第11話: 虎穴に入らずんば虎子を得ず
「貴方様」
「は、はい」
「女は、腰と尻です。それは、ご理解しておりますね?」
「も、もちろん……」
「では、どうして千歳さんのお胸をジロジロと見ているのですか?」
「いや、アレは仕方ないというか……俺にとってはミエが一番だからな? それだけは覚えておいてくれよな、頼むよ」
「……存じております」
──とまあ、そんな感じでミエの機嫌がよろしくない日々が……あの日より20日ほど続いていた。
そう、千歳を介抱してから、早20日。
予感はしていたのだが、その予感は嫌なぐらいに的中し……あれから、千歳は『西』に姿を見せるようになった。
いや、正確には白坊に会いに来ているというのが……客観的に見ても、他の者たちの話から考えても、明確であった。
だって、千歳は白坊が来ない日には一度として姿を見せない。そして、他の店を一切利用せず、何時もまっすぐ白坊の店へとやってくる。
そのまま商品を一つ二つ手に取って購入すると、何が楽しいのか……ニコニコと晴れやかな笑顔と共に、見つめてくるのだ。
これで、意識するなというのが無茶な話だ。
追っ払うにしても、ちゃんと商品は買ってくれる。店の前から動かないのであればやりようはあるが、微妙に離れたところから見つめて来るのだ。
しかも、いつの間にか役所より許可を貰って来たようで、ムシロに商品を並べて……いちおうは、商人としての体裁まで整えてしまっている。
おかげで、強引に追い払う事も出来ない。
これが曲者で、位置的にも、たまたまそちらに視線を向けていると白坊の店がある……といった感じなので、余計に何も言えない。
周囲で店を構えている者たちだって、何も言えない。というより、下手に口出ししたくない……といったところか。
人の恋路を邪魔するやつは何とやら……というやつだ。
古今東西、誰かの色恋沙汰に巻き込まれて得をした者など、ほとんどいない。誰が好き好んで、当て馬に成りたいと望むのか。
余計な事に首を突っ込まず、一歩離れて高みの見物に徹するのが一番楽しいわけで……周囲が遠巻きにするだけで終始するのも、当然の帰結であった。
……と、なれば、白坊とミエが使える手段なんぞ、そう多くはない。
少なくとも、現時点で千歳は何一つ法を犯していない。だから、役所などに申し出て追い払うことは出来ない。
かといって、早々に店を閉めて『じたく』に戻ろうにも……そうすると、千歳もまた店を閉めて、こっそり追いかけてくるのだ。
これがまたまた曲者で、こちら側から反応すると、すぐさま身を隠しまう……そうかと思えば、いつの間にかまた姿を見せている
もう、完全にストーカーだ。
事実として、白坊とミエが『実らず三町』に居を構え、そこで暮らしていることも知られている。おそらく、日常的に外の柵の向こうから『じたく』を眺めているのだろう。
……千歳が男だったら、本気でぶん殴っているところである。
いちおう、『あんたには売らない』し『近寄るな!』という最終手段を用いて力づくで遠ざける事も、可能と言えば可能だが……それは迂闊にすることはできない。
それをすると、事情を知らない馬鹿で無知なやつが、無意味かつ下心満載な正義感を発揮して鼻息荒く突撃してくるからだ。
特に、そうする事で千歳のような美人の気を引きたい男が……それを、白坊は現代社会にて身に染みていた。
ミエも、それをするのは悪手であると首を横に振った。
憂さ晴らしの理由にされては堪らない……という、何とも明け透けな理由も打ち明けられた。
……と、なれば、だ。
白坊とミエは、ただただ我慢するしかない。
幸いにも……見つめてくること事態が、ある種の嫌がらせではあるが、直接的な嫌がらせは一度としてされていない。
──だが、ストレスが溜まる。
商品はぼちぼち売れてくれているから、そっち方面は大丈夫だけれども……兎にも角にも、鬱陶しくて堪らない。
それに、白坊としては……用途が分からずに放置されている、『実らず三町』にて新たに起こった『陣地』のアレもある。
結局、千歳のストーカーが原因で……今もなお、アレをどうすれば良いのかが分からないままだ。
だから、そろそろ使い方を調べたいところなのだが……ここで、問題なのが千歳の存在だ。
なにせ、何処まで千歳が覗いているか分からない。実際、『はたけ』にて作業している時、柵の向こうより眺めているのを白坊は何度か目撃している。
