第9話: 結局、地道にやるのが近道である



 ──とはいえ、何も悪い事ばかりではない。




 見通しが甘かったのは事実だ。


 はっきりと、言い訳のしようがない。だが、損害が出る前にそれが分かったという点は、間違いなく良い点だろう。


 金を掛ければ掛けるほどに惜しむ気持ちが生じて、立ち止まれず撤退出来ないままに傷を広げ続ける……いわゆる、コンコルド効果が生じる前で良かった。


 おかげで、気持ちの切り替えはすぐに終わった。


 まあ、痛手なんて天秤棒の金銭ぐらいで、その天秤棒とて無いと困る時はあっても、有って困る事はないから……で、だ。



 時刻は……昼を回り、日差しが強くなってきた頃。



 留守番(と、判断するかは微妙だが)をしていたサナエとモエと一緒に、白坊は……ミエが作った味噌粥と漬物で昼食を済ませていた。



「……弁当、か」



 サラサラッと食べ終えたサナエとモエが、開拓跡の様子を見に出て行ったのを見送った白坊は……そんな二人の姿に、思った事を無意識に呟いていた。


 白坊の脳裏を過るのは、現代で生きた昔の事。己がまだ子供時代、遠足などの特別な時に母が用意してくれた弁当だ。


 思い返してみれば、そこに特別なモノは何もなかった。


 小さい三角のオニギリに、プチトマトに、卵焼き。半分に切ったウインナーに、昨晩の残り物。あとは、端っこにたくあんが2枚。


 今でも、はっきり覚えている。


 パートをしていた母に、手の込んだ弁当を用意する時間も余裕も無かった。味付けもいつも通りで、目新しさなどは全くなかった。


 けれども、本当に美味しかった。今でも、アレ以上に美味しいお弁当は無いと断言出来る程に……そうして、呟いた瞬間……どうなんだろうか、と白坊は思った。


 というのも、だ。


 あまり江戸の町に詳しくない白坊でも気付いている事だが、江戸では弁当が売られていない。


 いや、気付いていないだけで探せばあるのかもしれないが、少なくとも、白坊はこれまで一度として見た覚えが無かった。



 だから、白坊はイケるのでは、と一瞬ばかり考えた。



 白坊としては、何もそれを一生の商売にするつもりはない。


 法律が制定されて浸透するまでの現代ですら、大ヒット商品の贋作なり模造品なりが次から次に作られていたのだ。


 仮に売れたとしても、すぐに模造品が広まって売れなくなるだろう。この時代、著作権なんて言葉は存在しないから、こちらが訴えたところで、首を傾げられて終わりだろう。



 その点で考えれば、白坊にはそのてのブランドが無い。



 売ろうとするならば、他所では真似できない違いを生み出す他ない。とはいえ、弁当における違いなんて中身……すなわち、料理だ。


 ……料理は、それこそ模倣されて当然の世界。ぶっちゃけ、違いなんてどうしろと言うのか……。



(『調味料』という能力が得られていたら、違ったんだけどなあ……)



