― 神殺しの獣 ―
「はぁ、はぁ、はぁ。」
ただ、前へ。ひたすら前へ。
それ以外のことは何も考えない。
後ろなんて振り返らない。
振り返ってしまえば、そこには死が待っているかもしれないから。
もがくように、逃れるように。
ただひたすら、ミレイは走った。
「あっ。」
木の根っこにつまずいて。
ミレイは転倒してしまう。
元々、それほど速く走っていたわけではないため、転ぶ勢いは控えめであり。
それほどの痛みはない。
それでもミレイは、起き上がれない。
未だ激しい自分の呼吸音。
聞こえるのは、それだけだった。
他には何も聞こえない。
恐ろしい魔獣の唸り声も。
ずっと一緒だった、あの少女の声も聞こえない。
「うっ、……くっ。」
涙が、止まらない。
拭っても拭っても。
前を向かなきゃいけないのに。
震える身体が動かない。
(逃げちゃった。)
怖かった。
ただひたすらに、恐怖しかなかった。
ゲームとは、何もかも違う。
それが現実に生じた時の恐怖は、まるで桁違いだった。
(なんで、わたし。)
キララ1人を置き去りにして、逃げてしまったのか。
怖くて、怖くて。
でも、それ以上に悔しくて。
何も出来ず。
ただ逃げるという選択すら、キララに発破をかけられるまで選べなかった。
キララの声にすら怯えてしまって。
(……なにが、冒険者だ。)
”なんと無謀で、愚かな選択なのか”。
あの受付嬢の言っていた言葉が、ミレイの中でこだまする。
(わたしの、覚悟なんて。)
美しく、そして残酷な異世界に。
彼女の、心は――
◇
頬に垂れた、血の涙を拭い去って。
決死の覚悟を宿したキララは、未知なる魔獣たちに立ち向かう。
キララが放り投げた球体は、彼女の手製の爆弾であり。それによって生じた紫色の煙は、”死に至る”ほどの猛毒であった。
現に、その効力は明らかであり。毒を直に浴びた魔獣たちは、痙攣してまともに動くことすら出来ていない。
しかし、この毒は矢尻に塗られたものではなく、空間そのものにばら撒かれたものであり。
放った”本人”の身体すらも蝕んでいた。
(わたしの生み出した、最高純度の猛毒。……流石にこれは、結構”効く”なぁ。)
血涙を流し、肉体は明確な拒絶反応を示しているものの。
しかし、キララの身体には震え一つなく。
むしろ、本来の調子を取り戻しているかのようだった。
キララの口元は、その”快感”に歪む。
(思ったよりも調子が良い。これなら、もしかしたら勝てるかも。)
精神的に調子の上がるキララと違い。
魔獣にとっては、この猛毒は致命的である。
そこに勝ち筋を見るキララであったが。
大型の、おそらくはリーダー格であろう魔獣が指を振るうと。
そこに淡い粒子の輝きが生じ。
”魔法”が、発動。
強烈な風が巻き起こり、毒の煙をいともたやすく吹き飛ばしてしまう。
「……えっ。」
魔獣が、魔法を使った。
その目の前の事実に、キララは言葉を失う。
確かに知能の高い魔獣だとは思っていた。
透明化して待ち伏せする、驚異的な魔獣だと。
だが、魔法の行使はその比ではない。
それはもはや、”人間”の所業である。
果たして、目の前にいるこの生き物は。
本当に、”魔獣”なのだろうか。
敵の不気味さ。そして底知れなさに、キララは恐怖する。
だが、それでも。
キララは拳を握り締め、自らの手のひらに爪を立てる。
相手が何者であろうと、やることは変わらない。
ミレイが、確実に街まで逃げられるように。命を賭して、敵を足止めする。
(ミレイちゃん、”ちっちゃい”からなぁ。転んでないと良いけど。)
自分のほうが、”年上”なのだから。
ミレイの年齢を、見た目で判断しているがゆえに。キララはその勘違いに気づかない。
だが、たとえ自分のほうが、ミレイよりも年下だと知っていても。この選択に、変わりは無いのだが。
魔獣たちが、キララを目掛けて襲いかかってくる。
だが、その場の俊敏性においてはキララのほうが勝っており。
