第4話: 初めての訪問者



 ――死んだかと、後に彼はこの時の事を、そう振り返った。



 存外、彼はしぶといようで……いや、死んだらそこで話は終わるから……幸運な事に、彼は生きていた。



 生存の理由は、幸運、この二文字以外では言い表せられなかった。



 それも、一つや二つではない。彼自身が思い付きすらしない、様々な幸運が積み重なった結果……奇跡的にも、彼は黄泉へと渡る事はなかった。



 その幸運の、目に見える形で確認出来る一つ目。


 たまたま……そう、最初の幸運は、風呂敷が浮きの代わりを果たした事だろう。それが無かったから、確実に彼は死んでいた。


 二つ目の幸運は、意識を失った彼の指先が、それを手放さなかった事だ。手を放していたら最後、彼は雪の下だ。


 三つ目は、そのおかげで上に弾かれた事。角度も良かったのか、下にではなく、上に流されたのが良かった。


 四つ目は、最後まで行く前に彼の身体が雪崩の本流から逸れて、そのまま雪崩から逃れた事だ。


 加えて、逃れ先も良かった。まず、逃れた先は幸運にも新雪が多く、天然のクッションの役割を果たしていた。


 そのまま、一度は停止した彼だが……意識が戻らないうちに、するりとその新雪が崩れて動き……そのまま崖から川に落ちた。



 普通なら、そこで命を落とすところだろう――けれども、幸運はまだ続いていた。



 大量の雪が二度目のクッションになったことで怪我一つなく川に落ちたわけだが、そこに……折れた樹木の一部が流れて来たのだ。


 ……恐ろしさを覚えるほどに、全てが噛み合っていた。


 樹木は、彼を突き飛ばさなかった。いや、むしろ、そんな彼を守るかのように、音も無く沈み……掬い上げるようにして、彼を持ち上げたのである。


 そうなれば、後は川の流れに進むだけだ。


 川の広さと深さは、大木を横向きにしても十二分に余裕が有る。幸いにも、上流では晴天が続いていた事もあって流れは緩やか。


 結果、下りに下った後で、樹木がこつんと岸に乗り上げ、静止して……ようやく彼が意識を取り戻した頃にはもう……辺りは、夕暮れとなっていた。



 ……とはいえ、だ。



 いくら水に浸かっていなかったとはいえ、一度は水浸しになったのだ。おまけに、春に差し掛かっているとはいえ、身を切るような冷気が充満している。


 辛うじて凍傷には至っていなくとも、確実に低体温症には陥る。それに関しては彼も例外ではなく、彼の肌は蝋のように真っ白に凍えきっていた。


 かたかたかた、と。


 人の身体とはここまで激しく震えるのかと思うほどに、彼の全身がケイレンしている。なのに、その動きは心配になる程に遅かった。


 ……仮に彼が、見た目が良いだけの少年なら、そのままお陀仏だっただろう。


 しかし、彼はそうではない。幸運にも、彼には起死回生の手段があって、これまた幸運にも、家を置けるだけのスペースが少し歩いた先に有った。


 おかげで……彼は命拾いをした。


 身体が冷えているのなら、温めれば良い。辛うじて風呂敷を板の間に置いた彼は、着の身着のままに浴室へと向かい……どぼん、と湯船に飛び込んだのであった。





 上部に取り付けられた格子窓(まあ、ガラスは無いけど)のおかげで、湯気が一定以上は溜まらなくなっている、浴室内にて。



「……し、死ぬかと思った」


 ポツリ、と。



 そう零した彼の呟きには、それはそれは重苦しい実感がこもっていた。実際、体感的には死にかけていたのだから、その呟きはもっともである。


 ちなみに、ある程度身体が温まった時点で、彼は衣服を全て湯船の外に出している。傍に置かれた桶には、少しばかり泥で汚れた衣服が無造作に放り込まれている。


 当然、そんな状態で浸かっていた湯船も相応に汚れそうなものだが……不思議な事に、底まで湯が透き通っていた。



 これもまた、不可思議なこの浴室の機能の一つ。彼はこれを、『全自動浴槽洗浄機』と呼んでいる。