 そう、米や味噌と同じく、『調味料』が手に入っていたのであれば、白坊レベルの料理の腕前でも決定的な違いが出せるからだ。


 特に、コンソメスープ。アレをキューブではなく1から個人で作るのは無理だ。


 素材が気軽に手に入る現代ですら、アレを自作するとなると相当な猛者になるというのに、その材料すらまともに手に入らない江戸時代では不可能である。



 それに……チラリ、と。



 白坊の視線が、出入り口の向こう……晴れ渡る青空より差し込み、温かく照らされている大地を捕らえる。



 ……現代に比べて、江戸の気温は高くない。だが、過ごし易い気温なのかと問われたら、そういうわけでもない。



 実際、江戸の人達にとっては『また蒸し暑い季節が来たのか』と憂鬱になるところらしく、先ほど町の方へ向かった際……誰も彼もが、暑そうにしていた。



 思い返せば、だ。



 ミエたち3姉妹は以前よりも薄着(正確には、生地が薄くなっている)になっているし、外に出た時は、ときおり蒸し暑そうに手で顔などを仰いでいる姿が……うん。


 コンクリートジャングルの熱気を知っている白坊にとっては、まだまだといった感じで、正直なところ大して暑くはない……と、思ってすらいる。


 というか、現代日本の夏が、諸々の事情が重なったことで暑すぎるだけなのだが……あ、いやいや、そうじゃない、重要なのは別だ。



 そんな気温の中、当然ながら気を付けなければならないのは……食中毒だ。



 防腐剤もそうだが、人工的な抗菌素材などない。いちおう、笹の葉やバランといった、古来より伝わる抗菌素材が有るには有るけれども……限度がある。


 医学の発達した現代とは違い、この世界(あるいは、時代か)では食中毒一つ取っても命取りになりかねない。


 故に、弁当を作るにしても……いや、弁当に限らず、冷蔵庫の無いこの時代で、生モノの加工品は……うん、やはり、アレだ。


 この季節では、中々に難しいのでは……そう、白坊は思った。



 ……と、なれば、だ。



 現在、白坊が使える(用意出来る)モノといえば……町で買える様々なモノ(例えば、鰹節)を始めとして、『鳥肉』に、『卵』に、『各種の野菜』、同じく『各種の果物』と『お米』……か。


 調味料は、『しょう油』と『塩』と、『味噌』に『お酢』。非常に高価ではあるが『みりん』に、高価であり貴重品である『砂糖』……あとは、『煎り酒』と呼ばれる調味料だ。



 ──『煎り酒』とは、酒と梅干と鰹節に塩を合わせた複合調味料である。



 史実においても、しょう油が安価に手に入るようになる前は、コレが主流であった。


 そして、白坊も町で何度か口にした事がある。個人的にはアッサリとした味わいで、これはこれで美味いぞと思ったモノだが……しかし、だ。



「煎り酒はしょう油よりも保存が利きませんし、味が薄いので今ではあまり人気はありません」

「え、そうなの? けっこう美味しいよ」

「私も好きではありますが、基本的に濃い味付けが好まれまして……父と母も、味付けに関してはしょう油を使っておりました」

「あ~……そっか、肉体労働が基本だものな。そりゃあ、濃い味付けを身体が求めるよなあ……」



 思いついたのでミエに訪ねてみれば、ミエは渋い顔で首を横に振った。



 そりゃあ、そうだ。特に、今の時期はよく汗を掻く。



 ミネラルウォーターなど無い、この世界。本能的に塩分……塩辛く、味付けの濃いモノが求められるのは、極々自然な話であった。


 縄張り争い勃発が確実な棒手振りは、現時点ではリスクが高い。少なくとも、パッと思いつく商品なら全て手を付けられていると思った方がいいだろう。


 かといって、隙間を縫うような商品を売ろうにも、江戸時代の技術力では実現が難しい。というか、それはそれで採算が取れなさそうだ。


 何せ、史実の江戸も、当時においては世界有数のエコ社会。


 売れる物は何でも売るし、使えるモノは何でも使い、駄目になった物も最後の最後まで使い切る。


 一枚の着物が、10段階ぐらい形を変えて、最終的には布おむつの切れ端になることだって、早々珍しい話ではないのだから。



 ……。


 ……。


 …………と、なれば、だ。



 色々考えたが、当初の案のとおりに地道に路上販売をするしかないようだ。


 それも、『稀人』としての能力をフルに活用し、多少なりトラブルになるのを覚悟したうえで……ほぼほぼ力技だが、他に選択肢がないのだから、やるしかない。



「まあ、無難かつ地道にコツコツやるのが一番の近道……かもね」

「そんなところだと思いますよ」



 そうと決まれば、白坊の行動は早かった。


 悩んだどころで事態が好転などしないし、動いている方が不安も紛れる。ミエも、性分的には身体を動かす方が合っているのだろう。


 むしろ、こちらの方が色々と考える事が減った分、先ほどよりも幾らか気楽そうだ。寝床部屋に置いてある風呂敷を持って来たミエは、売れそうな作物を取りに『はたけ』へと向かう。


