第5話

 数分後、綾子は顧客データのプリントを持ってきて佐久間に手渡した。


「それでは、この中から怪しい人物を当たってみましょう」


 佐久間は黒い鞄にプリントを入れると帰り支度を始めた。


「もし何か分かりましたら、お電話いたします。奥さんも、何かありましたら、気軽に僕の携帯にお電話下さい」


 佐久間が帰った後、綾子はここ数日感無かった安堵感を覚えた。

 締め付けていたタガが外れた様な気分だ。

 もうこれで大丈夫だ。

 佐久間は信用できそうだし、警備会社が四六時中ガードしてくれている。

 嫌がらせのメールがいくら来たって、直接手が出せないなら、怖い事は……

 不意にさっき感じた違和感が蘇ってきた。


……なんで?……なんで佐久間さんは、わたしが会社を辞めたのが七年前だと知っていたのかしら?……


 綾子には、その事を話した覚えがない。

 しばらく考え込んでいたら、いつの間に来たのか、携帯のディスプレーにメールの着信を知らせるメッセージがあることに気が付いた。


「いくらこんなもの送って来たって無駄よ。もうすぐ、佐久間さんがあんたの正体を暴いてくれるわ」


 携帯に向かって呟きながら綾子はメールを開く。


〈……子供はどうなった?〉


 一瞬にして、綾子は血の気が引いた。

 時計を見ると、息子はもうとっくに小学校から、帰っていなければならない時間である。


……ま……まさか!?


 自分の事ばかり心配していて、子供の事を完全に忘れていた。

 慌てて、小学校に電話をする。

 もうすでに、帰ったという返事が返って来ただけだった。

 続いて、息子の寄りそうな友達の家に電話を掛けまくる。

 どこにもいない。

 子供にもしもの事があったら、夫や姑からからなんと言われるかという不安が綾子の中で大きく膨らんでくる。

 家を飛び出した綾子は、息子が立ち寄りそうな公園や広場を捜し回った。

 ポケットの中で携帯の着メロが鳴りだしたのは、小学校の前まで来た時である。


『もしもし』


 佐久間の声だった。


『奥さんが血相変えて家を飛び出したと、警備の者から報告を受けたのですが、何かあったのですか?』

「子供が……子供が……」

『落ち着いて下さい。お子さんがどうしたのです?』

「子供が、帰ってこないのです」


 しばらくの間、佐久間は無言でいた。


「佐久間さん……」

『失礼。今、警備の方に問い合わせてみました。大丈夫です。お子さんは、家にいます』

「なんですって!! だって……」

『奥さん。あっちこっちに電話を掛ける前に、家の中は捜しましたか?』

「あっ!」


 捜してなかった。メールを見た後、気が動転してしまったのである。

 大急ぎで家に戻ると、息子は自分の部屋でテレビゲームをしているところだった。


 母親が部屋に入ってきたのに気が付いた息子は、キョトンとした目で母を見る。


「ママ。どうしたの?」


 その瞬間、綾子は頭に血が上り、息子をひっぱたいていた。


「ごめんなさい。ごめんなさい」


 なぜ、自分が叩かれるのか分からないまま泣いて謝り続ける息子を、綾子はさらに殴り続ける。


「なんで、帰ってきたなら、ちゃんと『ただいま』って言わないの!! あんたがまだ帰ってないと思って、ママがどれだけ心配したと思っているの」

「ごめんなさい。でも、ちゃんとぼく『ただいま』って言ったよ。ごめんなさい」

「ウソおっしゃい。ママはそんなの聞いてないわよ!」


 実際には、綾子は佐久間との会話に気を取られ、息子の帰宅に気が付かなかったのであるが、今の綾子にはそんな事を考える心のゆとりはなく、息子への折檻はさらに続いた。


「何をしているんだい!!」


 突然、初老の女性が親子の間に割り込んできた。


「お母様!!……」


 いつの間に来たのか、夫の母親が泣きじゃくる息子を抱え上げ、綾子を睨み付けている。


「綾子さん!? あんた、こんな小さな子に、なんて事するんだい! 自分の子を殺す気かい!?」

「いえ……わたしは……そんなつもりじゃ」

「あんたが、ストーカーに狙われているって聞いて、あたしは心配して来たんだよ。なのに、あんたは息子ほったらかしてほっつき歩いてるわ、帰ってきたと思ったら息子を折檻するわ」

「いえ……ですから……これは……」

「これは、いったいなんだい?」


 義母は息子のシャツを捲り上げて言った。

 幼い息子の体には、痛々しい青痣が無数にできている。


「そ……それは……」

「転んだ傷には見えないよ。あんた、やっぱり洋介を虐待していたんだね」

「虐待だなんて、そんな……それは……その躾です」

「ふざけんじゃないよ! こんな酷い傷を、作っておいて何が躾だ! とにかく、あんたの頭が冷えるまで、この子はあたしが預かるよ。いいね」

「待って下さい。話を聞いて下さい」


 だが、義母に聞く耳はなかった。そのまま、息子の手を引いて家を出て行ったのである。

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