第4話: 風の噂?



『ノート』によって行われる『陣地』のクリエイトは、基本的に白坊が知る物理法則というやつを根本から覆すような現象を引き起こす。


 いや、陣地に限らず、そもそもそういった現象を引き起こしている道具やら建物やらが白坊にはあるわけだが……話を戻そう。


 とにかく、白坊は現存するポイントを使い、『ノート』にてクリエイトを行った。




 一つは、『井戸』だ。




 いちおう、今後の事を考えて有限に留めるつもりだが、『ノート』によって作り出された(生み出されたとも言う)『井戸』は、ヤバい。


 外観こそ、屋根が付いて滑車が付いて、この世界でも一般的に利用されている井戸とそこまで作りは変わらないが……ヤバいのは、その水質だ。



 信じ難いぐらいに、綺麗なのだ。



 誇張抜きで、現代の水道水に匹敵するぐらいに透明で、初めて『井戸』を使った次郎三郎たちが、その綺麗な水に目を見開いたぐらいだから……いかにヤバいかが想像出来るだろう。


 そう、意外と誤解されがちな話だが、井戸というのは常に綺麗な水が出るかと言えば、そんな事はない。


 あくまでも、真水が手に入らない時の方法であり手段であって、普通に泥水が混入することもあれば、地下水が枯渇したり水脈がズレてしまったりで、枯れてしまうことも珍しくはない。


