第5話: 天下泰平の世(疑惑のまなざし)



 ──温泉、あるいは、銭湯。




 現代社会においても、その二文字が持つ魅力は抗いがたく、当然のように観光地の目玉として扱われている。


 かつてのローマにおいても入浴という行為は重要だと言われていたが、日本もまた、古来より湯に浸かるという行為を特別視している。


 湯に浸かるという行為を『湯治』と呼び、治療の一種として捉えていたことからも、如何に関心が高かったのかが伺いしれるだろう。


 そして、それは史実の江戸時代においても、『剣王立志伝』風味なこの世界においても、例外ではなかった。


 いったい、どうして……それは、当時の江戸の気候や環境が拍車を掛けていた。



 と、いうのも、だ。



 史実においてもそうだが、元々、江戸というのは当時の日本において、田舎と呼ばれるような場所であり、客観的な評価でもあった。


 諸説こそあるが、当時の記録などで幕府が江戸に置かれる事が決まった際、そこを知っている者たちの大半から『え、あんな田舎に?』と思われたぐらいには寂れた場所である。



 加えて、土地の質的な意味でも、そこまで良いわけではない。



 いわゆる、低湿地帯と呼ばれる、水はけが悪く湛水たんすい(水が溜まっているの意味)しやすく、住むには少々不便な場所。


 もちろん、そこが選ばれた理由は諸説あるし、ちゃんと存在している。まあ、そこを語り出すと長くなるので話を戻すが……とにかく、だ。


 江戸という町が作られ、発展するまでは、江戸は田舎も田舎な辺境の地であり、周りに遮る自然の防波堤が何もない場所とされていた。


 あるのは、あしが生い茂る広大な低湿地帯に、寂れた村(漁村など)がポツポツと点在するだけの……言うてはなんだが、未開の土地でしかなかった。


 そこを開拓し、城が建てられ、家が建てられ、人が集まり、江戸そのものが大きく広がっていくわけだが……ここで問題となったのが、江戸の環境である。



 はっきり言えば、江戸の生活は砂や泥との暮らしなのだ。



 埋め立てなどを行い、だいぶマシにはなっているが……現代のように、アスファルトでキッチリ固められるわけではない。


 当然ながら、ただ暮らしているだけでも、相当に汚れてしまう。


 晴れた日が続けば地面は乾燥して砂埃が舞い上がり、雨が続けばぬかるんで泥だらけ。ゴム靴なんて、存在していない。


 賑やかになるに従って、人々の往来も増える。


 そうなれば、何度も踏みつけられて硬くなった地面にも雑草が生えなくなってくるから、どんどん悪くなる。


 おまけに、江戸は海が近い。


 毎日というわけではないが、潮風を浴びた身体はなんともべたつき、それでいて、そこに砂埃が付けば、だ。


 日本人たるもの……水浴びの一つや二つはしたくなるわけで、温くとも水よりはお湯でとも誰もが思うわけで。


 そうして需要が増えれば、やはり生まれるわけだ。


 木造建築で構成された江戸の町において、火の取り扱いは厳しくされていたからこそ広まった……入浴の為の施設が。


 そう、それが、温泉あるいは銭湯。


 史実の江戸時代においても入浴施設が大繁盛し、入浴料金が一銭(いっせん:当時の通貨)であったことから、銭湯と呼ばれるようになった理由である。



 ……ちなみに、『垢抜ける』という意味合いの言葉も、この時に生まれた言葉だとされている。



 そうなる経緯は、まあ、アレだ。



 砂埃などで汚れた身体をササッと洗い流して綺麗にする


 ↓ 


 身綺麗を意識して心がけると、自然に回数が増える 


 ↓ 


 入浴し過ぎたせいで、垢どころか肌が乾燥して白くなる 


 ↓ 


 それだけ江戸の暮らしに馴染んできた


 ↓


 垢が抜けたな! 



