5話目


 古来より月のある夜は、強い魔力が宿るのだ。

 大掛かりな儀式や、魔術や呪術、悪魔や魔物との契約や召喚をする際は月のある夜を選び、月の影響を受けた化け物達は普段以上の力を発揮してしまうのだ。


 今日は9月21日、中秋の名月。

 俗にお月見と呼ばれるこの日は、8年ぶりとも言われる満月の日でもあり、化け物達の力を漲らせる不吉な日でもあった。

 

 蓉子と晴流弥は、なるべく気配を消し細心の注意をしながら晴流弥が数分前に出て来た勝手口へと目指したが、全ては無意味だった。

 勝手口のドアを開けた瞬間、視界には井戸の底のような暗闇が浮かび2人の行手を阻まれた。

 

「あー、やっぱり気付かれてたか」

「うぇ?何これ!!めっちゃ黒い!俺が出て行く時はこんなふうじゃ無かったのに!」


 忌々しげに舌打ちを鳴らす蓉子の隣では、つい数分前まで何事もなかった自分の家の異常な光景に晴流弥は大いに慌てていた。


「人を内に入れないように結界が張られてる。めんどくせぇ」

「結界…これが…」

「こらこらエクスタシー感じない」


 どうやら向こうは、蓉子が勝手口から侵入することを初めから想定していたらしい。

 結界事態は簡素なもので簡単に内に入れる代物である。

 しかし、この結界の意味するところは別にある。「それ以上、邪魔をすると内の人間が大変なことになるぞ」という蓉子対する警告だ。


「どうすっかなぁ。結界の内じゃあアドバンテージあるの向こうだし、抑えられるか?月の魔力を補助として使ってるだろうし…とにかく多少強引でも内に入らねぇと」

「おぉ、月の魔力…」

「君が楽しそうで何よりだよ」

「えっ、あ!す、すみません!」


 蓉子の声で妄想の世界から現実世界に戻ってきた晴流弥だが、完全とは行かず期待と興奮が伺える。

 自分の家がヤバいってのに緊張感がないなぁと半ば呆れるが、パニックになって無闇に怖がられるよりもずっといいと前向きに捉え、バッグの中から携帯用のファブリーズを自分と晴流弥に吹きかけた。  


「うわっ!なんですかいきなり!」

「こらっ、動くなって、この中に入れるようにしてやってんだから」

「…え?でも、これファブリーズですよ?いや、もしかして何か特別な」

「いや、薬局で買った普通のファブリーズ」

「あ、そうですか」


 理屈は知らないが、ファブリーズには一時的に魔力的な効力を弱める力があり、この程度の結界なら余裕で破れる効力がある。本当に何故だろう。


(息子の件で相談しに来たっていうのは嘘だろうな)


 あくまで推察だが、依頼の清水香澄は以前よりリリィを人間ではないと気づいていたのだろう。

 しかし、それに気づいた頃には時遅く、リリィは清水家の大部分を浸食していたのだろう。

 家族を人質に取られている以上、下手に警察に口外するのは危険だと感じた筈だ。


 依頼の日を今日に希望したのは、化け物と月との関係を知ったからなのか。それとも偶然だったのか?