 中身は言葉通り。汗や垢を始めとして、小さな砂や少量の泥が規定量を超えると、湯船の内部に気泡や水流が発生する。これがまた、ジャグジーみたいで気持ち良い。


 次いで、浴槽内の汚れを一か所に集めると、浴槽内部より飛び出した水路より、ちょろちょろっと排水溝へダイレクトに捨てられるのである。


 普段は収納されているのか分からないが、コレが作動すると、にゅ~っと伸びるのだ。水道の蛇口みたいに伸びて、そこから汚れを捨てた後……にゅ~っと、元に戻る。


 考え出すと非常に怖いというか、使用して本当に大丈夫なのだろうかと思う気持ちは未だに無くなったわけではないが……全ては、お風呂の心地良さが悪いのである。



「……疲れた」



 さて、だ。彼は縁に背中を預けて……一つ息を吐いた。


 考えてみれば、今日は何も口にしていない。先ほど、とりあえずはと水だけは飲んでおいたが、空きっ腹は変わらない。


 おまけに、幸運にも生き延びる事は出来たが、ここが何処(どこ)なのかが全く分からなくなってしまった。


 まあ、元から把握出来ていたのかと問われれば、全く出来ておりませんと答えるしかないぐらいなので、今更と言えば今更な話ではあるが……何にせよ、だ。



 ――今日はさっさと休んで、明日からだな。



 何処からともなく聞こえてくる虫の音に、耳を澄ませる。とりあえず、雪崩とかが起きているような音は聞こえてこない。


 色々と不安はあるが、日も暮れてしまった以上は何も出来ない。


 今の己が出来るのは、ご飯を食べて身体を休める事。


 何をするにしても、まずはそれからだなと最終的な結論を出した彼は、飯の用意をするかと湯船より立ち上がった。



 ――こつん。



 その時であった。


 玄関の扉が、微かに叩かれた音を彼は聞いた。


 しばし耳を澄ませていたが、音はそれっきりだった。


 なので、気のせいだと判断した彼は、ひょいっと湯船傍に設置してある踏み台から降りると、出入り口傍に置いてある手拭いを手に取った。



 ――こつん、こつん。



 いや、気のせいではない。何かが、玄関の扉を叩いている。


 それに思い至った彼は、瞬間、即座に浴室を飛び出していた。


 濡れて火照った裸体をそのままに、乾燥させる為に抜いて置いた刀を手に取ると、足音を立てないように気を付けながら……玄関扉の傍に立った。


 その位置は、外からは死角。万が一強盗なり何なりが押し入って来ても、一撃は先手を打てる位置である。



(……獣なら、いいんだが)



 彼が、ここまで警戒する理由……それは単に、『剣王立志伝』の時代設定というか、背景の設定に原因が有った。



 ……結論から述べよう、あまり良くはない……と、思う。



 はっきりと断言は出来ないが、ゲーム内に登場するモブキャラクターの様々な台詞や、『山賊からの護衛』というイベントが有る事から、色々と察せられる。


 ていうか、だ。



 シリーズ通して、山賊や盗賊に対しての護衛イベント。


 町娘が攫われる救出イベントに、強盗一味の討伐イベント。


 悪運重なって盗人になってしまった御用改めイベントなど、等々など。



 胸糞なイベントがそれなりに入れられているだけあって、本当にお察しである。


 まあ、それ以前に、雑魚敵に『浪人』とか『盗賊』とか『抜け忍』とか居る当たり、察する以前の話だろうが……とりあえずは、だ。


 さすがに、出歩くだけで襲われるような治安の悪さではないだろうが……お殿様が居て、合戦が繰り広げられている世界観だということを前提に考える必要が有るのは確かだ。


 なので、山賊が居ても何ら不思議ではない。


 いや、というか、居る可能性が高いと彼は考えている。


 そんな世界観で、ポツンと建てられた家を、たまたま通りがかった山賊が捨て置く……あれ、むしろ、気味悪がって近づかないのでは?