 ……というわけである。


 つまりは、江戸と銭湯は切っても切り離せないぐらいに密接であり、それは江戸っ子民の見栄っ張りな性根とも合致したことで生まれたモノ……な、わけだが。



「御侍様よう! どうして入っては駄目なんでい!!」



 そうなると、これまた当たり前だが……出て来るわけだ。



「温泉に入っちゃ駄目って、いったいどういう了見なのか教えてくんなよ!!」



 銭湯マニアでは収まらぬ、銭湯ジャンキーのような、熱狂的な銭湯好きたちが。


 そこに、男女の……いや、さすがに朝っぱらから押し掛けてくるのは男ばかり(江戸の男女比を考えれば、当たり前だろう)で、今のところ男しかいないが……とにかく熱気が凄い。



 まあ、そうなるのも致し方ない。


 だって、銭湯どころか、温泉があるというのだ。



 現代とは違い、この時代では県を一つ跨ぐだけでも相当に手間暇が掛かる。単純な手続きの煩わしさだけでなく、旅費だって現代の比ではない。


 なにせ、移動は基本的に徒歩。現代でいうタクシーに当たるモノはこの世界にもあるが、それでも日帰りなんて不可能だ。


 誇張抜きで、一生を村の中で過ごすなんて珍しくはない。


 富士の山を一目見て死ねたら……現代では少しお金を出せば叶う事でも、ここでは一生の願いになるとなれば……温泉に入るというだけでも、如何に難しいかが想像出来るだろう。



 ──そんな中で、『温泉』がすぐ近くに出来たというのだ。



 温泉に入るなんて、それこそ一生に一度の思い出……そりゃあもう、銭湯ジャンキーたちは大はしゃぎである。


 いや、彼らだけでなく、この話を耳に挟んだ者たちは男女の例外なく、心をざわつかせた。


 それぐらいのインパクトがある出来事なのだ。


 だから、意気揚々とやってきた彼らのテンションの上がり方ときたら……まあ、それも無理からぬ話だ。


 なにせ、柵越しとはいえ、目と鼻の先にあるのだ。


 屋根が設置され、脱衣所らしき建物があり、生垣で囲われた温泉が……肝心の温泉は見えないが、もはや、そんなのはどうでもいい。




 ──是が非にも入りたい。ただ、それだけであった。




 最初は1人2人だったのが、時を経る毎にどこからともなくゾロゾロと集まって来て、気付けばその数は30人を越えている。


 その誰もが、傍目にも分かるぐらいに不機嫌そうに顔をしかめている。通せんぼしている侍たちも顔をしかめているが、それ以上に集まっている男たちの方が不機嫌であった。


 まあ、客観的に考えたらそうもなるだろう。


 許可なく営業している売春や賭博など、その手の利用を妨げるならばともかく、風呂に入らせないようにするだなんて聞いた事がない。


 彼らからすれば、『たかが風呂にケチ臭い嫌がらせするんじゃねえ!』ってことである。(ただし、風呂にケチつけたらキレる)



「──ならんと言ったら、ならん!」

「だから、理由を説明してくんなよ!!」

「ええい、しつこい! あまり食い下がれば牢屋にぶち込むぞ!」

「風呂に入るだけで牢屋ってなあ、ひでぇじゃねえか! なんで駄目なんだよ!」

「──鬱陶しい! さっさと下がらんか!!」



 せめて、理由の一つでも語れば話は違ったのかもしれないが……そうするには、少しばかり遅かった




 ──やっぱり、噂のとおりに御侍様が独り占めするんだな。




 集まった民衆の中にいた誰かが、ポツリと言った。


 それはけして大きくはないが、良く通る声で……自然と、民衆の誰もが、ソレを真実だと受け止めた。




 ──アレも駄目、コレも駄目……ぜーんぶ、自分たちのモノってわけか。




 そして、続けられたその言葉に……サッと顔色を変えたのは、侍の方だったか……それとも、民衆の方だったか。




 ──止めとこうぜ、下手に歯向かうと切り殺されちまう。




 その言葉が、ポツリと誰しもの耳に入った時にはもう……民衆たちから勢いは消え、1人、また1人と踵をひるがえし……引き返していった。



 ……。



 ……。



 …………その事に、侍たちの大半は安堵のため息を零した。



 切り捨て御免は許されてはいるが、さすがに、温泉に入ろうとするただの町民を切り捨てるなんていうのは、侍たちにとっても御免な話であるからだ。



「しかし、御上おかみはいったい何をお考えなんだ?」

「シッ! どこに目と耳があるか分からんのだ……口は慎んだ方がいい」

「──っ、それもそうだな、迂闊だった」



 ポツリと零した愚痴に、傍に居た同僚が唇に指を立てて警告する。慌てて口を閉じたのを見て、その同僚だけでなく……周囲の者たち全員が溜息を零した。



 ──こんなことをしても、火に油を注ぐも同然では? 