 とにかく、リリィに気付かれないように事実を隠した結果、厨二の息子を理由にしたのだろう。


「あの…俺も入らないとダメですか?」

「なんだよ。まさか臆病風でも吹いたか?情けないなぁ、君のお母さんはリスク背負って私のところに相談しに来たのにその息子がこれじゃあ…」

「べっ、べつにそんなことないです!」

「ハハッ、その粋だ」


 晴流弥は蓉子が軽く煽れば煽るほどムキになって乗ってくれるので、大変に扱いやすい。

 自分にもそんな時期があったと、思わず昔の事を懐かしみそうになったが、目の前で怪奇現象が起こっている現在。その時間すら惜しい。


「じゃあ、入る前に先に3点ほどを言っておきたいことがあるから良く聞くように、まずは1点目」


 蓉子は人差し指を一本だけ立てた。


「君自身も気づいていると思うけど、君が連れて来たリリィちゃんって女の子は人間じゃない」

「それは、はい」


 薄々とわかっていた事なので晴流弥は蓉子の言葉に同意した。


「次に、この中に入ったら絶対に私から離れないこと」


 初めから蓉子から離れるつもりはなかったのだろう。2本目の指を上に立てるよりも前に晴流弥は大きく頷いた。

 ここまでで、大切な2点を確認した蓉子は、立てていた指を下に降ろした。最後の1点だけを敢えて強調させる為に少しだけ言葉の間に空間を開けた。

 

「最後に───本来ならば専門家である私が1人で行くべきだろう。けれど君にはこの件に関して一切の責任がある。人かもわからないモノを誰にも相談することなく自分の家に招き入れた。その身勝手な行動の結果、自分のご両親がどうなってしまったのか。自分の目でしっかりと見るべきだ。警察が嫌いとか言っている場合じゃないことをね」

「……」


 次に蓉子から出てきた口調は非常に厳しく重々しいものだった。

 その指摘に晴流弥の浮かれた表情が強張り、血の気の引いたように顔色が悪くなる。

 漸く、事の重大さを受け取ってくれようだった。


「よし、始めようか。っと、その前に家の中にお母さんっているよね?」

「はい、いました」

「ん、上出来」


 十分な反省の色が見えるので、そろそろ仕事に取り掛かる。

 先程、喫茶店で清水香澄と交わした契約書をビリビリに破きながら一言二言囁くと破いた紙を結界の内へと吹き飛ばした。

 

「何をしたんですか?」

「失せものの術って言ってな。探しているものを見つける術だよ。中がどうなっているのかわからないから、この中にいるお母さんを目印に進もう」


 自然な流れで隣にいる晴流弥の手を握るとビクッと震えるのが伝わり、晴流弥の顔を覗き込むと頬がほのかに赤くなっているのが見て取れた。


「フハッ、手を繋いだくらいでそんなに恥ずかしがるなよ」

「べっ、別に恥ずかしくないですよ!こ、これはその緊張で!」

「わかった。わかった。そういう事にしといてやるよ」


 晴流弥の反応に思わず吹き出してしまったが、これ以上揶揄うと幼気な少年のプライドを傷つけてしまう可能性があるので控えた。  

 晴流弥の抗議をアッサリと流し、早々と結界の中へと足を踏み入れた。

 蓉子の後ろに引っ張られるように結界の中へ入る晴流弥の喉元が僅かに上下した。

 この先には自分を害する恐ろし物が待ち構えているとでも思っているのだろう。

 黒く覆われた幕はアッサリと蓉子達を迎え入れた。先にあるのは年季の入った台所と家族全員で食事をするための置かれたテーブルだ。


「あ、あれ?」

「ほら、ボサッとしてないでさっさと行くよ」


 所詮は蓉子の侵入を防ぐ為に側だけを張った結界。やや薄暗く足元が見え難いが、それ以外は蓉子の想定内だ。一方の晴流弥は緊張していた分だけ拍子抜けしたのだろう。隣で息を吐き出す声が聞こえた。

 蓉子は目の前で生き物ように飛んでいる元契約書から視線を逸らす事は無かった。


(土足で失礼)


 内心で無礼を謝罪しつつ、靴を脱ごうとする晴流弥の手を強引に引っ張る。

 2人はそのまま台所を通り抜け、短い廊下を抜けて居間の扉を締めらていたドアをゆっくりと開いた。

 慎重に開いたドアの先には蓉子が破いた紙は全て下の方へと降下した。ゆっくりと視線を下に向けると目的地として定めていたら清水香澄が、足をこちらに向けてぐったりと倒れている。蓉子は床に膝をつき香澄の脈が正常に動いているのを確認する。


「母さん!」

「大丈夫、気を失ってるだけだ。あと、この甘い匂いはなるべく吸わないで」

 