(……いや、分からん。山賊やるぐらいのやつなら、それぐらい気にしないかも……)



 ドキドキ、と。


 相手が人間である可能性に、心臓が喧しく音を立てる。かつてない程に、緊張している己を自覚する。



 ……人を殺す、あるいは、殺すかもしれない。



 その可能性に、彼は……スーッと、身体に氷柱を差し込まれたかのような感覚を、彼は覚えた。



(常識が通じる相手なら……いや、でも……)



 今の身体になる前、つまり、かつての彼には仕事の関係から何度か他府県へと引っ越ししたり、外国へ旅行したりした事で、少しばかり異文化というやつと接した経験がある。


 それで学んだ事は確かにあるけれども……何よりも強く思い知ったのは、暴力に対する忌避感の有無だろう。


 そう、暴力を振るうことに慣れた者たちは、己の身内と定めた者以外の事なんぞ気にも留めない。


 彼ら彼女らが、誰かを害した時に顔色を悪くするのは、それによって捕まった時に、己が受ける刑罰が重くなることを分かっているからだ。


 つまり、言ってしまえば全て自分の為だ。間違っても、傷付けた相手への罪悪感ではない。


 しかし……彼は、それを否定するつもりも軽蔑するつもりもなかった。誰だって、自分の幸せを第一に考えるのは当然である。


 故に――彼は、自らに向けられるかもしれない害意に対し、容赦をする気は欠片もなかった。


 この世界にも、法はあるだろう。何時の時代も、人殺しは大罪だ。


 だが、自分の命を守りも助けもしない法に、有るかも分からない法に、忠実になって命を落とすような……そんな馬鹿な終わり方だけは嫌であった。



「――誰だ?」



 だからこそ、問い掛けた彼の声が、己が出した者とは思えないぐらいに冷たく鋭かった事に驚いた。



 ……。


 ……。


 …………そんな彼の内心を他所に、返事は――いや、合った。



 ――こつん、こつん。



 先ほどと同じく、扉が叩かれた。耳を澄ましていなければ聞こえない程に小さいが、確かに……誰かが居る。



「……誰だ? 返事ぐらいしたらどうだ?」


 ――こつん、こつん。


「おい、誰だと聞いているんだが?」


 ――こつん、こつん。


「…………?」



 不信感を覚えつつも、再度問い掛ける。けれども、返事は無い。軽く扉を叩き返すも、それでもノックを返されるだけだ。



 ……何だろう、これは?



 獣や鳥が扉を突いているだけならお笑いだが……些か判断に迷う。もしそうであれば、無視しておけばよいが……相手が本当に山賊とかなら、無視は良くない。



 ――こういうのは、兎にも角にもナメられたら駄目なのだ。



 別に、反撃する必要は無い。ただ、下手に手を出したら最低でも1人2人は殺される。その内の1人が自分になったら……そう思わせるだけで良いのだ。


 何せ、春に差し掛かったとはいえ、外はまだまだ積雪が残っている。体感した彼が、それを良く知っている。


 推測する限り、この世界の防寒着で下手に野外へ出れば、まず凍死する。だから、一度だけ追い払えれば……脅せれば、それでいい。



(……決めた、1、2の、3で……飛び込んで来たら、切りつけよう)



 本音を言えば、やりたくはない。けれども、命には代えられない以上は……やるしかない。


 最終的に、そう結論を出した彼は……一つ、二つ、深呼吸を行った後……一息に扉をスライドして開け放ってすぐに、大きく刀を振り上げ――え?