 その、後ろ姿を見送った白坊は。



「……素人があれこれ考えたところで、所詮は素人か」



 ここではない世界の知識と経験はあっても、所詮は凡人の頭だ。天才的な発想など持ち合わせていない事を改めて理解した白坊は、ミエの後を追い掛けた。



 ……。


 ……。



 …………ちなみに、すっかり忘れ去られているかもしれない、『じたく』に置かれている道具。



 その名を、『ミニらっきー地蔵』。



 一定時間のインターバルを置く必要はあるが、祈ればアイテムを授けてくれる。極々稀ではあるが、非常に有益なアイテムが出現する、チート的なアレである。


 とはいえ、チートではあるけれども、チート的なアレであるのは確かなのだけれども、体感的には宝くじみたいな感覚が近しいのかもしれない。


 何せ、良いモノに当たる確率が滅茶苦茶低い。おまけに、『ミニらっきー地蔵』より得られるアイテムは、必ずしも利益になるモノではない。


 中には、『ハズレ』と呼ばれている、ゴミにしかならないようなアイテムが出現する事もある。というか、だいたいはソレだ。




 実際、今朝方祈って得られたアイテムは、『湿った小枝』であった。




 そう、小枝。長さは、30cmにも満たない。


 そして、湿っている。持つと、ほんのり掌が濡れるぐらいに。


 火に入れると煙が酷くて使えないうえに、湿っているせいで放って置くと腐って悪臭を放つという、文字通り使い道が無いハズレアイテムである。


 砕いて畑にばら撒いたりして肥料に出来るのかもしれないが、『はたけ』を持つ白坊にとっては、本当にハズレとしか言い様がないアイテムで。



 ──良い事もあれば、悪い事もある。



 そう、心の何処かで現状を受け入れながら、結局は地道にやった方が近道だという結論を出せたのも……もしかしたら、コレのおかげなのかもしれない。







 ……さて、ところ変わって場所は『じたく』から、『市場』へ。



 当時は『いち』とだけ呼ばれ、現在の言葉では『市場』と呼ばれている、その取引所には……実の所、そこまで細かい規定はない。


 主に猟師たちが獲った魚の残りを売る魚河岸うおがしとも魚市場、青果などを主に取引されている青果市場など、それら全部をひっくるめて『市場』と呼ばれている。



 つまり、江戸のルールには、御法度ごはっと(要は、禁止された物)ではない限り、何処で何を売ろうが、当人たちの勝手なのである。



 まあ、暗黙のルールがあるから、実際に好き勝手にやれば周囲よりボコボコにされてボロ雑巾のように放り出されるので、実際に好き勝手にしている者はいない。


 基本的に、そういうルールが作られるのは、作られるだけの理由が何かしらあるのだ。そして、逆らえば、追い出される。


 臭い等の関係もあるし、特に逆らう理由などなかった白坊とミエは……江戸の最も西側にある青果市場『西にし』へと向かった。



 どうして、『西』を選んだのかと言うと、理由は二つ。



 一つは、位置的にも条件的にも『じたく』の最寄りが、この市場だったから。車など無い時代、台車を一つ用意するのも大変で、出来る限り近い方が良いと判断したからだ。


 二つは、この『西』は他の市場に比べて……後ろ盾のない商人……つまりは駆け出しの商人が路上販売を行っても、早々問題にはならないぐらいに規則が緩かったからだ。



 とはいえ、市場ごとに規則が違うという話はない。あくまでも、暗黙の内に『ここなら、まあ……』といった感じの緩さが、『西』にはあった。



 実際、初めて『西』を訪れた白坊とミエは(ミエは話で聞いていただけ)他の市場にはない、なんとも長閑な空気に面食らった。


 屋根がある店も有るには有るのだが、大半は地べたにムシロを敷いただけの店が多く、そこに商品を並べている。


 置かれている商品は、まあ……採れたばかりの野菜や果物、他所より運んできた果物、変わり者だとおそらく何処かで抜いてきて移し替えたと思われる鉢植えの花なんかも置かれていた。