 踏み込んだ部屋の中に充満する飴玉をドロドロに溶かしたような甘ったるい匂いに自然と顔を顰める。

 長時間嗅ぎ続けていると、快楽中枢を強く刺激して理性を狂わしトリップさせる代物だ。

 養育的に大変よろしくないので出来る事ならば窓を開けて換気をしたいと正面の大きな窓ガラスに目を向けたが、行動に移さなかった。

 カチカチと鳴っている無機質な機械音と不自然なブルーライトの光に釣られるようにゆっくりと視線をそっちに向けた。 


 すげぇドエロい女だった。

 可愛いクリクリとした大きな目が特徴的で、光の加減一つで愛嬌と妖艶さを兼ねそろえている。

 ゆるく艶やかな長い髪が凹凸にくびれた腰と胸にいやらしく絡まり、男の性欲を刺激する為にあるようなスパイシーな美体が弾けている。

 きっと男と名がつく生き物ならば、誰もが彼女の前で鼻の下を軽く3メートルは伸ばすだろう。

 しかし、専門家である蓉子はそのエロい女が、サキュバスだという事を1発で見抜いた。さらに言えば、つい数時間前にエドワードから告知された行方不明のサキュバスの特徴にそっくりではないか!


「ワハハハハっ!マジかよ!おまえっこんなところにいたのかよ!そりゃあ見つからないわ!!」

「え、その…え、知り合い?」

「げっ、本当に専門家来ちゃったよ。マジでツイてないわ〜」


 居間にいる者達の反応は三者三様だった。

 豪快に笑う蓉子。状況を把握しきれていない晴流弥。専門家であろう蓉子を見て嫌そうな表情を浮かべるサキュバス。


「でだ、ハレ…ハイド君。あの子のゲーム機を持ってるのが君が言うリリィちゃん?」

「…はい、そうです」

「覚えておけよ。あれは人間じゃなくて悪魔だ」

「え…悪魔?」


 晴流弥は恐怖で後ろへ下がると蓉子は晴流弥を庇うように前へと一歩、出た。


「あのさぁ、ちょっとうるさいんだけど〜今狩りしてるから騒がれると迷惑なんだけど」

「ヒィっ」

「忙しいところ邪魔して悪いね。まさか、こんなところに探しているサキュバスがいるとは思わなかったんだ」

「なに、あんた…もしかしてアイツの手先」

「手先じゃない。依頼主だよ」  


 反論されたのが不満だったのか、リリィはギロっと蓉子を睨みつけたが怖がる事はなかった。


「いやぁ、実はずっと気になってたんだよ。どうして晴流弥君に危害を加えなかったのかなって、彼が外に出なければ私が入ってくる事もなかっただろうに」

「例え悪魔だからって未成年相手に暴力振るったり手を出すのはダメでしょう。だから放置してた」

「なるほど、確かにこの世の中には変態が多い。それでも節度やモラルは絶対に守らないとね」


 サキュバスの返答は蓉子にとって予想外のものだった。

 蓉子ははじめ、清水家に潜んでいるサキュバスに対して、なんと慎重な悪魔なのだと思った。

 現在、エドワードが繁華街を中心にリリィの行方を追っているのは、サキュバスが男の精力を喰らう行為は食事することと同じ意味だからだ。しかし、人間であれ化け物であれ精力というのは限られている。

 だからこそ、より沢山の食事にありつける場所へサキュバス集まるのだ。

 加えて特に悪魔は欲に忠実な生き物だ。それが故に自身の欲を抑え、どこかの限られた精力を喰らいなが飢えを凌ぐというのは悟りを開くために修行するのとなんら変わらない。

 そこには絶対に魔界に帰らないという強い意志を感じる。

 (なのに、だ)

 

「ちなみに私の依頼人である清水香澄さんが私の事務所へ行った事を知ったのはいつ?それとも見逃していたのかな?」

「ついさっき知った。陽がある時はダルくてずっと寝てた」

「…サキュバスの活動時間は基本的に夜だから無理もないね」


 まったくわからん!蓉子は嘆いた。

 慎重だと思っていた矢先に香澄を蓉子の事務所へ行かせる隙があったり、未成年には手を出さないと言ったり、専門家が玄関の前にいるというのに外出をする晴流弥を見逃したり、明らかにリスクを自ら背負いに行っている!