おそらく、広がった『陣地』の影響から、近づくことが出来ないのだろう……が、問題はそこではない。
見える見えないに関係なく、『見られている』し『観察されている』という状況が、堪らなく不快だし、危険なのだ。
隠せるモノではないと分かっていても、どうしても邪魔をされているという感覚が否めない。
おかげで、只々ストレスが溜まる。
やろうと思っている事が出来ない状態が続くのは、雪が降り積もってゆくのと同じ事。
そして、降り積もった雪はやがて自らの重みに耐えきれなくなり……ついに、夏のピークに達した、ある日のこと。
「これ、くださいな」
何時ものように、商品を買いに来た千歳。
何時ものように、また来ているよと遠巻きにする周囲。
何時ものように、不機嫌そうに顔をしかめているミエ。
「……千歳さん」
「はい、なんでし──っ」
そんな、何時ものと同じ光景の中で……白坊は、おもむろに振り上げた掌で──ばちん、と千歳の頬を張ったのであった。
……。
……。
…………周囲の誰もが、呆気に取られていた。
苛立ちを隠しきれていないミエも、遠巻きに見ていた周囲の者たちも、頬を叩かれた千歳も……呆然とした様子で、白坊を見つめていた。
そうして、この場の視線を一身に集める結果となった白坊は、大きく息を吸って……吐いて、一息入れると。
「いいかげんにしろ! 人様の後ろをコソコソと! お前も大人の女であれば、わきまえろ!」
力いっぱい……『西』全部に届く程の怒声を、思いっきり千歳へと叩きつけたのであった。
──問答は、一切応じるつもりなどなかった。
──同様に、知らなかったと言わせなかった。
千歳は、白坊とミエが夫婦だということを知っている。既に口頭にて伝えているし、付きまとうのは迷惑であり不快だと伝えてもいる。
でも、その度に千歳は涙を流し、申し訳なさそうに頭を下げるので……その場は許してしまい、また、注意された事など無かったかのように繰り返す。
結局、今に至るまで……ズルズルと引きずってしまった。
はっきり言って、これはよろしくないと白坊は以前より感じていた。
だって、千歳は白坊には妻が居ると分かっていて近づいて来るし、ミエが不機嫌になっているのを理解している。
相手が妙齢の女であるし、客でもあるのでミエもそこまで邪険に出来ず……それすらも、理解したうえで止めないのだ。
──さすがに、そろそろ一線を越えかけているな……と、白坊は判断した。
だから、白坊は千歳の頬を張った。
並べられる見え透いた言い訳なんぞ、端から聞くつもりもない。知らないわけがないし、気付いていないわけがないからだ。
言葉で言っても理解しない相手に、白坊はこれ以上労力を割くつもりはない。相手が女であろうが、関係ない。
だから、呆然としている千歳を本気で怒鳴りつけた。それ自体、白坊は全く後悔しなかった。
とはいえ……以前にも危惧していたように、正義感とやらを滾らせた男が2,3人ほど口を挟もうとしたので、構わず白坊は怒鳴った。
『文句があるならお前らが引き取れ! その覚悟が無いならしゃしゃり出て来るな!』と。
その迫力や、意気揚々と鼻息荒く突っ込んできた男たちが、揃って足を止めたほどで……まあ、無理もない。
『火事と喧嘩は江戸の花』という言葉があるぐらいに気が短く、手も早いと言われていた江戸の男たちとて、殺し合いを好んでいるわけではない。
言うなれば、環境的にもうっ憤を晴らせる場所が少ないから、結果的に気が短く手が早いというわけ。
当然ながら、その喧嘩相手は一般人……間違っても、人殺し常套なヤクザと命の取り合いをしたいわけではないのだ。
対して、白坊はその成り立ちこそ江戸よりもはるかに安全で気を緩めて生活出来る現代社会……では、あるけれども。
いきなりこの世界に来たことで餓死を強烈に想像させ、『敵ボス』の接近により絶対的な死を実感した直後に、雪崩に巻き込まれて命辛々の奇跡の生還を果たして。
己よりも100kg以上の巨体である『赤毛熊』と戦い、紆余曲折を経て奥さんを貰い、しばらく後に、仕方なく人を切り殺した。
何と言えばいいのか、経験が違う。一線を踏み越えた者と、そうでない者の違いが……そこに、現れていた。
『……そりゃあ、そうだよな。さすがに、これは頬を叩かれても仕方ないよな』
そして、そうなってしまえば……周りが、白坊の意見に同調するのもまた、必然だったのかもしれない。
特に、白坊の怒りも仕方がないと頷いてくれたのは、女連中であった。