「――は?」



 扉の向こう、外より姿を見せたのは、盗賊の類ではなかった。ましてや、獣や鳥などの野生の類でもなかった。


 倒れ込むようにして室内に飛び込んできたのは――子供であった。


 それも、普通の状態ではない。ほっかむりを含めて衣服は雪に塗れ、剥き出しの、すこぶる色が悪くなっている顔には、雪の一部が張り付いている。



 ――遭難者!?



 警戒心も、一瞬で吹き飛んだ。反射的に、彼は外を見やる。室内の明かりに照らし出された雪道には、この子供の足跡以外は何もない。


 相当に……迷い歩いてきたのだろう。


 急いで、彼は子供を室内に引っ張り込み、扉を閉める。氷のように冷たい子供の身体に思わず身震いするが、パンと己の頬を叩いて気合を入れ……ごろりと、板の間に横たわらせた。



「おい、おい! 起きろ! 起きてるか!? 死んでないよな!?」


 ぱちぱち、と。



 何度も、子供の頬を叩く。しかし、完全に意識を失っているようで、起きる気配は皆無だった。呼吸も、辛うじてではあるが……しかし、何時と待ってもおかしくない。



 ――ええい、ちくしょう!



 凍りついた衣服を、破り捨てんばかりに剥ぎ取る。そのまま湯船に放り込むのが一番速いのだろうが、思いの外、衣服が水分を吸っているようだ。


 こちらの指先までもが凍り付きそうだが、泣き言を零している暇はない。凍傷して細胞が壊死する前ならまだ、助けられるかも――あっ。



「こいつ、女の子かよ――我慢しろよ」



 何枚も着込んでいるので分からなかったが、衣服の下に隠れていた髪は腰の辺りまで伸びていた。



(――ひぃぃ、つめてぇー!)



 抱き上げたと同時に広がる、氷のような感触。そういえば己も裸であった事を今更ながら思い出したが、後の祭りだろう。


 まるで、身体中の体温を吸い取られているかのような感覚を覚えながら……駆け足で浴室へと戻った彼は、己ごと湯船の中へと――ゆっくり、入る。


 ピクリともうしない身体に嫌な予感を覚えつつも、溺れないように気を付けて抱えながら……パシャパシャと、手でお湯を掛けてやる。


 その際、手足にこびり付いていた土などを摩って落としてやる。凍傷に陥った身体を摩ってよいのか分からなかったが、雑菌の塊である泥がこびり付いているよりはマシだろう。


 少しばかり遅れて、浴室の壁より伸びる素路から、溢れた分のお湯を継ぎ足し始める。それは高温で、循環し始めた水流によって、湯の温度を一定値まで上げ始めた。



 ……とりあえず、お湯はこれでいい。



 次いで、彼は……ようやく、抱えた子供……少女の全身に目を向ける。


 揺れる水面のせいで上手く確認出来ないが……青ざめてすらいた手足に、少しずつ赤みを帯び始めているのが見える。


 幸運な事に、壊死して黒くなっている部分は見当たらない。出血は……分からないが、目に見える形の負傷も、なさそうだ。



(……顔立ちは整っている子だな。口減らしとか、そういう類の子には見えないけど、どうしてこんな夜更けにさ迷っていたんだろう?)