 人よりも悪魔の方が優っているからという自負から来る余裕の現れなのだろうか?

 それとも何かの罠なのか?


(考えるにしても時間はあまりない)

 蓉子はゆっくりとリリィの足元で倒れている男に視線を向ける。数分前に自分のことをアバズレ呼ばわりしたのもこの男に違いない。だいぶ精力を吸われたらしい。頬は痩せこけ目が窪んでいる。このまま放置していれば命に関わるだろう。

 そう判断した蓉子はリリィに向かってゆっくり両手を上げて降参のポーズをとる。


「なに、なんのマネ?」


 リリィの動きが一瞬だけ止まった。


「なにって、降参と懇願のポーズだよ。君の足元で横たわっている彼を出来たら解放して欲しくてね」

「いやぁよ。未成年には手を出さないけどこの男はウチの食料なんだから」


 蓉子の命乞いにハッと馬鹿にしたような音が聞こえた。誰が発したのはいうまでもない。


「しかし、弱り切った男1人いたところで君の飢えは抑えられないだろう?他に食料のアテがあるのかい?それとも食事よりも上司に見つかる方が怖い?」

「こっ…ここっ、怖くないわよ!あんな堅物石頭なんて!ウチは他の奴らよりも小食なの!」


(あー、今のでわかったかも)

 アスモデウスの名前を出しただけで異常なほど狼狽えているリリィ姿を見ながら蓉子は可哀想に思った。

 サキュバス達の上司であるアスモデウスは7つの大罪の色欲を司る悪魔でもあるのと同時に礼節を深く重んじている悪魔だ。

 それが故に自分の部下達にも育成カリキュラムとして礼節を厳しく教え込んでいるのだが、自由奔放主義のサキュバス達と大変に折り合いが悪く何度も諍いを起こし、アスモデウスが嫌すぎて魔界を飛び出すサキュバスがいる程だ。

 というか、今回の違法召喚に応じたサキュバス達の大半の理由がそれだし、リリィも例外では無いだろう。

 つまり、魔界に帰りたくないんじゃなくてアスモデウスの元に戻るが嫌すぎて、そこにばかり全振りしている為にそれ以外に関心が無かったのだ。


「…ねぇ、君たちの上司ってそんなになるほど厳しいの?話によると君のこと心配してるみたいだよ」


 サキュバスはどちらかといえば欲に忠実な下級悪魔の部類であり、あまり狡賢くも我慢強くもない悪魔だ。

 同じ色欲を司る悪魔であっても元智天使であったアスモデウスならば話は別だが、サキュバスの多くは冷静に物事を考え感情や理性をコントロールするのが下手なのにも関わらず、1ヶ月も己を律しているのだ。


「うっるさいな!あんたはアイツにキレられた事ないからそんなふうに言えるのよ!」

「まぁ、そうだけど、そんなカッカしないで話し合おう」


 出来るだけ優しく宥めてみたが逆効果だったようで、リリィは勢いよくソファから立ち上がりゲーム機を床に叩きつけた。ガンっと重たい音と荒い息が部屋に響く。

 目が血走り真っ赤に染まる。キャミソールの紐が肩から落ちているのを直すことなく、目玉をギョロギョロ回転させると蓉子に焦点を合わせた。


(やべぇな。このままだとオーバーヒートするぞ)

 甘い匂いが更に濃くなる。嫌な予感を連想させた。

 悪魔は欲を抑え込みすぎると自身の箍が外れ欲が満たされるまで発狂する生き物なのだ。この場合、サキュバスは色欲を司る悪魔なので、年齢問わずこの辺り一帯の男という性別の全てから精力を吸い尽くすだろう。

 しかし、現在のリリィはアスモデウスに見つかることを非常に恐れている。

 本心ではアスモデウスと繋がっている蓉子から今すぐにでも離れたいと思っているのだろう。


「そうだ…あんた、この男を見逃せって言ったわよね?」


 しかし、逃げるためには目の前の専門家を相手にする必要がある。

 ならば、どうするか?


