌をばたんと合わせた。そうすると、鬼の背中の後ろから、闇が解けるかのように女が表れたのだ。その髪は夜に溶け込むほどに黒く艶やかであり、顔立ちは真白の肌に口元の紅がそれは良く似合っていた。
「このものを差し上げましょう」
長谷雄は興奮し、歓喜した。彼は女という性から、蛇蝎の如く嫌われていた。彼の見た目と、その偏屈にも近い言動のせいだろう、嫁の予定も経たぬほどなのだ。半月前にも、二つ隣りの家の三女に、袖にされたばかりである。
そうして、とうとう賽は投げられた。
開始一投、鬼の番。出目は六でございます。鬼の石は盤の目に迷いなく、打たれました。
長谷雄も負けじと出目は四、遅れて追っていきまして、幾度と投げられ、序盤は全く鬼の優勢。
これには鬼も高笑い、どこかから取り出した瓢箪を逆さに傾け、酒を一気に飲み干した。けれども、そこは長谷雄も上手い。長谷雄の石はまるで獣の如く、鬼の石を切っていく。すっかり度肝を抜かれた鬼は、それでも未だけらけらと笑っていたが、すでに勝負は決していた。
「お強い方だ。こちらの負けにございます」
大差をつけた勝利である。望んだままの賞賛である。風に乗った冷たさですら、長谷雄の肌を冷ますことはできなかった。
「そうかそうか、強いであろう」
長谷雄はすっかりいい気分になり、女の方へ手招いた。鬼は「さすれど、条件がございます」と手を伸ばす。
その条件は二つきり、女を人目に出さぬこと、女に手を触れぬこと。
そして、条件を破れば女は消えて無くなること。
長谷雄は激昂した。これではなんの意味もないではないか、と。鬼は慌てて、最後にもうひとつ、百日経てば、女を触れてもよいし、連れ回してもよいと言う。
長谷雄は元より、女っ気のない男であったから、この条件を仕方ないと飲み込んだ。
「それでは、よい夢を。その女は水姫と申しまする」
鬼は高く飛び上がり、屋根を伝ってどこぞへ消えた。こちらへこいと、女に言えば、か細い声で、はいと答えてついてくる。
夜道は随分と静かであった。
次の日から、長谷雄は自信を周囲へ振りまいて、堂々たる足取りでお天道様の下を闊歩した。
周りは「はて、あの男何が変わったか」と大層不思議がり、長谷雄に聞けども、元よりこのままであるとしか答えないのだ。
長谷雄はといえば、家にいる女に自分の自慢話ばかりの毎日である。我が詩作を聞くが良い、そういって読まれる詩の全ては確かに素晴らしいもので、女はいつも「素晴らしいものと存じます」とだけ言う。
口の紅から溢れる賞賛に、男は快楽を抱いていたのだ。その腰つきやら首筋やらを見つめたまま、百日を指折り数えていた。
ある日のことだ。女の顔を眺めていると長谷雄は珍しく女を褒め始めた。
「ああ、水姫の目は五条通りの看板娘よりも美しい」
女は、左様でございますか、とだけでちっとも喜ばない。
なので、長谷雄はむきになって「そなたの髪のしなやかさに比べれば、二つ隣の家の三女などは女とは思えない」と言った。
けれども、水姫は何を言おうとも、喜ぶことはなかったのだ。
誰と比べられようとも、全く気にもかけず、長谷雄の話だけを聞いていた。
(この女は、何故こんなに美しくあるのに、それを鼻にかけなんだ)
長谷雄にとって、それは解けぬ疑問である。いつしか、長谷雄は自慢を辞めて、そそくさと家に帰るようになっていた。
無論、手ぶらではない。
水姫の為にと花を摘んだり、反物を持ち帰ったこともあった。それでも、女は合いも変わらず、綿の抜けた座布団の上に佇んでいるのみである。
欠けた月が雲に隠れた晩のことである。
長谷雄はひどく苛立ちを覚えていた。女の、気にも留めない態度に憤慨したのだ。その日の手土産は一等煌びやかな櫛で、それは長谷雄の貯蓄を大きく切り崩した散財であり、ちっぽけな彼の精一杯であったのだから。
「やい、女。何故、喜ばぬのだ。この櫛は素晴らしい物なのだぞ」
女は、ひょいとその櫛を床に置くと、淡々と語り始めた。
「欲しいとも言っていない贈り物に何の価値がありましょうか」
腹を立てた長谷雄は、その櫛を握り、囲炉裏の方へ力一杯に打ち捨てた。
そうすると、部屋の方々へ砕けた端が飛び散って、櫛は大きな音を立てて、燃え尽きた。
女は何も変わらない。
長谷雄は、とうとう項垂れてしまった。彼は女に向き合うとすまぬと一言漏らし、そうして、長い間、黙りこくった後、ようやく語り始めた。
「なぁ、水姫や、何をすれば笑うのだ」
男のこぶしは自らの胡坐に突き立っていた。
「そのように問われましても、困ってしまいます」
狭い家屋にはため息だけが満ちたのだ。
「これではあまりに遣る瀬無いではないか」
長谷雄はここのところ、日が昇るまで考え続けていることがある。それは、自分がもしも、この女にふさわしい程の色男であったなら、と。
そんなだから、長谷雄の口は愚痴を話すときのように、すらすらと動き始めていた。それは、もう諦観のような独白であった。
「のう、この前の話なのだがな。あの、雨の降った日のことだ。水姫はここにいたのだろうが、雨粒が随分うるさかったろ」
「聞こえておりました」
「市場で栗を売っていたのだ、うまそうな栗だった。それを買って帰る途中に栗がなくなった、なぜだと思う?」
女は瞼をまばたきさせて、首を傾げたまま「わかりません」と言った。
「水たまりを踏んで、転んだ。拍子にどこかに飛んでいった。そなたが喜ぶやもと浮かれていたのであろう。水姫、この男は、そのような間抜けの甲斐性なしなのだ」
途端に水姫は、嘘のように笑い始めた。
「拾えばよいではないですか」
長谷雄は情けないやら、うれしいやらでどんな顔をすればよいかもわからない。
「大の男が栗を探して濡れて回るなど、できぬだろう」
それからというものだ、長谷雄を評する周りの声が変わり始めたのは。彼はもう羨望などは欲しがらなかったし、その尊大な振る舞いは嘘のようにほどけていったのである。
実るほど頭が下がる稲穂かなと、誰もが彼を指して言った。
毎夜、男は酒も飲まず、静かな足取りで家に帰るのだ。。
長屋からは、男の楽しそうな声と控えめな女の笑い声が聞こえていた。
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