第3話

 からんからんと鈴の音。沸き立つ鬼らは声を上げ、笠置山の鬼は大仰に坊主の如くその手を合わす。


 そうして、えいや、と怒号をあげた。


 次の瞬間、長谷雄の視点はぐるりと回り、夢に襲われたかのような頭痛が襲う。不意に瞼を閉じた時には、たちどころに景色はすっかり様変わりしていた。


 長谷雄が見たのは鬼の楽園。清浄仏土を汚したような、豪華絢爛にして堕落腐敗の都でございます。


 なるほど、これは鬼の妖術か、と長谷雄は少しばかりの武者振るいをして、けれどもまっすぐ鬼を睨んだ。


 鬼は腰に刺したる小刀を、ちらりと覗かせ下卑た笑みを作ってみせた。


「なりふり構わぬ勝負とあらば、鬼はこれが何より得意。されども、それはあまりに無粋。力比べ等は匹夫の業でございます。つまり、我らの勝負といえば、やはりこれしかありますまい」


 長谷雄の前に小鬼の群れが躍り出た。身の丈一尺のその群れが背負っているのは双六盤。眩い限りの黄金で、盤上の駒も瑪瑙や浄瑠璃なんぞをあつらえて、まるで唐の宝のよう。


 それを担いで小鬼ども、えいやえいやと小鬼ども。


 まさしくそれは地獄の有様。


「どうぞ、こちらが我が宝。晴れの勝負とあるならば、相応の礼儀でございます。さぁさぁ、あなたもお座りくださいませ」


 どこか、笠置山の鬼は誇らしげであった。つまりはそれを誇ることこそ、彼の鬼たる所以であるのだ。


 故に、長谷雄は堂々と鬼に向かって胡座をかいた。


「では、負けたものより先行を」


 そう言い、鬼は賽を振る。鬼の初っ端、出目は六。長谷雄は歯軋り乱暴に賽を受け取り、投げて打っても結果は振るわず出目は三。

 

 とはいえ、最初の出目というのは大局を見れば、僅かな誤差と言えるだろう。


 さてと、そうして何度か振って、盤上の駒も幾らか動いた。


 両者の筋を見てとれば、百人に問うても百人が長谷雄が上手と答えるだろう。


 その理由を挙げるとするなら、長谷雄の技術も確かに凄いが、鬼の側こそ下手というもの。


 何故なら鬼は負けてもいいのだ。彼らにとってこんな遊戯は、勝てば楽しい、ただそれだけのもの。


 ものを賭けて負けたとしても、知らぬ存ぜぬ言い逃れ、それでも何か申すのであれば、腕力任せに潰せばいいのだ。


 風雅を気取った笠置山の鬼も、恐らく同じであるのだろうさ。ならば、この場に限って言えば、長谷雄が勝つのも必定といえる。


 けれどもそれは人の理、盤上のみの有利に過ぎない。


 周りの鬼はしきりに長谷雄に野次を送る、これ見よがしに女の頬をべろりと舐める。


 それでも長谷雄は歯を食いしばり、前だけ向いて賽を振るった。


 集中出来ねば、鬼の術中に嵌るというもの。


 だが、長谷雄は盤面の外より掻き乱されて想定外の苦戦を強いられた。


(鬼の打つ手は極めて単純、なのにどうして押し切れないのだ。彼奴等に惑わされてるというのか)


 疑問は長谷雄の頭を濁らせ、徐々に鬼は優勢を進める。長谷雄は段々勢い削がれて、気づけば窮地の崖へ立たされていた。


「これはどうした、紀長谷雄。其方の腕に見る影も無し」


 煽る鬼めは大層楽しげ、何より鬼の好物たるは人の不安や暗い感情であるからだ。それを肴に酒を一献、あおって臭い息を吐き出す。


 鬼の息は空へと昇っていって、黒い雲へと変わって膨らむ。雲はいつしか空を覆って、元より暗い鬼の異界を一層暗くしていった。


 長谷雄の頬に雨粒が垂れる、とうとう雨が降り出したのだ。それは現世の雨粒よりもずっと冷たく長谷雄を濡らした。


 なるほど、これも鬼の策。なりふり構わずと言ったところか。長谷雄の体はがたがた震えて、賽を持つ手も覚束なくなる。


「おやおや震えておりますようで、傘でも用意しておくべき所を、この場の全員粗忽者故、そこまで気がまわらず次第。けれども、空の模様はわからぬものだ。雨の寒さは勝負とは別、まさか卑怯などとは言いますまいな」