「……花?」

「アレは確か、虫除けですよ。独特な香りで、寝床の傍に置いておくと、羽虫が嫌がって逃げて行きます」

「なるほど、そういうのも売り物になるのか……」



 ──そんな感じで、ミエとお喋りをしつつ、外側から見た『西』の感想が、それで。



 有って無いような柵で囲われた『西』の門番……というより、当番と思わしき人に許可証を見せて、いよいよ中へ。


 その際、荷物検査などは無かった。白坊の腰に差した、刀を目にしても……何も言われなかった。


 これには正直、驚いたが……まあ、山賊や怪物(ゲーム内の雑魚敵)が当たり前のように跋扈する世界というか、時代だ。


 他所から来た者の中に、丸腰の者なんぞ、いるわけもない。


 自分の命は自分で守る、そういう考えが誰しもにある以上は、武器の持ち込みは許されている……ということなのだろう。



 ……さて、話を戻そう。



 他の市場とは違い、販売している者たちの雰囲気が江戸とは異なっている……ように見える。言っておくが、格好が違うというわけではない。


 おそらく、普段は江戸の外、あるいは他所の村で暮らしているからだろう。


 どうにも、何処となくのんびりした空気を醸し出している風貌の者たちを尻目に、白坊とミエは……何気なく目に留まったスペースに、ムシロを敷いた。


 『日本橋通り』なんかでやったら、まともに屋根も用意出来ない場違いな田舎者と馬鹿にされるところだが……ここは『西』だ。


 むしろ、新参者らしいといえば、らしいのだろう。


 見慣れぬ顔なので、最初は視線こそ不躾に向けられたが……誰もそれ以上のちょっかいは掛けてこなかった。



「……この野菜、本当に十二文なのかい?」



 というより、正確には、ちょっかいを掛ける以上の気になる事が……彼ら彼女らの気を引いたから。


 ちなみに、十二文とは、四文銭よんもんせんが三枚の事。つまり、一枚で四文、四文銭という名の硬貨が三枚、というわけだ。


 四文銭とは、史実における江戸時代の通貨の名前であり、現代価格で一枚が約100円。つまり、この場合は四文銭が三枚で、約300円である。



 ……で、だ。



 彼ら彼女らの……いや、この場に居る者たちの視線は、白坊たちの前に敷いたムシロの上……そこに並べられた、様々な商品へと向けられている。



「こんなに立派なのに、十二文なのかい? お前さんら、何処かで盗んできたわけじゃないだろうね?」



 そう声を掛けてきたのは、頭に頭巾を被った……三十路ぐらいの女だ。身なりや雰囲気から、他所よりやって来ている農民……といった感じか。


 そして、彼女がどうして声を掛けて来たのか……それは単に、白坊とミエが並べた商品が、『西』に置くには場違い過ぎる程に立派なモノばかりだったからだ。


 何せ、他の店が並べている同じ商品と見比べてみれば、違いは一目瞭然。大人と子供というぐらいに、大きさも艶も違う。


 農家の女だからこそ、その異常さが余計に分かってしまうのだろう。


 実際、彼女だけではない。門番(?)を呼ぶ者こそ居なかったが、大なり小なり、集まって来ている者たち全員が疑いの眼差しを二人に向けていた。



 ……まあ、それは仕方がないことだ。白坊もそうだが、ミエは農家の娘ではないから、知らないのも無理はない。



 改めて言うのも何だが、『はたけ』で採れた野菜が全て、本来であれば御上に献上したり税として納めたりするぐらいに大きく質が良いということに、二人は気付いていない。


 そういうのは全て、佐野助たちがやっていたからだ。言い換えれば、二人にはそういった事に関する常識というものを欠いていた。


 白坊はもちろん、ミエですら、『悪目立ちするだろう』という程度の認識で考えていたのだから、これはもうどうしようもない。



 ──だから、まさか盗品であると疑われるとは、夢にも思っておらず。



「……ご心配に及ばず。全て、旦那様がご用意してくださった逸品にございます。神仏に誓って、やましい事は何もありません」



 それ故に、ミエが気分を害して……あからさまに不機嫌を露わにするのも、ある意味では年相応……仕方がないことであった。



「まあ、なんだいその言いぐさは!?」



 そして、それに対して怒りを露わにした女は……逆に不相応というか……ぶっちゃけ、大人げない態度であった。



「言いぐさも何も、いきなり盗人扱いされては気分も害するというもの。最初に失礼な物言いをしたのはそちらでございましょう」

「こんな場所で、そんな立派なモノを出せば、疑ってくださいと言っているようなものじゃないか!」



 ──皆も、そう思っているだろうさ! 



 そう、言葉を続けた女が、味方に引き込もうと周囲へ視線を見やる──が、そうなるよりも前に、ミエは「思うだけなら、私とて何も言いません!」機先を制するかのように声を張り上げた。



「確たる証拠も無く、疑うのを止めろと言っているわけではございません。ただ、口に出した以上は、それは侮辱となります。相応の態度を返されるのも必然でございましょう」

「──な、なんだい! 私が悪いってのかい!?」

「はい、そうです。皆様方がそう思っていたとしても、口には出しておりません。口に出していない以上は、何もしておりません。貴女の無礼に他の者たちを巻き込むのは、お止めなさい!」