「じゃあ、あんたが死ぬってのはどう?」

「おいおい、随分と物騒だな」


 悪魔は残酷に笑った。

 そうだ。目の前の専門家が死ねばいい。

 今現在人質を有している自分は有利な立場だし、蓉子を戦闘不能にすれば自分を止められるものはいなくなる。

 リリィが自身の長い舌でペロッと下唇を舐め上げ更なる脅迫を口にしようと開く。


 チャン。チャラチャラチャン……チャン。チャラチャラチャン…チャン。チャラチャラチャン…話の腰を折るような機械音が鳴り響いた。

 その間の抜けた音はその後も鳴り止まることはない。

 一体、どこから?

 この場の空気が疑心暗鬼になり始める頃、蓉子が口を開いた。


「失礼、出ても?」

「ダメに決まってるでしょう。状況わかってる?」

「だよね〜」


 蓉子の要望をリリィが却下すると同時にプツっと着信音は消え失せた。

 そして、もう一度。

 チャン。チャラチャラチャン……チャン。チャラチャラチャン…チャン。チャラチャラチャン…

 何度も、何度も、蓉子が電話に出るまで鳴るのを止めない。

 流石のリリィも不安が募り始める。

 ここまで何度も着信を続けているのに蓉子から一向に連絡が来ないのは、明らかに不自然だと相手側も思う筈だ。

 蓉子の仲間かもしれない。

 それが行く行くアスモデウスが自分を探すための手がかりになるのでは?

 再度、リリィは結界を強めた。

 次のは人だけでなく人外をも入れなくする為の結界だ。

 しかし、着信音は鳴り続ける。 

 我慢の限界だった。


「なんで、鳴り続けるのよ!!」

「結界の強化するだけじゃあ最近の電波は妨害されないよ。時代は日々進歩しているんだから」

「うるさい!なんとかして止めなさいよ!」

「おいおい、私に言っても仕方がないだろう。電話に出ても?」

「ダメ!」

「出た方が早いのに?」

「いいから早く音を消して!」

「わかった。わかった」


 大袈裟にため息を吐き出すと蓉子はゆっくりとパンツスーツのポケットに入っているスマホを取り出し慣れた手つきで鳴り響く音楽を消した。

 深閑とした静けさが部屋の中に包まれると強張っていたリリィの体から一気に力が抜ける呼吸音と外部からの助けを断たれ晴流弥の絶望感した視線が蓉子の背中に突き刺さった。


 蓉子は───スマホを両手で包むように触る───右足を軸に左足を胸まで引き上げる。マントの上にいるピッチャーがバッターを討ち取る為にフォームを構えるように───両手で持っていたスマホ──今は利き手である右手に持っている──胸を大きく開いて───右手を振り回しながらスマホを投げ飛ばした────


 大ぶりに投げたスマホはリリィに当たることなく暴投して後ろの窓ガラスにヒットする。渾身の力を込めたスマホの威力は凄まじく、接触すると同時に凄まじく破壊音と共にバラバラに砕け散りそこに大穴を空けた!


