太陽の魔物③

 魔女——この世界には人智を超えた力を持つ者がいる。

 能力は魔女によってさまざまで、天候を操る者、恐ろしい速度で治癒を施す者、動物と会話する者や、口を開かずに自分の考えを他人へと送れる者……彼女たちにしか操れぬ力が備わっている。

 その魔女が深い悲しみを抱いた時——人を襲う”魔物”へと変貌するのだ。


◇  ◇  ◇


 細かくヒビの入った窓。それを覆うボロボロのカーテンが隙間風で揺れている。3人が踏み込んだ館は、全く手を入れられていない庭のように荒れ果てていた。

『中に入ったら音を立ててはいけない』

 館に入る前、メルが2人に言い聞かせたことだ。

「魔物は音に反応する。動きは鈍いから私たちに追いつくまで時間かかるけど、でも音にはとても敏感なの」

 ひそひそと話すメルに青年が言う。

「どうしてキミはそんなに詳しいんだい……?」

 一歩進むたびに古い床がミシミシと軋む。どんなに足を忍ばせても、音は絶えず鳴り続ける。幸い、隙間風のお陰で足音はかき消されているが、少しでも大きな音を立ててしまったら一巻の終わりだ。

 先頭を歩くメルは二階の『子供部屋』を目指していた。だだっ広いエントランスから階段まで、長いカーペットが敷かれている。元は深紅であったろうそれは、土足で上がり込んだ足跡やのような汚れが目立ち、乾いた血溜まりのように黒い。ようやく階段下までたどり着いたメルは、肩で息をしていた。緊張と恐怖で強張った身体を無理矢理動かすのは、大変な労力を要する。

 1段目に足をかけるとコツ、という音が響いた。階段は大理石でできているのだが、隅の方には何年も蓄積された埃が溜まっており、表面も汚れでざらざらしている。メルは蜘蛛の巣が張った手すりを頼りに、ゆっくりと上がっていった。音を立てないように、慎重に。その後ろを疲弊しきった青年とボサボサ頭が、そろそろとついていく。

 呼吸すら躊躇ってしまうほどの静寂、その刹那。

「……っ!」

 青年が足を滑らせ、空中で横倒しになった。このままだと勢いのままに転がり落ち、階段の中腹から一階の床へと一気に叩きつけられてしまう。もうダメだ、と目をつぶった瞬間——黒い影が青年の身体を支えていた。

(気をつけな)

 声は出さず唇だけを動かす。その顔。その殺気だった表情。体勢を立て直した青年は手すりに掴まり、小刻みに震える身体を支えた。視線の先、動揺しているメルの肩を優しく叩いたボサボサ頭に問いかける。

 お前は一体——?

 階段を上りきる。2階は1階の広間をぐるりと囲むように廊下が伸びており、アンティーク調の装飾が施されたドアがずらりと並んでいる。左端から二番目の扉、そこが『子供部屋』だった。「そこで仲間が襲われた」と館に入る前、青年は苦々しく言った。

「巨大な”なにか”が仲間を抱きしめた。その瞬間……部屋の中は光り輝いて……それ以降の記憶がないんだ」

 メルは額の汗を拭った。館に入る前からずっと、鼻の中が不快な臭いで満たされている。何かを焼いた、もしくは燃やした臭い。店のキッチンで嗅いでいるものとは違う。食材や資材からは発せられない、独特の燻された臭い。

 頭が熱を帯びている。思わず、指先でこめかみを抑えた。昼間なのに薄暗い部屋、閉め切ったカーテンの隙間から差し込む淡い光、床一面に広がるおもちゃ——遠い記憶が脳裏に張り付いたまま動かない。

 記憶——幼いメルが床に足を投げ出し、広げた絵を眺めている。色とりどりに描かれているのは、虫。ありとあらゆる昆虫が、拙い筆跡で描かれている。

『メルちゃん』

 絵筆を握り締めながら、少女は笑った。

『メルちゃんはどれが好き?』

 メルは迷いに迷った末、少女の手元にある虫を指差した。黒くて大きな羽を持った蝶。

『カラスアゲハだね』

 そう言うと、少女は笑顔になった。その輪郭はぼやけていて、口元までしか分からない。

 それでも笑っていた。記憶の中の彼女は、いつも笑っていた。

『今度こそぜったい晴れの日にあそぼうね』 

「——ル! メル!」

 肩を揺さぶられる。はっと我に帰ったメルは、後ろの人間の口を塞ごうと振り返った。今、声を出すのはご法度だ。

「アイツがいない……!」

 伸ばされた手を掴み、鬼気迫る顔でボサボサ頭が言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る