上中下
増田朋美
上中下
金子みすゞさんの詩の一節にこういうものがあった。
「中の雪、寂しかろな、空も地面も見えないで。」
確かに、上に立つ人は、大いに称賛されることもあるし、下の人は、救済の対象になることもあり、それぞれ、役目を果たしている。しかし、上にも立つことはなく、下にいて救済されることもなく、中にいる人たちは、どんな思いを持って生きているのだろうか。
ある日、影浦のもとに、一人の女性が診察にやってきた。名前を矢崎美子という。職業は、個人的に営んでいる、家電販売店を手伝っているという話であったが。
「えーと、具体的な症状は、どんなものでしょうか?」
できる限り、相手を責めるような言葉はいわない。そんな事をしたら、患者が辛いおもいをすることは知っている。
「私は、わかりません。ただ、つらい気持ちがずっと続いているだけで、なんとか自分で良いところを見つけようとするんですけど、それもわからなくなって、こちらに来ました。」
はあなるほど、つまりうつの症状があるのかなと思いながら、影浦はそれをカルテに書き込んだ。
「あなたに、こちらの病院に行くようにといった人物は誰ですか?親御さんですか?ご主人ですか?それとも、親戚関係者ですか?それとも、職場の人?」
と、影浦が聞くと、
「いえ、そんなんじゃありません。私には、仲の良い親友が居るんですが、彼女たちに相談したところ、だったら病院で見てもらったほうがいいのではないかといわれて、こちらに来ました。」
と、彼女、矢崎美子さんは答えた。
「はあ、親友が居るんですね。しかも彼女たちというのですから、単数ではありませんね。」
「ええ。ふたりとも私よりずっといい生活をしていて、羨ましいくらいです。」
「どこで知り合ったのですか?子供の時からの付き合いですか?」
と、影浦はまた聞いてみた。
「いえ、違います。たまたま出向いた、俳句教室で知り合って、そこから親友になりました。女性二人なんですけど。もうふたりともすごいんです。あたしなんかより、ずっとうまいんです。」
と、彼女はここでやっとにこやかな顔をしてくれたので、その友達のおかげで彼女は生かしてもらっているのだなと影浦は思った。そういう存在があれば、彼女はうつ病と診断しても、早く助かるのではないかとも思った。
影浦がどこの俳句教室ですかと聞いてみると、養報寺という寺の住職がやっている俳句教室だと彼女は答えた。確かに、養報寺は、写経会と併用して、俳句教室をやっているということを影浦は知っていた。住職さんが、そういう文学的なものが大好きな面白い住職さんだと聞いたことがあった。
「その、二人の親友は、今ではどういう付き合いなんですか?」
「ええ、今でも、暇があったらランチに行ったりとか、映画を見に行くとかそういうことをやってます。」
なるほど、結構交流を持っているんだなと影浦は思った。
「それでは、その女性たちと会ったりすることで、ストレス解消はできていると思いますが、なにか、困ったこと、家庭内で問題があったとか、そういう事がおありですか?」
と、影浦は聞いてみた。
「ええ、親友二人にも話したんですが、家庭で居場所がないんですよ。店の経営は夫で間に合っているし、父の介護を手伝おうかと思ったら、母が勝ち気な性格で、何もしなくていいと言うものですから、本当に何もすることが無くなってしまいまして。子供も、もう独立してしまいましたし、本当にすることがありません。結局の所、俳句に熱中するしか無いんですよね。だから、私はいらない人間なのかと思ってしまったんです。」
「わかりました。それでは、親友二人は、なにか言ってくれましたか?」
「ええ。とりあえず、病気だと割り切って、自分なりに生活するようにと言っていました。」
影浦は、結構恵まれた女性だと思ったが、そこはいわないほうがいいと思った。それを言ってしまうと、彼女は悪化してしまうおそれがある。あまり自分の事をああだこうだと考えさせるのは、心の病気の人には向かないと思った。それよりも、こうしたらどうかと提案をしたほうがいいと思っている。
「これは僕からの提案なんですが、あの養報寺さんでは、俳句の教室だけではなく、小説などの教室もやっているんだそうですよ。あなたもそれを書いてみませんか。各内容は何でもいいです。病気になったきっかけでもいいし、ご家族のお話でもいいです。この世の中は必要のない人なんていませんよ。そういう事をして、生きがいを持ってもいいんじゃありませんか。ほかのことは、他の人がやるんだってわかってるんだったら、自分のやりたい事を、思いっきりやってもいいのではないでしょうか?」