 それは、この場にいる全員の共通した疑念である。


 どうしてここを通してはならないのか……御上から通達された内容とは別に、その経緯は、全てではないが様々な形で耳にしてはいる。



 彼らとて馬鹿ではない。



 命令がくだれば命を賭す覚悟ではあるが、馬鹿正直に全てを鵜呑みにするほど実直でもない。


 隠されてはいるが、この手の問題に対して……口が些か軽くなってしまうのは、侍も人であるからで。



 つまり、簡潔にまとめるならば、だ。



 『実らず三町』に住まう稀人と御上との間で揉めて、懐柔も和解も出来なかったので、こうなった……という感じだということを、この場にいる誰もが把握出来ていた。



 ……はっきり言おう。



 果たして、これはどちらが悪いのだろうか……それが、彼らの正直な本音であった。


 御上が、『実らず三町』の状況を見て不安を抱く気持ちは分かる。真偽は不明だが、仮に稀人が野心を抱けば、幕府の膝元に爆弾を抱えるような状況に陥るからだ。


 だからこそ、やり方が下劣かつ性急ではあるが、御上の企みは理解出来たし共感も出来た。


 しかし、一連の経緯を聞いた時、彼らの大半は二つ、同じことを思った。



 一つは──それ、失敗したら取り返しがつかないのでは、と。


 二つは──そらぁ拗れに拗れるのも当たり前ですな、であった。



 けれども、誰もソレは言えなかった。


 なにせ、主君である織田信長は、ある面では非常に寛容ではあるが、ある面では部下たちが恐れ戦くぐらいに短気でもある。


 実際、『鳴かずんば・殺してしまへ・ホトトギス』という句を詠ったぐらいだ。


 意にそぐわぬ相手にはとにかく辛辣だというのは、他所にも知られているぐらいに有名な話で……今回は、その悪い面が出てしまった……というのが彼らの見解であった。



 ……で、失敗した。それも、考えうる限り最悪の結果だ。



 いちおう、命令の通りに懐柔なり和解なりに動いたが、結果は語るまでもない。むしろ、これで和解された方が不気味だとすら彼らは思っていた。



 ……そうして始まったのが、コレだ。



 目的も何も教えられず、とにかく『実らず三町』の周囲を囲って封鎖しろ……という命令。


 おそらくは、『実らず三町』に住まう者たちへの嫌がらせであり、脅しなのだろう……とは思った。


 規模は小さいが、やっていることは兵糧攻めの一種だから。


 周囲を自分たちで囲うのは、つまりは抑止力。それは、何も柵の内側だけに向けたものではない。


 馬鹿な事を仕出かしたら問答無用で切り捨てるぞという、外側の……邪魔をするなという、町民への意思表示であり、威圧だ。



 ……当たり前だが、よほどの意味もなく自分の領土の民を切り殺すわけがないのだ。



 上は長期戦になるのを想定しているのか、根気のいる役目だと通達されたが……正直、大義名分などあるのだろうか……そんな考えすら浮かんでいた。


 これもまた、いちおうではあるが御上の思惑、意図は察していた。


 簡潔にまとめるなら、『実らず三町』には入れる者と入れない者がいるわけだが……その出入りを『稀人の一存で決めているのではないか?』という疑惑を拭い去れないからこその、コレなのだ。


