第4話
来客を告げるベルが鳴ったのは、その日の三時頃であった。夫からのメールが届いてから一時間しか経っていない。
「はじめまして。佐久間と申します」
玄関先に立っていた二十代半ばくらいの男は、精悍な顔つきにさわやかな笑みを浮かべながら名刺を差し出した。
『 二十一世紀リサーチ
調査員 佐久間 敬一郎 』
と書かれてある名刺と、それを出した男を綾子は見比べて首を捻る。
百八十センチはありそうな長身をビジネススーツで包んだその姿は、どう見ても平凡なサラリーマンだ。探偵に決まったスタイルなどないが、少なくとも綾子の記憶にある探偵のイメージとは、まるっきり合致しない男である。
「あの探偵さん……ですか?」
「そうですが。探偵に見えませんか?」
「い……いえ。夫のメールでは後日いらっしゃるとあったので……」
「ええ。そのはずだったのですが、たまたま私の手が開いたところでして……何か不都合でも?」
「とんでない! 早く来ていただいて助かりましたわ。とにかく玄関では何ですから、上がって下さい」
佐久間は一礼して家に上がった。
……どう見ても探偵というよりセールスマンにしか見えないわ。まあ、確かに、一目で探偵と分かるような人じゃ、尾行もできないでしょうけど。それにしても……
チラッと、応接間に待たせてある佐久間に目を向けた。
……探偵とはいえ、こんないい男を紹介したりして……わたしが浮気しても知らないわよ。あなた……
九州にいる夫に内心舌を出しながら、綾子はお茶を入れる。
湯気を立てるティーカップを、佐久間の前に置き、綾子は一連の出来事を話した。
「なるほど。だいたいの事情は分かりました。それで、もう一度聞きますが、奥さんにはお金を借りた覚えはないのですね?」
「ええ」
綾子はうなずく。
「だとすると、相手が返せと言っているお金とは、個人的な借金とは違うのでないでしょうか?」
「個人的な借金じゃない? だとしたら、いったいなんだと言うのです?」
「例えば、仕事上のトラブル。奥さん。相手は、奥さんを旧姓で呼んでいましたね。結婚前に、何か仕事をしていませんでしたか?」
「保険の外交員をしていましたが……でも、それでトラブルはなかったと思いますわ」
「それは分かりませんよ。奥さんが会社を辞めたのは七年前。その後で、顧客と会社との間にトラブルが起きたかも知れません」
「でも、それなら会社を恨むべきであって……わたしを……」
綾子はふと違和感を覚えた。たが、その違和感が何なのか分からないうちに佐久間が話しを再開した。
「恨むのは、筋違いだと言いたいのでしょう。でも、客はそうは思わないですよ。客にしてみれば目に見えない保険会社よりも、契約を取りにくる、外交員の方に怒りを向けるでしょうね」
「そ……そんな……」
「まあ、それはあくまでも仮定でして、そういう事もありうるという事です。もちろん、奥さんには、何の責任もありません」
「あの……守ってもらえるのでしょうか?」
綾子はすがるような目を向けた。
「もちろん、そのために来たのです。と言っても、僕が四六時中ここにいるわけにはいきませんので、警備会社を手配しておきました。窓の外を見て下さい」
見ると、家の前の道路に、白い乗用車が止まっていた。
「彼らが一日三交代で見張っています」
「え? でも、お高いのでは……」
「奥さん、お金と命とどちらが大切ですか?」
「でも……」
「大丈夫です。旦那様とは話が付いていますから」
「そうですか……」
「それとですね、奥さん。外交員をやっていた時の、顧客データとか持っていませんか?」
「え?」
綾子は戸惑った。
もちろん、顧客データは持っている。しかし、当然それは社外秘であり、会社を辞める際に、全て返さなければならなかったものだ。
持っている事を、迂闊に他人に話せるものではない。
「会社を辞める時に、返しました」
咄嗟に嘘をついた。
いや、実際にはコピーを取った後でオリジナルのデータを返しているのだから、まるっきり嘘ではないが……
「そうですよね。持ってる分けないですね。分かりました。少々、お金が掛かりますが、探してみましょう」
「待って下さい! いくらお金を積んだって、そんなものは、保険会社が閲覧させては……」
「ええ、保険会社が相手じゃそうでしょうね。ですが、会社を辞めた外交員が顧客データのコピーを、名簿屋などに売ったりしているのですよ」
「え!! そうなのですか」
綾子は引きつった笑みを浮かべた。実は綾子もそれをやっていたのだ。
「だから、金さえ出せは、データは探せるのです。もちろんこれは違法ですが」
「あ……そうえば……」綾子は今、思い出したかのように言った。「うちのパソコンのハードディスクに、まだ残っているかもしれませんわ」
かもしれないのではなく、事実残っているのだ。
本当は他人には見せたくなかったのだが、こんなもののために、余計なお金がかかってはたまらないと思ったのである。
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