 「よぉしっ!エドワード入って来ぃっ!!」


 爆発音のように、嵐を呼ぶ呪文のように、源平合戦で海の上の扇を射止めた力強い弓のように、外へと向かって大きく伸びるかのように発された。


 そこからは、ただ美しいばかりの光景だった。凡庸な言葉では飾れない、表せない。ただ、“美しい”という言葉以外に相応しい言葉が見つからない。

 ただ1人だけ、その光景に涼しい顔をしていた。


「エドワードはいつもタイミングが良いな。助かるよ」


 派手に暴投した蓉子は笑いながらエドワードに近づくと眩い神秘的な表情が一変、眉に皺を寄せムスッっと不機嫌な表情へと変わる。


「…だから電話に出てくださいってあれほど言ったじゃないですか」

「ハハッ、悪い。またやっちゃったな」


 破れた窓からエドワードが入ると、あっというまにリリィを自身の体で抑え込んだ。蓉子は手際の良さを褒めながら悠々と見ながら近づいた。


「ちょっと!!なんなのよコイツ!はなせっ!はなしなさいよぉ!!!」

「落ち着いて、出来ればご婦人に無体を強いたくありません。どうか、そのまま動かないでください」


 オーバーヒート寸前の悪魔にエドワードの静止が通じるわけがなく、黒い翼を背中から生やし、悪魔本来の真っ赤な目で暴れる。しかし、完全にエドワードがリリィの動きを制圧させている為に全て徒労に終わってしまう。   

 ここに来て、ようやくリリィは状況を把握したらしくエドワードを一目見て、全てを悟ったらしく顔の色が真っ青になる。


「う、嘘でしょう…あんたもしかして吸血鬼…しかもロードクラス」

「え?いいえ、吸血鬼に王はいませんよ。個人行動が好きな種族なので、徒党を組む事が出来ないんです。友達もいません。あ、僕はいますよ。ポチさんといって白くてふわふわの…」

「いや、違う、エドワード。そうじゃなくてな、吸血鬼は長く生きれば生きるほど能力値が格段に高くなるんだよ。だから、他の吸血鬼と分けて“ロード”って名称で区分けしてるんだ」

「…ほぉ?僕は見た目よりもずっとお爺ちゃんだと思われているのですか?」

「あー、間違ってはいないんだけど…なんか違うんだよなぁ。尊敬と畏怖を込めてっていうのか?」

「普通よりも少し長生きしているだけで、そこまで尊敬するに値しますかね?」

「それも違うんだよなぁ…」


 リリィとエドワードの認識に問題があると思った蓉子はわかりやすく説明をしたつもりだったが、やっぱりエドワードは理解出来なかったようで、首傾げて不思議そうにしている。


「僕が実はお爺ちゃんだというのは置いといて、蓉子様」

「あぁ、はいはい。置いとくのな」

「何故、スマホを投げたのですか?」


 蓉子の指示によって数分前からずっと清水家の外で電話を鳴らしながら待機していたエドワードも、まさか家の中からスマホが飛んで来るとは思わなかったらしい。

 ポカーンっと口を開く暇もなく、蓉子の「入れ」の言葉にエドワードは反応して清水家に入室をしたのだ。


「あぁ、あれな。少しでも声の通りを良くしたかっただけ」

「そうでしたか」

「ハハッ、聴き取りやすかっただろう」


 吸血鬼は、家の中に居る者に招かれなければ中には絶対に入れない。

 しかし、招かれればどんな場所であろうと、どんな障害があろうと中へ入ることが出来る。そこに結界が張ってあろうとも絶対だ。


「実は、結界って即席で張るには意外に難しいもんでさ。技術も必要だし種類もたくさんある。外からの侵入を防ぐ結界なのか、内から外に出さない為の結界なのかでやり方も異なる。更に言えば、何を入れないようにするか、何を出られないようにするかで大分違う」

「…えっと、先ほどのサキュバス様の結界は、外からの侵入を防ぐ為の結界で、外から内には何をしても阻まれるが、内からは外には容易に出られる。結界の内で投げたスマホも外に出られるし、声も外に聞こえる」