影浦がそう言うと、彼女はそうでしょうか。といった。
「ええ、そのほうがずっといいと思ってますよ。きっと、ご家族も落ち込んでいるあなたを見るよりは、いきいきしているあなたを見たほうがいいんじゃありませんか?」
「そうですね。私、やってみます。」
と、彼女はここでやっとにこやかな顔になった。影浦は、つらい気持ちになったら、それを和らげてくれるかもしれないと、漢方薬を処方し、彼女を診察室から出した。
その数日後のことである。影浦が、水穂さんの診察のため、製鉄所を訪れたときのことであった。いつもどおり、インターフォンのない、玄関扉をガラッと開けて、
「こんにちは、影浦です。往診に来ました。」
というと、杉ちゃんが応答した。影浦は、製鉄所の玄関に、女性用の靴が三足置いてあることに気がついた。
「今日はどなたかお客様ですか?」
と、杉ちゃんに聞いてみると、
「いやあ、先週からここを利用している三人の女性がいてね。何かかしまし娘みたいな会話を繰り広げて、とても楽しそうにやってるよ。」
と、杉ちゃんは、答えた。影浦も、草履を脱いで、製鉄所の建物内にはいって、廊下を歩きながら杉ちゃんに、
「その三人の女性は、学生ですか?大学生とかが三人で勉強しに来たのでしょうか?」
と、聞くと、杉ちゃんは即答した。
「いやあね、会社員とかそういう奴らだ。二人が、市民文芸に出す原稿を描いている。そして、一人は、漢字の間違いとか、そういうものを是正するかかり。何か学生みたいだけど、中年のおばさんだよ。」
影浦はとりあえずそうですかとだけ言っておく。そして、二人は四畳半にはいった。横になっていた水穂さんは、影浦がやってきたのを確認して、布団の上に起きた。
「水穂さん具合はいかがですか?」
と、影浦が尋ねると、
「ええ。変わりありません。ただ。」
水穂さんは、そう言って言葉を止めた。
「ただなんでしょう?」
「いえ、このところ、仲良しの三人の女性がここに来ているので、なかなか眠れないです。」
影浦が聞くと、水穂さんはそう答えるので、
「そうですか。それはいけませんね。ゆっくり休むのが必要なのに、それを邪魔されては困ります。ちょっとその三人に話しをしてみましょうか?」
と影浦は、彼女たちはどこに居るのか聞くと、杉ちゃんが食堂にいるよと答えた。影浦は、そこへいってみることにする。食堂に行くと、たしかに三人の女性がテーブルに座っていた。一人はスーツ姿だが、後の二人は、ブラウスにスカートという格好で、紙と鉛筆を持ってなにか描いている。時折、楽しそうにおしゃべりしているが、それが、水穂さんが眠れなくなる原因であるのだろう。
「あのすみません。僕は医師の影浦と申します。ここに間借りしている、磯野水穂さんの、」
と影浦が言うと、女性の一人が振り向いて、
「あら、影浦先生じゃないですか!」
というのでまたびっくり。誰かと思ったら、先日影浦医院へやってきた、矢崎美子さんだった。
「どうしたんですか。ここに先生の担当の患者さんでも居るんですか?」
と、美子さんは明るく言った。やっぱり影浦が見込んだ通り、小説を書くことで、少し楽になってくれたようだ。
「いえ、ここで間借りしている磯野水穂さんの治療を行っております。」
と影浦が答えると、
「何だ、お前さんたち知り合いだったのか。」
と、杉ちゃんが言った。
「ええ、一度だけですけど、影浦先生の病院にお世話になりました。私がね、小説を書き始めたのも、先生のおかげです。あ、先生、この間の診察で、私が大事な親友が居ると言いましたよね。その親友とはこの二人です。こちらが、親友の、内村奈美恵さん。」
彼女はにこやかに笑って隣に座っているブラウス姿の女性を紹介した。なんだか少し内気な感じの女性で、ぶすっとした顔をしていたが、笑顔で頭を下げてくれた。
「で、こちらが、」
と、美子さんが紹介しようとすると、スーツ姿の女性は、
「はい、香西正代です。」
と名前を名乗った。
「そうですか。わかりました。では、水穂さんが、眠れないと申しておりますので、少しお声を小さくしていただけないでしょうか?」
と影浦が急いでそう言うと、
「まあ私達、迷惑をかけてしまったんですね。水穂さんに謝りに行きますよ。すぐ行きますから。」
と、内村奈美恵さんが急いでそう返した。ほかの二人も、そのほうがいいわと言って、三人の女性は、椅子から立ち上がって、四畳半に向かう。全くそんな事しなくていいのにと杉ちゃんはつぶやくが、女性たちはどんどん行ってしまった。
「水穂さん。」