 もちろん、そういった不純物が混入しないよう深い水脈を掘り出す、深井戸ふかいどなんてのもあるが、これは費用も手間も技術も必要と……話を戻そう。



 とりあえず、あとは、アレだ。


 実は、井戸ってけっこう維持管理の手間が掛かる。



 井戸さらいというのだが、そこまではいかなくとも、覗いた時にゴミが落ちていたら回収する必要がある。


 どうしてかって、不純物は井戸にとって大敵で……しかし、この『井戸』には、一般的な井戸には付き物の不純物が一切無い。


 『陣地』と同じく、『井戸』そのものに不可視のバリアが張られている(雨水を弾いているのが目撃された)のか、外部から風やら何やらが混入しないのだ。


 しかも、それでいて『井戸』はいくら使用しても水位が変化しないのだ。


 深井戸でも、使えば使った分だけ水位は減る。もちろん、水脈が通っていれば徐々に水が湧き出て来るが、この『井戸』は湧き出てくる以前の問題なのだ。



 そして、極めつけは……『井戸』の水は美味いのだ。



 白坊の基準では『え、そうかな?』といった感じだが、話を聞いた次郎三郎もそうだが、こそっとミエたちからも同じ意見をされた。


 そう、現代社会の洗練された水道水に慣れきっている白坊は気付いていなかったが、『井戸』の水は美味いのだ。


 いや、『井戸』だけではなく、実は『じたく』の水瓶の水も同じくらいに美味い。それでいて、夏場なのに、まるで冬を思わせるかのように程よく冷たいのだ。


 例えるなら、カルキ臭を始めとした薬剤臭さが全くない、冷蔵庫で程よく冷やされたミネラルウォーター……だろうか。


 というか、気付いていないだけでミネラルが含まれているのかもしれない。実際、『井戸』の水を飲み始めた次郎三郎たちは、目に見えて元気になり始めたから。




 二つ目は、『畑』だ。




 これは、白坊の『じたく』にある『はたけ』ではない。クリエイト機能によって『長屋』の裏に新たに設置(増設、が正しいのだろうか?)されたモノである。


 この『畑』とは、その名の通り、江戸どころか日本の至る所で見られる、あの畑だ。


 鍬やら何やらで耕して種を飢え、雑草等を積み取って作物を育て、収穫する……だが、クリエイト機能で作られた畑は、他の畑とは違う点が幾つかある。



 まず、作物の成長が極めて速い。



 さすがに、『はたけ』よりも速度は劣るが、植えてから食用可能になるまでが速過ぎて、次郎三郎たちがしばし現実を受け入れられなかったぐらいだ。



 あと、質に関しても相当に良い。



 例えるなら、『はたけ』で取れる作物は現代社会で言えば高級品、畑で取れるのはスーパーで売られている特売品といった感じだろうか。


 もちろん、特売品だろうが舐めてはいけない。


 現代社会の基準が、呆れる程に厳し過ぎるだけなのだ。仮に、その特売品をこの世界の基準で売りに出すなら……どこで作られているのかと評判になるレベルである。



 おかげで、最初は面食らうばかりだった者たちも、いざ収穫した作物を食べた時。



 あまりの美味さに真顔になり、しばらく夢中で箸を動かし続けたと言えば、如何に美味だったかが想像出来るだろう。


 ちなみに、次郎三郎たち曰く、『長屋に置いてあった米は食べ慣れた米だった』らしい。


 ……この頃になると、作物の質の良さとは別に、『おまえら以前は何を食べていたんだ?』という疑問が白坊の脳裏を過ったが……まあいい。




 三つ目は、『釣り堀』だ。




 この『釣り堀』の外観は、直径30m前後の巨大な池。


 水脈に一切関係なく『ノート』にてクリエイトする事が可能であり、設置すると穴が形成され、水が溜まり……そこに様々な魚が出現する。



 ……そう、出現するのだ。何処にも繋がっていないはずなのに、何処からともなく魚が。



 なんでそんなものを作ったのかって、たんぱく質の確保の他に、単純に白坊が魚を食べたかったからだ。


 現状、下手に『陣地』の外に出る(次郎三郎たちも同様に危ない)のは危険だ。なので、クリエイトでしか手に入れる手段はなく、魚に飢えた白坊が設置したわけである。


 しかも……この『釣り堀』に出現する魚は、海水・淡水・深海、獲れる時期の区別がない。


 『『釣り堀』は釣竿以外では絶対に魚が取れない』という謎の制限が課せられている(まあ、それは他のもそうだが)が、これもまあ驚異的だ。


 なにせ、本来であれば特定の時期(いや、本来は何でもそうなのだが)にしか食べられないはずの魚が、この『釣り堀』には出現するのだ。



 しかも、どの魚も例外なく脂がノリノリだ。



 冬の時期にしかお目に掛かれない魚が、蒸し暑い夏の時期に、まるで旬の時期からタイムスリップしてきたかのように出現するのだ。


 これがまあ、本当に美味い。


 特に、寒ブリを食べたミエたちは感動でしばらく笑顔が収まらず、次郎三郎たちに至っては感涙してしばし嗚咽を止められなかったぐらい……で、だ。




 ──この頃になると、江戸ではけっこう『実らず三町』の事が話題になっていた。




 どうしてかって、そりゃあ白坊が一切隠すことを止めたからだ。今まで隠していたつもりなのかと問われたら視線を逸らすところだが、とにかく隠すつもりはあった。


 しかし、それを止めた。結果、どうなるか? 