 白々しくも、嘯く鬼は震えの一つも起こしていない。伝え聞く話によると鬼の血は燃える水とも例えられるそう、寒さに震える人とは違う理外の化け物であるというのだ。


 鬼の妖術は長谷雄へ効いた。意志薄弱を誘う盤外戦術、それこそ鬼の本領であったのだから。


 そうして、薄れる意識の中で下手を打つのは当然のこと。


 長谷雄の負けは見えつつあった。


 元を辿れば、この差は当然。失うものなき鬼とは違い長谷雄は全てを賭けての博打であるから、長谷雄はもっと気張るべきなのだ。


 確かに鬼の振る舞いは卑怯であるし、異界の雨は寒かろうが、どちらも芯をどっしり据えて相対すれば耐えられるもの。


 つまり、その差の所以は威勢の差とでも言うべきか。確かに長谷雄の心には、密かに大きな畏れがあって、焦りが彼の腕を曇らせていたのだ。


 それは醜い鬼どもへの恐怖だろうか、自らの実力に対する疑いだろうか。もちろんそれもあるのだろうが、理由は他に存在している。


 つまりは負けられないという緊迫こそが彼の恐怖そのものだった。


 何せ双六なんぞというものは所詮、博打か子供の遊び。多少の技はあるとは言えど、つまりはその場限りの運否天賦に他ならない。

 

 時運というのは、偏りがある。縋る時ほど離れていくのは嫁と運とはよく言ったもの。


(負ければ、全てを失うのか)


 気づけば勝負は中盤だ。

 

 追い縋ってはいるものの、鬼も今度は油断をしない。打つ手はすでに出し尽くされた。


 長谷雄はぼんやり、肩を下ろして、盤上の駒を見下ろした。


 戦術、小手先擦り減らし、考えることすら無益に思えて、彼は力なく賽を放る。


 出目は四。


(ああ、これでは勝てぬ)


 走馬灯とでも言うのだろう、ここに至って彼の頭にはつまらぬことばかりが過ぎって消える。


 かかぁの飯ももう食えぬ、詩文ももはや辞世の句を残すばかり。やっておくべきことは山ほどあったはずなのだけれども、長谷雄は瞳の裏のを見て後悔だけを吐き尽くすだけ。


(なんの名誉も得ず終わる、そんな人生であったのだ)


 諦め半分、横を向くと魑魅魍魎に囲まれて女が一人佇んでいた。


 女の顔は、悲しそうな顔。かたかた震えるその肩と唇だけが少し動いて、長谷雄に向かって静かに泣いた。


「天神様にお祈りください。ここは鬼の異界言えど、それこそ神は見逃さぬもの。あなただけはその威光をもって、逃がしてくれるやもしれません。私は元より死肉の継ぎ接ぎ、どうしてそれ以上を望みましょうか」


(そうか、想ってくれる女がいたのだな)


 そう思った瞬間に、長谷雄の腹はとうとう座った。


 震えは止まり、恐れもすっかり消え失せて、気づけば鬼にこう問うていた。


「鬼よ、もしも貴様が勝ったなら、私はどうなる」


 呟く長谷雄を見て、大鬼の群れはかつてないほど歓喜した。命を惜しんだと捉えたからだ。


「敗者の末路は今宵の晩餐。けれども生では人は酸っぱい。軽く炙って味噌を少々、頭の先より丸齧りこそ乙というものでございます」


「ならば、女はその後どうなる」


 俯く長谷雄を嘲笑い、子鬼の群れは音を出して涎を啜った。肉の味は痛ぶるほどに増すことを知るからだ。


「死肉は蠅がたかるもの、腐って土に帰るでしょう」


「ならば、貴様が負けたのならば、首を差し出す気もあるだろうな」


 鬼にとっては想定外の問いであったのだろう。小鬼どもからざわめいて、大鬼達も眉間を寄せた。


 笠置山の鬼ですらも酒を持つ手を一度震わせ、その表情は滑稽そのもの。


 殺す気こそが活路を開く、それは戦の常と申します。また、窮鼠猫を噛むなどというのは民草にすらよく知れた話。


 長谷雄の心は左義長のよう、左義長ってのはお焚き上げの祭りのことで南方なんかじゃ鬼火焚きというのだそうな。鬼を追うなら火が一番で、要はめらめら燃え盛るのでございます。

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