魔獣の攻撃を難なくかわすと、そのままの勢いで木を駆け上る。
こなれた様子で木を登り。
軽々とした足取りで、木と木の間を飛び回る。
幼い頃から森で狩りを行っていたキララにとって、この戦場は限りなく好環境であった。
木々の間を駆け回りながら。下にいる魔獣たちに矢を放つ。
純粋な脚力は未知数だが。少なくとも魔獣たちに、木の上を飛び回るような俊敏さは無い。
ただひたすら、キララの放つ矢に耐えるだけ。
(……頭を防御してる。やっぱり、一筋縄じゃいかないか。)
キララの放つ矢の精度は高く、相手が静止していればほぼ必中と言えるだろう。
だがしかし、魔獣たちは明確に急所を守り、絶命に抗っている。
キララの矢筒にも、無限に矢が詰まっているわけではない。
(なんとかして、大きい奴だけでも倒さないと。)
敵のリーダー格に視線を送るキララであったが。
その個体は、キララに向かって指を向け。
なおかつ、指先には魔力が込められていた。
「くっ。」
警戒をしたところで、その”力”には抗えず。
直線的に放たれた風の魔法に、キララの身体は軽々と吹き飛ばされる。
そのまま地面に落下し。
キララは痛みに表情を歪ませた。
「……痛い。」
魔法の威力か、それとも木の枝で引っ掻いたのか。
キララの腕や足には裂傷が刻まれており、真っ赤な血が流れ出る。
その程度で、心が折れるキララではなかったが。
魔法の衝撃で、矢筒の中身が散乱してしまったために。抵抗する手段を失ってしまう。
なんとか、立ち上がろうとするキララのもとに。
魔獣たちが近づいてくる。
きっと彼らも分かっているのであろう。目の前の少女に、抵抗する力が残っていないことを。
ゆっくりと、じわじわと。
追い詰めるように、魔獣が近づいてくる。
「ここまで、かぁ。」
死を直視し。
キララは微笑を浮かべる。
だがしかし。
「――おーい!!」
その、聞き覚えのある声に。キララは振り向く。
するとそこには。
逃げたはずの、”小さな少女”が立っていた。
「……ミレイ、ちゃん?」
何故、そこにいるのか。
そう疑問に思うキララであったが。
ミレイの視線は彼女ではなく、魔獣たちに対して向けられており。
ミレイはこちらへ向かって走り出すと、手持ちの袋に手を突っ込んで。
掴んだ人面栗を、魔獣に向かってぶん投げた。
袋に入った人面栗を全部投げながら。
それによって生じた僅かな隙を利用し、ミレイはキララの元までたどり着く。
手を横に振って。体を張って守るように。
その小さな後ろ姿を、キララは見つめる。
「なんで?」
問わずには、いられない。
「どうして、戻って来ちゃったの?」
湧き上がる様々な感情に、声が震えてしまう。
そんな悲痛な声に、ミレイは振り返り。
ただ優しく、微笑んだ。
「仲間が、ううん。――”友達”が、一番大切だから。」
その言葉が、ミレイの全てであった。
一人ぼっちは寂しいから。
何よりも悲しいから。
これから先の人生を。”キララ”を失ったまま生きるだなんて、耐えられるはずがない。
それなら、ここで一緒に死んだほうが、何億倍もマシである。
(もう、絶望したくない。何も、失いたくない。)
手をかざし、”黒のカード”を出現させる。
ただ、”無意味のまま”には終わりたくないから。
「――少しは役に立てよ、アビリティカード!!」
自分はどうなっても良い。
何も得られなくても良いから。
せめて、友達の1人くらいは、守ってみせて。
その、純粋なまでの”願い”を込められて。
まるで、世界そのものを引っ掻くような。
不気味な”異音”が鳴り響く。
たった1枚のカードが、これほどの音を発するものなのか。
何かを、拒絶するように。
世界が、変わるように。
『想定外の信号を検知。許容領域を超過しました。』
それは、世界の声か。
それとも、カードの発する声なのか。
『存在意義を更新。新たなる管理者のために、システムを再構築します。』