なにせ、実際にしつこ過ぎた。
傍目にも迷惑に思っているのが分かるぐらいなのに、何時までも何時までも引っ付いて……自分の身に置き換えれば、白坊の言い分はもっともだ。
客観的に見て、千歳がやっているのは間違いなく横恋慕(よこれんぼ)だ。しかも、隙あらば奪い取ろうとしているのがバレバレな横恋慕だ。
恋にルールは無いとはいえ、夫婦の相方に手を伸ばすのはよろしくない……それが、江戸の常識だ。
相手が客だからこそ我慢しているが、これで客じゃなかったら張り手の一つや二つはされても不思議ではない。男だったら、下手すると殴り合いだ。
……暇潰しがてら静観していた周りの者たちが言える話でもない。
けれども、ミエよりこれまで表に出ていなかった話を改めて知らされれば、誰も彼もが『そりゃあ千歳さんが悪い』と判断するぐらいには、良心的であった。
……。
……。
…………だが、しかし。
「……あ」
これで少しは懲りただろうと誰もが思いながら、そんな、周囲の視線を一身に浴びて。
叩かれた頬をそのままに、一通り白坊より文句を叩きつけられた当人……千歳は、しばしの間、ぽかんと呆けた後で。
「旦那様……!」
それはそれは……もう、それはそれは、熟れたリンゴよりも赤く頬を染めて……ウットリと、蕩けた瞳を白坊へ向けたのであった。
「…………」
これは、予想外。直前まで怒りを露わにしていた白坊すらも、真顔になった。
「…………」
そして、それは傍で胸をスカッとさせていたミエもまた、真顔にさせて。
『…………』
周りで様子を伺っていた者たちもまた、困惑を通り越して真顔になり。
『…………』
唯一、女に味方しようとしていた数人の男たちもまた、目の前の光景が信じられず真顔になった。
……。
……。
…………自然と、一か所に向けられていた周囲の視線が中心より避けられ……互いの顔色を見回す形になってゆく。
──おい、どうするよ?
奇しくも、言葉を交わさずとも全員が同じことを思った。
──どうするって、お前がどうにかしろよ。
──嫌だよ、こんな危ない女、触りたくねえよ。
そして、誰しもが無言のままに首を横に振る中で……代表する形で、自然と……白坊へと視線が集まった。
(……俺だって嫌だよ)
当たり前だが、白坊とて嫌である。
というか、いくら何でもこんな展開を誰が予想出来ようか。蓋を開けたらニトログリセリン級の初見殺しである。
出来うるならば、このまま蓋を閉じて見なかった事にしたいが……残念な話だが、もう手遅れだ。
深淵を覗いた事で、深淵からも覗かれてしまった。
こうなれば、出来うる限り穏便に御帰り願う他あるまい。
……。
……。
…………と、とりあえずは、だ。
「……この際だから、はっきり言おう。何を狙っているかは知らんが、お前が打算で俺に近付いてきているのは分かっている」
「……っ」
「最初、俺たちの前で倒れたのだって……いや、断言は出来ないけど、もしかしたら狙って倒れたんだろう? 俺は、その可能性を疑っている」
「……っ、……っ」
「だから、お前がどれだけ俺に色仕掛けを仕掛けてこようが、俺がお前に靡く事はない。見え透いた罠を仕掛けられて引っ掛かるほど、今の俺は飢えてもいない」
「……っ、……っ、……っ」
「少なくとも、お前が……まあ、色々やってきた女である事も俺は分かっている。だから、これ以上はお互いに時間の無駄だとは思わないか?」
「……っ、……っ、……っ、……っ」
「──なあ、頼むから、問い詰めるたびにビクンビクンとケイレンするのを止めてくれるか? 見ていて、正直怖いのだが……」
何とか、言葉で追い返そうとしたが……駄目。
いったい、何が千歳の琴線に触れてしまっているのか、全く分からない。
分かるのは、問い詰める言葉を強める度に、どんどん千歳の頬は赤く、興奮で息が荒くなっていくということだけ。
……これはアレか、マゾヒストというやつか?
そう思った白坊だが、言葉には出さない。
出した所で意味など通じないのは分かっていたし、概念を説明するのも面倒……というか、これはマゾヒストなのか?
というか、それ以前に……どう、この場を納めれば良いのだろうか?
素直に怒鳴りつけても興奮させるだけだし、この様子だと言葉での説得はまるで意味がなさそうだ。
かといって、手を出したところで効果も薄いだろう。何なら、痛みが一番……え、何これ、本当にどうしたらいいんだ?