と、美子さんが、水穂さんに声を掛ける。水穂さんは、布団に座って、彼女たちの方を向いた。
「本当にごめんなさい。あたしたちの声がうるさくて眠れなかったなんて。」
と、内村奈美恵さんが、申し訳無さそうにいうと、水穂さんは、いつもどおり、いえ大丈夫ですよといった。影浦は、水穂さん、無理をしてはなりませんよ、と注意したが、水穂さんはそれには反応しなかった。
「ごめんなさいね。はじめは図書館の会議室を借りようとか、喫茶店でもいこうかって行ってたんですけど、喫茶店には長居をし過ぎでご主人に叱られましたし、図書館の会議室はお金がかかりすぎます。それで、正代さんが、ここでやったらどうかって提案してくれて。」
と、美子さんは、状況を説明した。
「では、この製鉄所を紹介したのも、正代さんだったんですか?」
水穂さんがそうきくと、
「ええ。正代さんがインターネットで調べてくれたんです。正代さんは、いつも私達にとって大事な情報屋になってくれます。私達がなにかしようとすると、正代さんが会場の手配をしたり、場所を調べたりしてくれます。」
と、奈美恵さんが言った。
「そうですか。なんだかみんなのリーダー格みたいですね。それに、あなた方の作品を校正してくれるのも、正代さん。」
水穂さんはそう言って二三度咳をした。
「ああ、ごめんなさい。水穂さん疲れさせるようじゃ申し訳ないわ。おじゃま虫は、すぐにどきますね。」
と、美子さんが急いで縁側を出ようとするのと同時に、水穂さんはまた咳き込んでしまった。杉ちゃんが、急いで薬を飲ませたので、すぐに止まってくれたのであるが、三人の女性たちは、本当にごめんなさいと言って、四畳半を出ていった。
今回は、さほどひどい咳き込み方ではなく、幸いちょっと口元が汚れる程度で済んだ。薬を飲ませたのが、早かったこともあるだろう。やっぱりどんな病気でも、すぐに手をうつのは大事なことである。
「すみません。」
と、水穂さんは言った。影浦が、横になりましょうと言って、水穂さんを布団に寝かせ、掛ふとんをかけてやった。
「ありがとうございます。すみません、彼女たちが楽しんでいるのを、僕が邪魔してしまうような気がして。」
水穂さんは、そんな事を言った。
「まあ、細かいことは気にしないでさ。早く寝ろ。」
と、杉ちゃんがいうと、
「でも、あの三人は、本当に友情で結ばれているのでしょうか。僕、どこかおかしいと思ったんですよ。」
水穂さんは心配そうに言った。
「どういうことですか?」
影浦が言うと、
「ええ、一つ、どうしても気になるところがあって。あの、香西正代さんという人の目です。なんだかひどくつらそうと言うか、なにか恐れているようなそういう目をしていたんです。何かが起きるのを、恐れているのでしょうか。そんな顔をしていました。」
と、水穂さんは言った。
「ちょっと気にしすぎじゃないの?楽しそうに三人でやってるじゃないか。それでいいのでは?」
杉ちゃんがそう言うが、影浦もそれはそうかも知れないと思った。確かに、彼女、香西正代さんの目はほかの二人の顔つきより違っていた。
「ええ。僕もそう思いましたよ。確か、あの三人は、養報寺で行われている俳句の会で知り合ったと聞いていましたが、三人とも化粧をしていたけど年の頃が違うし、家庭環境も違うのではないでしょうか?」
影浦も、水穂さんの話にあわせた。確かにあの三人は、化粧でごまかしているが、服装で年が違うなとわかる。美子さんは、ピンクのブラウスに緑のスカートを履いているが、奈美恵さんは、グレーのブラウスに茶色のスカートという、やや年配者向きの格好をしている。そして、正代さんは、リクルートスーツを着ているのだ。
「三人の職業の話を聞いたことがありますか?」
影浦が水穂さんに聞くと、
「ええ。美子さんの家は、家電販売店を経営しています。ご主人と、ご両親と暮らしていると聞きました。奈美恵さんは、ご主人とふたり暮らしで、ご主人は確か学校の先生で、あまりに忙しいので、奈美恵さん本人は暇で仕方ないと聞いたことがあります。そして、正代さんは、、、確か会社員でまだ未婚であるとか。」
と、水穂さんは答えた。
「まだ未婚!だって、とっくに40は過ぎてると思うけど。」
と杉ちゃんが言うと、影浦先生が、そんなこと言ってはいけませんよと注意した。
「まあ、そうなのかもしれないが、何故か正代さんだけが、結婚していないで、普通に会社勤めなんて、共通点が何もなさそうだよ。それなのになんで三人一緒にくっついてるんだろう。」