 歳が倍近くは離れていると思われる、ミエと年増女のにらみ合い。


 突如始まったソレに、周りの者たちは思わず一歩引いた……が、女に加勢するような事はなかった。


 お互いの言い分を冷静に……というだけでなく、おそらく……ミエが、美人だからだろう。


 人間、美人が言うならそれが正しいと思う者は、一定数存在する。同じ言葉でも、美人が言うのと不細工が言うのとでは、真逆に受け取る者は少なくない。



 それに……だ。



 全員が心の何処かで女と同様に疑ってはいたのだが、年若いミエが、わざわざ心の逃げ道を作ってくれたのだ。


 それを足蹴にしてまで、年増の女に味方する者は……この場にはいなかった……いや、それだけではない。



 改めて、彼ら彼女らは冷静になり……想像する。



 すると、ミエの言い分は道理が通っているように思えてくる。というか、ミエの言い分は当然のモノだと誰もが考えた。


 実際、確たる証拠も無く自分の商品を盗品扱いされてしまえば、苛立って言葉が悪くなるのは当たり前だ。正しく、侮辱以外の何者でもないわけだ。


 というか……そもそも、小判などの金品を盗むならともかく、野菜泥棒というのは……如何なモノだろうか。



 だって、野菜だ。見たところ果物も見受けられるが、結局は食べ物である。



 果たして、盗みを働くほどの見返りを望めるのか。


 そりゃあ、食べ物は大事だ。飢えに耐えきれず、盗みを働こうとする者たちの気持ちは分かる。


 しかし、育てている人たちに見つかれば、文字通りの殺し合いだ。下手すれば、村人総出で殺しに来る場合もある。


 加えて、仮に盗み出せたとしても、時間を掛ければ掛けるほど食材も痛んでしまって売れなくなってしまう。



 ……落ち着いて考えてみれば、だ。



 かなり無理がある言いがかりなのではないか。もしくは、若い夫婦(?)に嫉妬でもしたのか……そう、周りの者たちは思った。



 ……そりゃあ、そう思ってしまうような要素が有る事は、当の二人も否定は出来ない。



 片や、服装こそ地味な町娘ではあるが、江戸でも名の知られた美少女。常日頃農作業に従事している女とは、明らかに雰囲気というか物腰が異なっている。


 片や、服装こそ……まあ、変ではない。だが、顔立ちが明らかに違う。ぼさっとした髪型は田舎者だが、下手すれば男をも狂わせてしまうかもしれないほどの、紅顔の美少年。



 怪しいと言えば怪しいし、怪しくないといえば、怪しくない。


 傍から見れば、白坊とミエは、そんな感じである。


 まあ、そもそも二人とも何もしていないし、現時点では客の呼び込みすらまともにしていなかったという……うん。



 ……で、その片方のミエなのだが。



 嫌みを言うだけに留めたミエの大人な対応に比べて、それを暗に指摘された女の子供っぽさが際立ってしまい……自然と、周りから向けられる冷たい眼差しは……っと。