「その通り」


 模範的なエドワードの回答に蓉子は満足気に頷いた。


「構造は良くわかりましたが、破れた窓ガラスはおそらく弁償ですよ」

「それは…まぁ、仕方ないな」

「吹っ飛んで来たスマホは回収しました。画面は無事です」

「あ、マジで!割れるの覚悟だったからめっちゃ嬉しいんだけど!」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って!ね、ねぇ…まさか、このまま魔界に返すつもり?少しは身の上話くらいは聞いてくれない?…お願い。ウチみないな良識的な悪魔って滅多にいないじゃん。このまま魔界に帰ったら酷い目に合っちゃう…たすけてよぉ」


 先ほどから、気の抜ける会話を続けている蓉子とエドワードに痺れを切らしたのだろう。リリィが命乞いを始めた。


「………」

「…えっと」


 悪魔の命乞いにエドワードは困った表情を浮かべるが、蓉子はシンっと口を閉ざすと静かにバックの中から白いチョークを取り出し、リリィを中心に簡略的に陣を描き始める


「え、ちょっと、マジでやめてったら!」


 魔界転送の陣を蓉子が描いているのを悟ったのだろう。本気で逃げようと暴れ出したが、エドワードに抑えられて身動きが取れない。


「さて、リリィちゃんを魔界に返そうか」

「あの…」

「ち、ちょっと!!最近の現代社会は話し合いが第一じゃないの!暴力や圧力からは悲劇しか生まれないわよ!」

「ごめん、無理。悪魔の話は基本無視が専門家の常識だから、エドワードわかったな」

「…はい」

「何よこの女!人でなし!!」

「その、サキュバス様。お帰りなさいは道中お気をつけて」

「うるっせぇ!あ、すみません…気をつけてます」


(そうだよなぁ…普通の反応はそうなんだよ)

 蓉子の前ではギャーギャーと騒ぎ続けるリリィでも、吸血鬼ロードであるエドワードの前では流石に気を遣っていた。

 吸血鬼というめっちゃくちゃに強い化け物は、確かに個人主義者の集まりで滅多に種族を増やさない。

 それに加えて生きる事がつまらないと感じた瞬間に自殺する生き物だ。

 その中でもロードという称号を持つ本気で強い長命な吸血鬼はエドワードくらいしか蓉子は会った事がない。レアリティは星10の物凄い吸血鬼だ。


(なのに本人的には全く納得しないんだよな)

 蓉子が陣を描き終えるとそこから青白い光が発光する。その光に沿って黒い手がリリィの体だけに巻き付くとそのまま沈めるよにリリィを押し込んで行った。

 魔界へと返される際、リリィは「いやぁ!」っと叫ぶとギリギリまで命乞いをしていたが、蓉子はエドワードの耳を塞ぎ、自分は目を逸らした。

 瞬く間にリリィがこの場から消えると家中に張られた結界も甘い匂いもなくなり、電気をつけていない居間の中は月の光でいっぱいに照らされた。


「…終わったな」

「お疲れ様でした」


 まだまだ事後処理が残っているが、ひと段落は着いたのでホッと肩の力を抜けば、腹が減ったと蓉子の体は貪欲に要求を始める。


「腹も減ったな…」

「今夜の夜食は月見バーガーなのどはいかがですか?」

「お、いいね。コーラも頼むよ」

「わかりました。ですが、その前にもうひと頑張りですね」


 蓉子が追加注文を頼むとエドワードは素直に頷いたが最後に釘も刺した。


「あぁ、早く食いてぇなぁ」

「出来れば朝になる前に終わらせたいですね。命に関わる問題なので」

「明日、曇りだってよ。太陽が出てない分、動ける時間が増えたぞ。良かったな」

「うげぇ」

「うげぇって、警察呼んで、救急車呼んで、その後の処理を含めて私が1人でなんとか出来ると思うか?」

「イケる」

「イケねぇわ」


 果たして、事務所に帰れるのはいつになるのだろう。夜食として提案したエドワード作の月見バーガーを夜食の時間として蓉子は食べられるのだろうか?


「もうひと頑張りだな」

「もうひと頑張りですね」


 自然と苦笑いを浮かべた人間と吸血鬼を上には満月がぽっかり浮かんでいた。


 

 

 

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