不快な音が、鳴り止むと。
ミレイの手には、何も変わらない黒のカードが握られており。
その頭上を囲むような形で、光り輝く輪っかが発生する。
「いったい、なにが。」
見たことの無い神秘的な光に。ミレイの瞳は奪われる。
すると、光の輪っかから”1枚のカード”が出現する。
確かな輝きを放つ、”黄金”のカードが。
そのカードに、触れようとして。
光が弾けると。
黄金のカードだけではなく、銀や銅など。他の色のカードが、何枚も出現する。
これがどういった現象なのか。
ミレイには分からない。
だが、それでも。
今を打開する手段があるのなら。
黄金のカードを掴み取り。
「――動けぇ!!」
カードを掲げると、それは輝ける粒子へと姿を変え。
”大いなるモノ”へと変貌する。
その肉体は力強く。
毛皮に包まれた足で、大地を重く踏みしめる。
尾がなびけば、風が大気を揺らし。
その大きな顎からは、地獄からの叫びが聞こえるような。
爪は鋭く、あらゆる存在を殺し尽くす。
巨大なる”狼の王”。
”神殺し”の降臨である。
◆
どこからか、音が聞こえる。
聞いたことのない音。
まだ知らない恐怖。
それが、たった一匹の獣の”遠吠え”であろうとは。
ジータンの街に暮らす人々には、知りようのないことだった。
天へと向かって。
猛々しく、高らかに。
偉大なる狼王は雄叫びを上げる。
その存在を、世界に知らしめるかのように。
風でも、音でもない。
表現しようのない衝撃が、周囲の存在を圧倒する。
突如として出現した、その”超常生物”に。
あれほど優勢であった魔獣たちは、一歩たりとも動けなくなっていた。
「これが、アビリティカードの力?」
その場所では、獣の召喚者である彼女だけが、自由に発言する権利を持っていた。
それ故に、彼女の問いに答えるものは居らず。
巨大なる狼王が、ミレイへと視線を送るのみ。
「指示を出せ、ってこと?」
その問いに、狼王は頷き返す。
(……あぁ、そっか。)
ようやくミレイは、状況を完全に理解する。
今の全てを左右するのは、自分の一声であると。
「――お願い、キララを守って。」
そう、願う。
それだけは、絶対に譲れないから。
「――そして、あの魔獣たちを倒して!!」
主の命令を受け。
再び狼王は、他を圧倒するかのように雄叫びを上げる。
ミレイにとっては、その声がなによりも頼もしく感じられて。
あまりにも一方的な、”蹂躙”が始まった。
大地を踏みしめて、狼王が駆ける。
我に返った魔獣たちが反応するも、それは無意味であり。
猛進する巨体に、為す術なく吹き飛ばされる。
狼王が狙うのは、魔獣のリーダー格の首一つ。
魔獣も、正面から迎え撃とうと構える。
身体の大きさでは、魔獣も負けてはいない。
だがしかし。
双方の間には、絶望的なまでの”格の違い”があった。
他の魔獣たちを跳ね飛ばしながら。
狼王は、リーダー格の喉元へと喰らいつき。
いともたやすく、喰いちぎる。
ボトリ、と。魔獣の首が地面に落ち。
その光景に、残りの魔獣たちは恐れ慄いた。
だが、狼王の足は止まらない。
その場にある、全ての恐怖を飲み込むために。
噛み潰し。
薙ぎ払い。
引き裂き。
その巨大な顎は処刑台のように。
爪はあたかもギロチンのように。
すべての命を圧倒して。
周囲一帯を、血の海へと変えた。
そうして。
役割を終えた狼王が、ミレイの元へと戻ってくる。
忠実なるしもべ、忠犬のように。
その存在感に、若干の恐怖すら覚えるミレイであったが。
後ろにいる少女のためにと、気丈な姿勢を崩さない。
「……えっと、ありがとう?」
ミレイの言葉に。狼王は当然とばかりに、静かにうなずくだけ。
思ったよりも聞き分けの良さそうな様子に、ミレイは内心ホッとする。
「ねぇ、君。カードに戻れる?」
そう問いかけると。
狼王は黙ったまま、光の粒子へと姿を変え。