 パッと見た感じでは、痩せてはいるけど病的な痩せ方ではない。


 不当な暴行を受け続けて逃げ出してきたというふうにも見えない。


 いったい、どうして……少女の陥った状況が、よく分からなかった。



「えっと……次にどうするんだ?」



 まあ、何にせよ、だ。何を尋ねるにしても、まずは少女が意識を取り戻さねば何も分からない。


 言っても仕方がない事とは思いつつ、返事など有るはずもないのに呟きながら……とりあえず、お湯を掛け続けた。





 ……。


 ……。


 …………そうして、20分、30分ぐらい経った頃だろうか。



 ぬるま湯とまではいかなくとも、それだけ長く浸かれば頭も茹ってくる。正直、彼は頭がクラクラしていた。


 その頃になると、冷え切っていた少女の身体も相応に温まってくる。正直、己と少女の体温に違いをそこまで感じなくなっていた。



「……?」



 そんな中、ようやく意識を取り戻したのだろう。


 抱き抱えられたままの少女の目が開かれ、ぼんやりとした様子で何度も瞬きをしている。明らかに、状況を理解していなかった。


 ……まあ、ほとんど意識が飛んでいたようだから、困惑してもしょうがない。


 そんな事を思いながら、彼は無言のままに少女を見下ろしていると……不意に、少女の視線が彼を捕らえ――びくん、と仰け反った。



「いっ!?」



 途端、少女は激痛に肩をビクつかせた。



「ああ、落ち着け。悪い事するつもりないから、とにかく落ち着け。下手に動くと、皮が破けて痛むぞ」



 その言葉と共に、彼は少女が動かないようにギュッと抱き締める。彼も疲れているので、動きを止めるのはコレが一番楽なのだ。


 少女も、最初は混乱して逃げようとしたが……その度に手足から伝わる痛みに、ひとまず従うべきだと思ったのだろう。


 なので、混乱が治まるまでの間、少女は無言のままであった。まあ、それでも、少しばかり身を引いてはいたが……と。



「……あ、あの」



 起きたみたいだし、こっちものぼせているし、出ようかなあ……そんな事を彼がぼんやり考えていると、声を掛けられた。



「助けて……くれたんですか?」

「……どうして風呂に入っているか、思い出せる?」



 尋ねられたので、尋ね返せば、少女は無言のままに首を横に振った。なので、彼は……要点だけをつらつらと話した。



 風呂に入っていたら、扉が叩かれた事。賊かと思って警戒しながら開けたら、倒れ込むように少女が入って来た事。


 叩いても目覚めず、服のままでは重すぎて介抱出来ないので止むを得ず脱がした事。


 一緒に入ったのは、そのまま入ればまず溺れるから。後はまあ、己も身体が冷えたからついでに……等々。



「あ、あの、ごめんなさい。助けてくれたのに、失礼な事を……」

「あ~、気にしなくていいよ。起きたらいきなり知らん男と風呂に入っているとか、君みたいな反応するのが当たり前だから」

「それでも、ごめんなさい」

「いや、だから気にしなくて……まあいいや。もう大丈夫そうなら、上がっていい? 正直、さっきからのぼせて頭がふらふらなんだよ……」

「え……あ、す、すみません! わ、私も出ます」

「ん、出るの? 半端に遠慮されると後々大変な事になるけど、本当に身体は温まったの?」

「はい、もう十分に……あの、でも、なんでか、手と足というか、身体中がこう……ちくちく棘が刺さっているみたいで……」

「……あ~、なるほど。重めの霜焼け(寒さ等で赤紫色に腫れた状態)みたいになっているわけか……よし、俺に続いて出てね」



 何時の間にか赤く腫れている少女の両手等を見やった彼は、先に上がって手を差し出す。少女の背丈では、少し高いだろうと思ったからだ。


 少女も、すぐに気づいたようだ。


 彼の手を取りつつ、縁にお尻を置いて、片足ずつクルリと跨いで……そこまでは上手くいけたが、足が床に降り立った瞬間、目に見えて少女の顔が強張った。



「……どうした?」

「その、足が痛くて……」

「え? ちょっと見せて」


 ――まさか、折れていないよね。