 答えは、見物人が現れ始めた、である。



 まあ、そりゃあそうだろう。


 それまで立地的には申し分ないが、手付かずのまま放置されていた場所に、いきなり家が建って長屋が出来て、井戸が出来て池まで出来ているのだ。


 娯楽なんて『飲む・打つ・買う』の三つぐらいしか無いこの時代で、そんな奇天烈仰天な事が起これば、見物人の一人や二人が出て来るのも当然である。


 ちなみに、『飲む・打つ・買う』とは、大酒等を飲み、博打等を打ち、女等を買うという意味合いの言葉で、喧嘩っ早い江戸っ子たちには大そう馴染んだ言葉だとか……で。



 そんな町民たちにとって、柵の向こうにある『実らず三町』というのは……実に心惹かれる光景であった。



 なにせ、魚が獲れる。それこそ、町民たちの懐事情ではまず手に届かない魚が、なぜか池から獲れているのが見える。


 そのうえ、他所へ行かねば(加えて、大金も時期もそうだ)手に入らない果物やら食材やらが、どういうわけか自生(?)しているのも見える。


 井戸もあるし、長屋まで出来ているうえに、見慣れぬ者たちまで住んでいる。おまけに、どういうわけか、御侍様方が昼夜問わず立って監視しているときた。


 そりゃあ、大なり小なり興味を覚えて見物する者が現れるのも、当たり前の話であった。


 しかも……これまたどういうわけか、町民が『実らず三町』に近寄ろうとすると、御侍様が通せんぼして近寄らせようとしないのだ。


 不思議だ。そんなこと、これまで一度としてなかったからだ。


 あんまり不思議だから、『いったいどうしてなんだい?』と尋ねたのも1人や2人ではなく、子供たちの集団がドタドタッと押し掛けたこともあった。



『──何も答えられん! ほれ、散れ散れ!』



 だが……またまたまた不思議な事に、御侍様は何一つ質問に答えず、それどころか『実らず三町』に近寄ろうとする者を片っ端から追い返したのだ。


 これには、町民たちも表に出すことはなかったが、内心ではかなり苛立ち、仲間内にて侍への文句が一つ二つ三つと出てしまうが……仕方がないことだろう。



 だって、羨ましいから。



 遠目にも、中に居る者たちが良い物食べているのが分かるのだ。


 美味い、美味い、美味い、と、声が柵の外にまで聞こえてくる。


 それこそ、俺たち町民の間では逆立ちしたって食えないような物を、旬の時期でもないのにタップリ食べて……と、なれば。



 ──売ってくれないか、と。



 自分が食べる為か、あるいは転売する為かは不明だが、打診しに行く者が出て来るわけで……しかし、それを邪魔されるわけだ。



 誰にって、御侍様に。



 理由を聞こうにも、御侍様は一向に答えてくれない。かといって、柵の中に居る者たちに話しかけようにも、その御侍様が邪魔をする。


 おまけに、どういうわけか『実らず三町』に入れない。


 噂では、『稀人』の神通力によって入る事が出来ないらしいが……それで、『はいそうですか』と納得して引き下がれるかといえば、そんなわけもない。


 食への欲求の強さは、どの世界に行っても変わらないのだろう。


 どうにか、中に居る者たちと話が出来ないか……そう、企む者が1人2人と現れるのも時間の問題でしかなかった。


 もちろん、企んだからといって、そう易々と上手くいくかと言えば、そんなわけもない。


 さすがに侍側も、愚鈍ではない。しかし、侍たちとて暇ではないし、昼夜問わずやってくる町民たちを隙間なく監視できるわけもなく。


 それゆえに、日も落ちてしばらく経った頃。


 幾度目かによる挑戦の末に、ようやく監視網の隙間を突く形で柵の傍へと近寄れた町民が……まるで、向こうもタイミングを見計らっていたかのように。



「──もし、そこの御方。夜分遅く、いったいどうしたんだい?」



 声を潜めて話しかけてきた、柵の内側の人。周囲に明かりが漏れないよう、身を屈めて光を隠していた。


 なので、顔は暗いので見えなかったが、苦労が報われるかもと町民が頬を緩めてしまうのも仕方がないことであった。



 ……。



 ……。



 …………だが、しかし。



 頬を緩めた町民が、そのままホクホク顔で帰路に付いたかと言えば……そういうことにはならなかった。



 いったい、どうして? 