「こ、このクソガキぃ!」



 旗色が悪いと理解したのか、それとも怒りで誤魔化そうとしたのか。


 それは第三者には分からない。分かるのは、顔を真っ赤にした女は、感情の赴くままに──ムシロに並べた商品を蹴ろうと足を上げた。



 ──あっ、と。



 誰もが、女がしようとしている事を理解した。


 けれども、誰も動けなかった。



 あまりに突然だし、作物を売る農民であれば、絶対にやってはいけない事だと教えられている事だから。


 そんな中、ミエは──反射的に庇おうと商品に覆い被さった。それは、当人ですら理解出来ない無意識の行動であった。


 故に、誰もが次に起こる光景を想像した。庇ったミエも、蹴ろうとしていた女も、周りの者たちも、同じ光景を同時に想像した。



 ──だが、そうはならなかった。



 そうなるよりも前に、ほぼほぼ空気になっていた白坊が──人知れず刀を抜いて、瞬時にその切っ先を女の眼前に突きつけていたからだ。


 それは、素人の目からすれば、神速にも等しい一瞬の出来事だっただろう。


 事実、誰もが刃の煌めきすら認識出来なかった。型こそ我流の滅茶苦茶だが、素人相手では十分……女からすれば、突然目の前に刀が現れたようなものだ。



 だから、どてん……と。



 強引な姿勢のまま仰け反って刀から顔を背けたせいで、女は不恰好に尻餅をついた。自然と、周りの視線は女と、静かに刀を納める白坊へと向けられた。


 ……突発的な怒りの発散は、これまた突発的な横入りであっさり流れてしまうモノだ。


 そうなればもう、場の空気は完全に白けて──。



「──ひ、ひぃ!?」



 ──お流れに……なるわけもなく、女は痛そうに足を引きずり(おそらく、痛めたのだろう)ながら、小走りにその場を離れて行った。



 ……。


 ……。


 …………どうして、女は逃げたのか。



 刃物を抜いた白坊を恐れたか……それとも、己が犯しそうになった過ちを恐れたか。


 いや、どれも違う。女が恐れたのは、周囲に居た……周りの者たちであった。



『──てめえ! 農家の女なのに作物を足蹴にしようとはなんてやつだ!!!』



 いわゆる、怒髪天を突く、というやつか。彼ら彼女らの顔に現れた感情を言葉にするなら、正しくそんな感じだろう。


 今にも囲まれてリンチを行いそうな周囲の雰囲気を感じ取り、そうなる前に逃げた……それが、逃走の理由であった。



 ……。


 ……。


 …………そうして、騒動を起こした張本人は何処かへ去り、残された者たちは、というと。



「……結局、何がしたかったのですか、あの人?」

「……さあ、分からん」



 身体を起こしたミエと、首を傾げる白坊の……二人の会話が、この場に居る全員の内心を代弁していた




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