 『稀人』自身でも本当に制御出来ていないのであれば、まだいい。


 しかし、実際は制御出来ていて、利用されないために、あえて制御出来ていないフリをしているだけではないか……おそらく、御上はそれを疑っているのだろう。



 そこは、分かる。この場に居る彼らは全員、そうせざるを得ない状況に理解は示した。



 だが……それはそれ、これはこれ、だ。


 相手が極悪人ならばともかく、この場にいる者たちの大半は……何だかんだ言いつつも、柵の向こうにいる稀人の世話になっている。


 具体的には、美味しい食材を相場より格安で譲ってもらったとか……それに、そこだけではない。


 御上やその側近に当たる者たちにとってはあまり実感が湧かないだろうが、こういう場所に駆り出される末端にとって、顔見知りの町民たちは多いのだ。


 いくら身分上は町民たちよりも上とはいえ、彼らとて、命令されているだけの中間管理職……馴染みの店だってあるし、仕事柄よく雑談する間柄の相手だっている。


 常に警護され、キッチリ区画が分けられた向こうに住まう、主君を始めとした御上たちとは違うのだ。



 ……気まずいなあ。


 そう、誰しもが心の奥底で思ってしまうのも、致し方ない。



 ……温泉、入ってみたいなあ。


 侍とて江戸に住まう者……これもまた、仕方がないこと。



 1人、2人、チラチラッと柵へと目を向ける。


 どこに目や耳があるか分からない(侍たちも、入ってはならない)ので、柵の向こうに行けるかどうかを試すつもりはないが……それでも、魅力的なのだ。



 ──温泉、ああ、温泉。


 ──温泉とは、本当に心地良いのだろうか。


 ──心身に効き、入っているだけで病も治るとか。



 次々に湧いてくる、正直な欲求。


 御上が短慮さえしなければ、もしかしたら……温泉に入れたかもしれないのに……ああ、それなのに。



「……生殺しでござるなあ」

「……言うな」

「某は……熱い風呂には目がないのだ」

「……奇遇だな、拙者もだ」



 だからこそ、与えられた命令はちゃんとこなしつつ……今後の事を想像し、彼らは内心にて肩を落とす事しか出来なかった。






 ……。



 ……。



 …………そうして、時間は流れ……日が落ちて、夜になった。



 当然ながら、『実らず三町』を囲う末端の侍たちは、交代しながら寝ずの番をする。季節が季節なので、寒さに凍えることはないが……それでも、大変である。


 なにせ、いざという時を考えて、座り込むわけにもいかない。


 火を焚き、明かりを確保するにも金は掛かる。グルッと囲うわけだから、それを絶やさずともなれば費用もばかにならない。


 加えて、只でさえ御上と末端との間には温度差が生じている、この任務。


 誰も彼もが生真面目に監視を続けているが、やはり、心の何処かで隙が生じているうえに、慣れていない作業だ。


 精神的な気疲れもあって、1人や2人……監視の目が緩んでいる場所が出て来るのも、当然の話であった。







 現代とは違い、松明を除けば星明りぐらいしか光源がないこの世界……全身真っ黒な恰好で足音を消して歩けばもう、その姿を見付けるのは至難の業だ。


 そして、それを行うのが、夜の闇にて本領を発揮する忍者。


 稽古を積んでいるはいえ、本物の忍者と応対した経験など無い彼らは、1人として……柵の内と外を行き来し、金子集めや情報収集を行っている次郎三郎たちに気付いていなかった。