 答えは、翌日の昼間。


 傍目にも苛立っているのが丸分かりなぐらいに不機嫌なその町民は、行き付けの店に入ってすぐに酒を頼むと、それをグイッと飲み干し……深々とため息を吐いた。



「おー、やっぱりここにいた……本当に、いったいどうしたんだい? 朝からずーっと機嫌が悪いじゃないか」



 すると、少し遅れる形で店に入って来た男たち。その中で、一番年配の男が、その町民の顔を見るなり話しかけてくる。


 男たちは、機嫌を悪くしている町民の友人であり、同じ職場で働く……大工職人であった。



「……それがよう、聞いてくれよオヤッさん」



 おそらく、当人にとっても、何処かで誰かに愚痴りたいと思っていたのだろう。


 苦笑しつつも興味津々といった様子の男たちを尻目に、その町民は……ポツポツと語り始めた。



「実は昨日、夜中の内に『実らず三町』に向かったんだが……っと、『実らず三町』ってのはだな」

「はー、あの噂の? お前さんも物好きなやつだな」

「──その言い回しだと、知っているのかい、オヤッさん」

「まあ、噂程度にはな……で?」

「運良く、俺は御侍様の目を逃れ、『実らず三町』にいる『稀人』らしい人に会えたんだ」

「へえ、実在していたんだな」

「そこでよう、俺は頼んだんだよ。『実らず三町』で獲れるっていう、美味ってやつを売ってくれってよう……」



 美味……その二文字に、男たちは一様にごくりと唾を呑み込んだ。


 『実らず三町』の噂は色々あるが、その中でも最近特に広がってきているのは、そこで獲れる様々な食材に関してである。



 ──魚もそうだが、野菜も果物も一級品。一度食せば、鬼すら笑顔になる。



 そんな言葉が囁かれるほどで……実際、覗きに行った者たちが、『あんなに丸々と肥えた魚を……』と腹を鳴らしたのだが、誰も町民を疑いはしなかった。



「その顔だと、売って貰えなかったのかい?」



 だからこそ、傍目にも分かるぐらいに不機嫌になっているのを見て、オヤッさんと呼ばれた男はそう尋ねた。



「ああ、そうだ──でも、話はそこじゃねえ。ひでぇのは、そいつから、御侍様が売っては駄目だと、だから無理なんだって言われたことなんだ」

「ええ? そりゃあいったい、どういうことなんだい?」



 侍が関わっている……その話に、目を瞬かせる男たちを尻目に、「どういう事もなにも、独り占めだよ」その町民は赤らんだ顔で吐き捨てるように言い切った。



「御侍様は、どうやら『実らず三町』で獲れる諸々を独り占めしてぇらしいんだ。だから、俺たち下々にゃあ魚一匹獲らせねえって話なんだ」

「ええ……そいつはひでぇな。けどよ、所詮は魚だろ?」



 首を傾げるオヤッさんに、町民のそいつは静かに首を横に振った。



「オヤッさんは、実際に食っていないからそんな事を言えるんだ。俺みたいに、難癖付けられて取られてみろ……腹の虫がおさまらなくなるぜ」

「難癖って……あ? もしかして、なにか取られちまったのか?」

「……そいつが太っ腹な男でよ、せっかくだからって、脂の乗ったブリの握りを少し譲って貰えたんだ」

「ブリを!? ひゃ~、そいつは太っ腹だな」

「だろう? でもよ、この時期にそんなの食えるのかって喜んでいたら、そいつが急に『御侍様が来ています、逃げないと殺されます!』って言うもんだから、もう必死に逃げてよう」

「なんだ、結局は食えず仕舞いか?」

「一口食ったところで落としちまったんだよ。拾いたくても、後ろから『待て!』って声を掛けられたもんだから……あ~あ、あんなに美味い握りを落としちまうなんてよう! 俺ってばよう!」



 その言葉と共に、注いでもらった酒をグイッと胃に流し込む町民(つまり、同僚)を見て……さもありなんと苦笑した。



 ……実際のところ、食い物の恨みは恐ろしい。



 さすがに殺し合いにまで発展するのは(状況にもよるけど)稀だが、殴り合いなんてのはけっこうある。


 とある料理をこよなく愛し続けた将軍もいれば、とある大名が部下たちにも食べさせたい一心で隣の藩に注文したという逸話もある。


 世界にも似たような話はあるが、日本は特にそういった話が多く……当然ながら、その下に居る民草たちもまた、同様に食には関心があるわけで。



「しかもよ、そいつの話じゃ、御侍様も相当にケチらしくてな。自分たち以外に売るのは御法度ごはっと(禁止の意味)にするくせに、相場の半額ぐらいの値段で献上させるらしいんだ」