「そうですね。まあ三人とも俳句や小説などを書くのが好きというのは共通していますが、杉ちゃんの言う通り、正代さんだけが、境遇が違います。確かに、なぜ三人一緒にいられるのか、不思議になるところです。」
と、影浦も、杉ちゃんに賛同した。
「逆をいえば、それ以外あの三人は何も共通点がありません。」
「かろうじてあると言ったら、三人とも、精神科でお世話になっていることでしょうね。奈美恵さんも、こちらに引っ越してくる前は、精神科に通っていたようですし、正代さんも会社の産業医の診断を受けていると話していたのを聞きました。」
と、水穂さんが言った。
「まあいずれにしても、あの三人はとても仲の良さそうな女性だと思われるが、3人ともぜんぜん違うやつが集まっていると言える。それがバレた時、ちょっと大変になるかもしれんな。」
杉ちゃんが急いで言った。
「ええ、そうですね。きっと一番障害というか、問題があるのは、美子さんでも奈美恵さんでもなく、おそらく、正代さんではないでしょうか。彼女こそ、医療の援助が必要なのかもしれない。もし、彼女がそういう素振りを見せたら、すぐに僕のところに連絡をよこしてください。」
影浦がそう言うと杉ちゃんが指を口に当てた。何だと思ったら、薬が回って、水穂さんは、眠ってしまったのである。
それから、また数日が経った。影浦のところに、あの三人から連絡が来たことはなかったが、しかし、その日の夕方、近所のスーパーマーケットのご主人から電話があった。なんでも、パニックの発作を起こした女性を捕まえたのだが、泣くばかりで話が通じないので、ちょっと来てくれということであった。影浦は、すぐに行きますと言って、白い十徳羽織を着て、風呂敷で包んだ重箱を持って、急いでスーパーマーケットに行った。到着するとご主人が待っていて、
「ああ先生、どうもありがとうございます。名前は香西正代さんという女性で、おそらく、パニック障害というのだと思うんです。急に突然泣き出しましたから。」
と言いながら、影浦を事務所まで連れて行った。影浦が事務所に入ると、椅子に座って泣いている、香西正代さんの姿が見えた。
「こんにちは。香西正代さんですね。この間もお会いしましたが、精神科医の影浦と申します。よろしくどうぞ。」
と、影浦は、彼女の前に置かれた椅子に座った。
「では、ゆっくりでいいです。なにかありましたら、いつでも中断して結構ですから、苦しくなったときの、理由を簡潔に話していただけますか。まずあなたは、ここで買い物をしていた。これは間違いありませんね。」
「はい、買い物をしていた時、そのスーパーマーケットのテーマソングが流れていたんです。」
と、香西正代さんは、小さな声で答えた。こういう些細なものであっても、患者さんにとっては、重大なものになる場合がある。
「そのスーパーマーケットのテーマソングが、発作の引き金になったわけですね。それでは、ちょっとだけ過去にあった事を思い出してください。そのテーマソングにまつわるなにか重大な事件があったんですね。具体的ではなくてもいいですから、それを話していただけますか?」
と、影浦が聞くと、香西さんは、もう覚悟を決めなければだめだと思ったようで、小さな声でこう話し始めた。
「はい。私の父が、母を殴っているのを見ました。そのときに、あのテーマソングが流れていました。だから私はテレビが本当に嫌いで、ついていると、それが流れるんじゃないかって、すごく辛いんです。」
「わかりました。きっとあなたは、そのテーマソングが流れるとまたお父様から暴力を振るわれるのではないかと、恐怖を感じてしまって、それでパニックを引き起こしたわけですね。」
影浦がそう言うと、彼女ははいと答えた。
「その事を、誰かに話した事はありますか?ご家族や、ご親戚など誰か頼れる人似です。」
彼女は首を横に降った。
「どうしてです?先日、あの時製鉄所で一緒にいた、二人の方は、あなたの相談相手にはならないのですか?」
影浦がそうきくと、
「ええ、だって、あの人達とずっと繋がっていられるためには、弱いところを見せてしまっては、だめですもの。人にバカにされないように、ずっと緊張していきなくちゃ。」
と、彼女は答えるのだった。
「そんなことありません。あなたは、情報を発信して、あの二人を助けている立場です。彼女たちを信じて、自分の身内を話してみてください。きっと彼女たちは、答えてくれると思います。」
影浦は泣いている彼女に、そうにこやかに言った。
上中下 増田朋美 @masubuchi4996
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