ミレイの手のひらの上に、黄金のカードとして形を成す。
手に持ったカードを、ミレイは見つめる。
黄金の色をしたカード。描かれている星の数は”4つ”。
『魔獣フェンリル』という名が、確かに記されていた。
「4つ星カード。フェンリル?」
その名を呼ぶ。黄金のカードは僅かに光り、どこか嬉しそうにも見えた。
(……凄い、力だった。)
ミレイは、目の前の光景をまじまじと見つめる。
すでに太陽が隠れているから良いものの。もしも真っ昼間だったら、とても目を開けていられる状況ではなかっただろう。
それほどまでに、周囲は死臭に満たされており。
アビリティカードという存在が、どれほどの威力を持つのかを物語っていた。
「……ミレイちゃん。」
そう呼ばれ、振り返ると。
未だに地面に座り込んだままのキララが、震える瞳でミレイを見つめていた。
「助けて、くれたの?」
複雑な感情のせいで。上手く言葉が言えない。
「逃げてって、言ったのに。」
悲しいような。よくわからないような。
そんなキララの言葉に。
ミレイは、たまらず。
――ギュッと、抱きしめた。
受け止めるように。包み込むように。
力の限りに、キララの体を抱きしめる。
「ごめん。ごめんね。」
「ミレイちゃん?」
キララは戸惑い。
「逃げちゃって、ごめんね。」
ミレイは大粒の涙を流していた。
どっちが、抱き締めているのか。
どっちが、温もりに包まれているのか。
それはもう、お互いにも分からない。
震える声につられて。
キララも同様に、涙を流してしまう。
だがそれは、決して悲しみの涙ではない。
「良いんだよ、ミレイちゃん。わたしがそう望んだんだから。」
今は、ただ。
「助けてくれて、ありがとう。」
再び触れ合えることが、なによりも愛おしいのだから。
◆◇
「……キララ、血が出てる。」
「あぁ。そう言えば、そうだったね。」
真っ白で、美しいキララの肌であったが。
魔獣との戦闘によって、そこには深い裂傷が刻まれていた。
「あっ、そうだ。」
ミレイが両手を出すと。
わずかに光が生じ、無数のアビリティカードが出現する。
始まりである、黒のカードも一緒に。
「……凄い。これ全部、アビリティカードなの?」
「うん。多分、そうだと思う。」
その手にあるカードは、全部で”11枚”。
黄金、星4つのカード。
魔獣フェンリルが1枚。
銀色、星3つのカードが3枚。
銅色、星2つのカードが2枚と。
同じく銅色、星1つのカードが4枚。
そして、黒のカードが1枚。
それが、ミレイの持つアビリティカードであった。
ミレイは、全てのカードの名前を見ていき。
「あっ、これなら。」
選んだのは、2つ星のカード。
その名も、『即効性キズ薬』
ミレイがカードをかざすと。淡い光の粒子へと変化し。
その手には、片手サイズの小さなスプレー容器が握られていた。
見た目的には、香水のようにも見える。
ミレイは手に持ったキズ薬を、キララの傷へと向け。中身を噴射する。
すると、液体状の薬が患部に浸透していき。
みるみるうちに、裂傷が癒えていく。
「……あぁ、気持ち良い。」
和らいでいくキララの表情を見て。
思わずミレイも、頬を綻ばせる。
手に持ったキズ薬を、消滅させる。
必要とあらば、またいつでも実体化させられるだろう。
たとえ2つ星でも、まるで魔法のような効力を発揮する。
ミレイは改めて、アビリティカードの凄さを実感した。
その手に実体化させるのは、始まりである黒のカード。
(やれば出来るじゃん。)
最初に出したときから何も変わらず。
ただ黒いだけで、何も描かれてはいない。
その効力も、名前すらも定かではない。
それでも、確かに”奇跡”は宿っている。
(……なんか、ソシャゲの”ガチャ”みたいだけど。)
それが、”君”に与えられたアビリティ。
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