太陽の魔物⑤

 人間と魔女の見分け方は、物心つく前の小さな子供でも分かる。人間になくて、魔女にあるもの。

 それは——左手の6本目の指。

 魔女は6本、指が生えている。必ず左手だけに生え、小指の隣にひょっこりと並ぶ。小指よりも小さくて、小枝のように頼りない、6本目の指。

 人間には窮地に立たされると働く”勘”がある——それが『第六感』。魔女にはそれを具現化した指が生えているのだ。だから人々は、6本目の指を敬意と畏怖の意を込めて”第六の指”と呼ぶ。


◇  ◇  ◇


「う、うわあああああああああああ」

 メルがその声を聞いた瞬間、最悪の事態が起きていることに気づいた。

 やられた……!? 振り返ると、黒マントが目にも止まらぬ速さで一番奥のドアを開ける。

「メル! 来るんじゃない!」

 ボサボサ頭が叫んだ。その瞬間、ドアの中から大きな球が飛び出してくる。

「ぐっ……」

 鈍い呻き声を上げて、黒い影は吹っ飛ばされた。二階の手すりを越え、一階へ。

「アンタ!!!」

 メルは手すりから身を乗り出す。しかしどんなに見渡しても、赤黒い絨毯には誰も倒れていない。

「やれやれ、派手なお出ましだね」

 その声を聞き、メルは天井を仰いだ。鎖が切れてバランスを失ったシャンデリアに、1人のコウモリがぶら下がっている。

「メル、降りてくるんじゃないよ」

 そう言うと、黒いマントを翻し、音もなくひらりと一階に降り立つ。メルは混乱していた。

 あんなに早く動けるなんて——。

 大きな球のスピードは馬が走るよりも早かった。それにあの大きさ。グリズリーよりも巨大で荒々しい。馬車に轢かれた方がマシだ、とメルは唇を噛みながら思う。

 ボサボサ頭が降り立った数メートル先には、勢い余って玄関に突っ込んだ球体がモゾモゾと蠢いている。くすんだ肌色をしているが、その表面は粘度の高い液体に覆われており、動く度にそのねばついた液をぼたぼたと落としていた。まるで獲物を前にした猛獣が垂らす唾液のよう——そう思った瞬間、球体が縦に伸びた。

 上に持ち上げられた皮膚は亀の首のように揺れ、何かを探しているようにも見える。その動きが葉を這うナメクジを彷彿とさせ、メルの全身に鳥肌が立った。腹は脂肪がついてもたついているのではなく、妊婦のようにまるまるとしている。そこから伸びる首の上には顔のようなものがぼんやり見えるが、皮膚が伸びきったゴムのように垂れ下がっていて、目や鼻などを覆い隠していた。

 ボサボサ頭が走り出す。ダダダ、とむやみやたらに足音を立てながら。

 アンタそれじゃ……! メルは叫びたい衝動に駆られたが、そうすればこちらの位置もバレてしまう。ぐっと力を込め、声が飛び出さないよう口を閉ざす。

 ナメクジはぴたりと動きを止め、ニュルニュルと首を引っ込めていった。そして球体に戻り、ボサボサ頭の方へ勢いよく転がっていく。

 その速さは雪崩の中の雪玉だった。坂を転がり出した球体は誰にも止められない。ごろごろと音を立てながらボサボサ頭へと迫っていく。

「ッ……!」

 咄嗟にメルは自分の口を押さえた。飲み込んだ声は悲鳴というより、驚嘆に近かった。

 雪玉より速度が出ているであろう球体を、ボサボサ頭が躱したのだ。身体を半回転させ、黒マントをはためかせながら。その姿はまさに闘牛を前にした闘牛士のよう。

 球体は加速したまま奥の壁に激突し、その衝撃で天井の木屑がパラパラと落ちてくる。メルは現状が現実とは思えなかった。ボサボサ頭の挙動は常人と違う。訓練を積んだ兵士や軍人のそれなのだ。

「いてて……左腕だけかと思ったら足までやられちまったか。まいったなあ」

 困ったように言うが、その声は言葉に反し間延びして響いた。

「でもまあ、これだけ残りゃなんとか」

 ボサボサ頭がまた球体へ向かっていく。自殺行為とも取れる動きに、思わずメルは目を瞑る。

 1秒にも満たない静寂を破ったのは、球体の方だった。

「ガああアア嗚呼アアア阿!!!!!!!」

 獣の咆哮。しかしそれは色褪せた記憶の中で聞いた声でもあった。

 おばさん……!

 メルは身を乗り出して、1階を見下ろす。辺りは粉塵で真っ白だ。目を凝らす。そこに立つ、1人の影。

「……やっぱりそうか」

 呟くように言うと、ボサボサ頭がメルに視線を投げた。その突き刺すような眼光。

 ヒュッと短く息を吸い、メルはその場にへたり込む。暗く重い瞳……あれは——憎しみだ。憎しみの視軸。

 ドッドッと心臓が暴れまわる。

 責められているのだ、あの女に。

 違う。メルは頭を抱えた。違う。私が悪いんじゃない、違う。みんながやったんだ。そう、みんなが。私は。私はただ——。

 じゃり……じゃり……。

 はっと顔を上げる。近くから聞こえる音……あの青年——まだ生きている!?

 1階の戦いに気を取られていたせいで、すっかり頭から抜け落ちていた。

 助けなきゃ……! メルは冷たい汗を滴らせながら、ぽっかりと口を開けた部屋へ逃げるように入っていく——今すぐこの場から消え去りたい、そんな気持ちを隠しながら。

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