「……それで、町の様子はどうだ?」



 時刻は夜、既にミエたちは床に就き、すやすやと寝息を立てている。


 起きているつもりだったらしいが、この世界の者たちは早寝早起きが基本なので、基本的には誰もが寝ている時間である。


 そんな中で、『長屋』にて集まったのは、白坊と次郎三郎たち。


 外に明かりが漏れないようにされた室内にて、白坊の顔がロウソクの光によって、ぼんやりと暗闇の中に浮かび上がっていた。



「──簡潔にまとめるなら、白坊様の読み通りかと」



 そう、答えたのは次郎三郎で……視線をチラリと横に向ければ、平凡な顔立ちをした男が……下げていた頭を上げた。



 その男の報告をまとめると、だ。



 以前より行っていた、『実らず三町で獲れる者を御上たちが不当に搾取し、それで贅沢三昧をしている』という、情報工作が少しずつ実を結び始めている。


 最初の頃は『御上のやることだから……』といった感じで受け止められていたが、次郎三郎たち扮する『御侍様』がちらほら目立つ行動を取れば、それも変わった。


 自分たちが修めた税で、贅沢三昧をしている……なるほど、良い気になる人間などいない。


 皆が苦しいのであればともかく、普段から偉そうにしているやつらが、白昼堂々そんなことをしていて……笑って受け流せる者など、そう多くもない。


 口では清貧がどうとか言っておきながら、自分たちはどうなんだ……そんな真偽不明の愚痴が、ちらほら上がるようになるのも当然の流れで。



「──御上への不満が、じわじわと広がりつつあるように思われます」



 そう、男は報告を締めくくった。



「お見事でございます。この次郎三郎、白坊様の策略に感服の至りでございます」



 それから、代表する形で次郎三郎が頭を下げ……続けて、その部下たちが一斉に頭を下げた。



「……あのさ、毎回このくだりっているの?」



 それを見て、ついに耐えかねてといった調子で尋ねた白坊だが。



「──はい、大切にございます」



 まっすぐに……それはもう、薄暗い中でも分かるぐらいにキラキラと輝いている眼差し(1人の例外もなく)を向けられた白坊は。



「そ、そうか」



 そうやって、言葉を濁すしかなかった……と、そうだった。



「……いちおう言っておくが、今回上手くいけたのは、元々下地が出来ていた事に加えて、向こうがこっちをナメて、かつ、俺たちに運が傾いてくれたおかげだからな」



 策士か何かだと思われては困る……そう思い、俺を過大評価するなよと釘を刺したわけだが。



「大丈夫でございます、委細承知でございまする……!」

「言っておくが、フリじゃないからな?」

「ご安心ください、全て分かっておりますので……!」

「……なら、いいんだけど」



 にっこりと、満面の笑みで答えた次郎三郎たちに……白坊は軽くため息を零した。



 ……実際、次郎三郎たちがどう思っているかは別として、白坊がやった事は、そう複雑なことではない。



 要は、様々な噂(主に、悪い噂)を流し、次郎三郎たちが町民等に扮して、噂の信憑性を高めた……ただ、それだけである。


 現代とは違い、この世界において人が得られる情報は多くない。


 そして、得られる情報が意図的に作られたフェイクである……と、頭から疑うなんて考えもほとんど無い。


 そう、『結局はただの噂』という考えは出来ても、その噂が『目的のために意図的に流された』という考えが無いのだ。



 ──だから、全く通じない事はないだろうと白坊は思っていた。



 もちろん、それだけで江戸の町民たちが騙されるかと言えば、そんなわけもない。


 しかし、江戸には……いや、江戸に限らず、この時代だからこそ出来る下地があった。



 それは、特権階級である、『武士(つまり、侍)』に対する恨みつらみだ。



 現代よりもはるかに貧富の差が激しく、餓死がそう珍しくはない……それゆえに、自分たちの懐に手を突っ込んで金を奪って行く御上への恨みは、現代人が思うよりはるかに大きい。


 ゆえに、効く。根も葉もない噂でも、恨みがそれに信憑性を与えてしまう。


 しかも幸運なことに、噂を流す少し前に、実際に『吉原』で豪遊した者がいた。


 『吉原』で働いている者たちも、誰が遊んでいるかなんて言わないから、あくまでも曖昧にしか情報は洩れない。



 でも、それが良いのだ。



 そういう曖昧さが、逆に信憑性を色濃くしてくれる。不明瞭であるからこそ、バレないように隠しているのだと思い込む。


 信じたい事を、信じたいように、信じるだけ。


 それは、生き物である以上は逃れられないことであり……ある程度の火種さえ作っておけば、後は勝手に燃え上がって行くのを待つだけである。



(まあ、向こうも気付いて火消しに回ると思うから、ちょくちょく薪はくべておかないと駄目だけどな……)



 ──物事が順調に進んでいる時こそ、気を引き締めなければならない。


 それを、これまでの人生にて幾度となく体感した白坊は……一つ、内心にて居住まいを正すと。



(さ~て……俺の居た世界では明智光秀の謀反だったけど、この世界だとどうなるか……何事もなく終わるか、それとも……)



 胸中より湧き起こる怒りを、そっと抑え込むのであった。


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