追い払う事も出来ず、かといって、無視する事も出来ない。ある意味では、これまでで一番の難敵かも……と。
「──千歳! 何をやっておるか!」
そんな感じで、最終的には、その場に縛り付けて転がしておくかという物騒な考えが脳裏を過り始めた……そんな時。
「もう見てはおられん! いいかげんにせんか!」
市場全体に響かんばかりの怒声と共に、遠くより駆け寄ってきた1人の男。突然の事に、誰もが呆気に取られて……いや、違った。
「──ゲゲッ!」
おそらく、千歳の知り合いなのだろう。明らかに、千歳が見せた反応が、他人相手のソレではなかった。
そして、千歳にとっては頭の上がらない相手なのだろう。その証拠に、直前まで赤らんだ頬が、一気に青ざめていた。
「
「関係ないわけあるか、馬鹿者!」
──ごつん、と。
傍目にも『うわ、痛そう』と思ってしまうぐらいに強烈な拳骨が、千歳の脳天に振り下ろされた。
これにはさすがに、マゾの特性も発揮しないようで、「──っ!!??」頭を抑えて悶絶し……その横で、男は白坊に向かって深々と頭を下げた。
「突然の事に驚かせてしまい、申し訳ありません。某は、
「あ、いや、これはご丁寧に……」
男……いや、千歳より次郎三郎と呼ばれたその男を前にした白坊は……千歳と同じく、只者ではないとすぐに看破した。
理由としては、まず、『気配』が千歳と同様であったこと。
また、おおよそ50代かそこらに見えるが、衣服より見える首筋や手足の太さが常人とは違うこと。
風貌というか、雰囲気が……明らかに堅気のソレではなく、農民や商人には見えないこと。
そして、それらよりも何よりも……名前からして、只者ではないのが丸分かりであった。
──というか、次郎三郎って……こんな個性的な名前で、隠す気があるのだろうか。
そんな思いから、白坊は内心にて首を傾げ……いや、名前で判断するのは良くないなと白坊は自嘲し……さて、だ。
軽く背筋を伸ばし、改めて次郎三郎を見やる白坊。
対して、恐縮して何度も頭を下げ続けている次郎三郎(頭を摩って涙目の千歳を睨みつけて)は、そのままの姿勢で。
「本当に、千歳がご迷惑を掛けて申し訳ありません。遅咲きの恋をしたということは知っていたのですが、まさか横恋慕しているとは
と、いった感じで、傍目にも謝罪の意思を露わにしている……そんな彼に、だ。
「……次郎三郎さんは、お芝居はお好きですか?」
周囲の目も有るが故に……あえて、白坊は曖昧かつ遠回しに訪ねた。
「芝居、ですか?」
眼を瞬かせる次郎三郎。まあ、通じない可能性高いよな……そう、思っていたが。
「ええ、聞いてもいないのに、千歳さんはお芝居が好きだと訴えて来まして……もしや、親であるあなたの影響かな、と」
「……はあ、そう見えますかな?」
「子は、親に似ますから。良くも悪くも、ね」
そう言葉を続けた瞬間、次郎三郎の動きが止まった。次郎三郎だけでなく、千歳までもがピタリと動きを止めた。
声色も表情も、何もかも変わっていないが、白坊には分かった。やはり、この二人は堅気ではない。
「……実は、俺もお芝居が好きでね。あいにく、妻のミエは興味が薄いから、趣味の合う相手がいないかなと思っていたんだ」
「……ああ、なるほど。芝居なんぞと嫌がる男はおりますからな。しかし、奥様は芝居には興味が無い、と?」
背後にて首を傾げるミエを後ろ手で制止しながら……白坊は、はっきりと次郎三郎の目を見つめた。
「こういう形になるのも何ですが、千歳さんの事はもういいのです。娘を想って心配するのも、親としては当然のこと」
「そう言っていただけると、胸が軽くなります」
「……で、これもまた奇縁。代わりに諌めてくれましたし、せっかくの機会……ゆっくり、お話でもと思いまして……どうでしょうか?」
──瞬間、白坊には見えた。
瞬きのような僅かな一瞬、確かに……千歳と次郎三郎の視線が交差したのを。
……。
……。
…………沈黙の時間は、おおよそ3秒程。
傍から見れば、突然の提案に理解が追い付いていない……そんなふうに見えただろう。
「……そうですな、こんな形にはなりますが」
けれども、白坊と……気配が異なる、この二人に限っては。
「娘の事も改めて話したいですし、お呼ばれさせていただきます」
違う意味に、捉えていた。
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