「……そりゃあ、ケチな話だな」



 食べ物に関してのみならず、金銭的な意味でもスジを通さないその内容に、オヤッさん含めた男たちは一様に顔をしかめた。



 いや、違う。



 その話を盗み聞きしていた他の者たちも同様に顔をしかめた。どうしてかって、それは……江戸っ子民は、そういうケチな話は嫌いだからだ。


 火事と喧嘩は江戸の華と揶揄されるぐらいに手が速いと言われている江戸の町民たちだが、そんな彼らの特徴を表す事柄が、もう一つある。



 それは、ケチかどうかということだ。



 何かを成す為に金を溜める、それはいい。金払いがよろしくない、それもまあ……良くは見られないが、まだいい。


 しかし、金が有るのに払うべき時に払わず、払わなければならない時に払わず、金が無いのに態度や要求や報酬ばかりは一丁前な者は、滅茶苦茶嫌われる。


 特に、身分が高い者ほど、そういう目で見られる。気位ばかり高くて金払いが悪い貧乏旗本が嫌われたのも、それが理由だ。


 そして、江戸において最も身分が高いのは侍(つまりは、武士)だ。


 その侍が、切った張ったの話ではなく、よりにもよって庶民の魚代をケチっているなんて話になれば……自然と、視線が冷たくなるもの致し方ないことであった。



「──なるほど、合点がいった」



 しかも、だ。



「道理で、ここしばらく『吉原』で金払いの良い侍が増えたって話題が出ているわけだ」



 そう、話に入り込んできたのは、店内にて盗み聞きしていた年若い二人の男。


 見慣れぬ顔に、オヤッさんたちは首を傾げ……だが、直後に、客の一人が「あ、それ俺も聞いたぞ」ポツリと口に出したことで、疑問も消えた。



「なんか最近、急に金払いが良くなったってらしいよな」

「あ? お前もそう思うのか?」

「そらあそうよ。急に羽振りが良くなったから、給料増えたのかって話がさ」

「おー、そうそう、俺もそれ聞いた。この前、何時もより早くツケが支払われたって婆さんが話していたぞ」

「おまえのところも? 俺の知り合いの兄ちゃんも、急に御侍様から大口の仕事が入ったって話していたぞ」

「ええ、お前のところもかい?」



 すると、出るわ、出るわ、出るわ。


 まるで、申し合わせたかのように、店内にいた客たちの口から、ここ最近の御侍様の羽振りの良さに付いての話題が出て来る。


 これには、今しがたまで機嫌を悪くしていた男も、オヤッさんたちも面食らい、不思議そうに顔を見合わせ……すると。



「……そういえば、近所の団子屋の婆さんもそんな事言っていたな」

「えっ!? そうなのか!?」

「ああ、刀を持った見慣れない侍さんが、団子をいきなり20本も注文したって……珍しい事もあるもんだって、驚いたって」



 それがキッカケで思い出したのか、オヤッさんと一緒に来た男の一人までもが、そんな事を言い始めた


 そうなればもう、誰も疑わない。店内にいる誰もが、『不当に得た利益を懐に納めている』と思い始める。



「……な~にが御侍様だ。ケチ臭く魚代値切った金で、『吉原』通いってか? いいな~……俺も『吉原』通いたいぜ」



 そうなれば、一旦は落ち着いた男も、またムカムカし始めるのも当然で。



「馬鹿たれ、お前が吉原通ったところで、フラれて終わるだけだろ」

「そりゃあねえぜ、オヤッさん」

「ははは、まあ、今日は一本奢ってやるから……明日から元気出せよ」

「おっ! そりゃあ、ありがてぇぜ!」

「おまえさん、腕は確かなんだからよ、何時までも腐っているんじゃねえぞ!」

「へい! ありがたくいただきやす!」



 そんな感じで、パッと金払いよく奢る上司、不満もササッと流して呑み込む部下、それが、江戸っ子民の粋な考え方なのであって。



 ……。



 ……。



 …………だからこそ。





『──実らず三町に温泉が出たらしいんだけど、御侍様以外入るのは駄目なんだってよ』





 という噂が、ちらほら囁かれ始めた時。



『御侍様って……』



 少しずつだが、畏怖とは別に侮蔑の色が町民たちの目に混じり始めている事に……侍のみならず、当の町民たちも……気付いてはいなかった。






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