 不安を覚えつつも、少女を浴槽の縁に座らせてから目視で確認する。「……っ!」途端、気恥ずかしそうに少女は身動ぎしたが……放って置く。


 滑り落ちないよう、少女の手が無言のままに己の肩と頭にそっと置かれたのは、多少なり信用してくれたからなのか、警戒の表れか……まあ、どっちでもいい。


 とりあえず……少女の足に、不審な点は見当たらない。


 軽く触ってみるも、くすぐったそうにするだけで痛む素振りは「――いたっ!」……ああ、足首か。


 どうやら、遭難の間に足首を捻っていたみたいだ。軽く触れる程度なら問題ないあたり、ヒビが入ったとかではなさそうだが……やれやれ、仕方がない。



 ――短い距離とはいえ、捻った足で歩かせるわけにもいかない。



 そう判断した彼は、ひょいっと少女を抱き上げる。「――っ!?」途端、少女の顔が一気に紅潮したが……構わず、彼は少女を抱き上げたまま、浴室を出るのであった。







 ――一通りを満たしているかは不明だが、出来うる限りの手当てを少女に施した頃には……もうすっかり、夜も更けていた。



 提灯の明かりだけでなく、囲炉裏の炎がもたらす明かりによって、室内は相応に明るい。


 その光に照らし出されるのは、以前に手作りした(見た目は非常に不格好)背の低い物干し竿一式。


 そこに吊るされているのは、少女が身に纏っていた衣服。そして、彼が事前に干していた衣服。


 御手製の板を使ってぎゅうぎゅうに足で潰しただけあって、脱水は上手く行った。部屋の不可思議な温かさもあって、明日の昼ごろには……乾いているだろう。



 そんな中、彼は……味噌粥を作っていた。何故って、お腹が空いているからだ。



 色々あって朝から何も食べていない事に加え、少女の介抱に手間取ってしまい、食べそびれてしまった。


 少女の方もお腹がぐうぐう鳴いていて、恥ずかしそうにしていた。1人作るも2人作るも一緒……そんなわけで、夜食の準備である。


 そして、件の少女は保湿と治療の為に全身に軟膏を塗られ……軽く肩に着物を羽織っただけの、裸体をそのままにしていた。


 何故って、当人曰く『服がチクチク刺さって、痛くて痒くて堪らない』ということらしい。


 それがどれぐらい辛いのかは彼には分からないが、年頃……というには些か幼い(痩せているせいで、余計に幼く見える)が、小さくとも女は女だ。


 今は慣れたというか、全部見られて介抱されたという事で気を許しているのだろうが、それでも同じだ。


 家族や知り合いならともかく、今日初めて顔を合わせた(キッカケは何であれ)異性に裸を晒してでも……なのだから、相当に辛いのは彼にも想像出来た。


 ……ちなみに、少女に塗った軟膏は以前に、箪笥より手に入れた物だ。


 どのような効能なのかが分からず、しかし、臭いは彼が良く知る元の世界にあった軟膏(ドラッグストア等で普通に売られている)だったので、保管していたやつである。


 最初は塗っても良い物かと彼も迷ったが、当の少女より『ヒナビシのお薬?』と言われて、特に嫌がらなかったので……とりあえず、塗っておいた。



 ……ヒナビシとやらが何であるかは置いといて、だ。



 チラチラと、少女の視線が何度か提灯に向けられていたが、少女はそれ以上の反応は見せなかった。そんな、少女の落ち着いた態度を他所に、だ。



 ……歳に比べてかなり賢い子だな。



 囲炉裏に設置した(以前気付いたのだが、鍋等が置けるようになっていた)鍋の味噌粥を掻き混ぜながら……内心、彼は冷や汗を掻いていた。



(やっぱり、アレはこの世界の人達から見ても、かなり明るいしオカシイ事なんだな……)



 何故なら、何時の世も、何時の時代も、珍しい物は狙われ、妬みの対象になりやすい。


 物が溢れた現代社会ならともかく、この世界……『剣王立志伝』の世界観から考えれば、物への価値が如何ほどかを想像出来る。


 史実ですら、ロウソク一本、オイル一瓶が相応に値が張り、どうしても必要な時以外は勿体無くて付けられないと言われていたのだ。


 少女の身なりからして、貧乏という程ではないが、御世辞にも裕福な家とは言い難い。だからこそ、余計にこれ程に明るい提灯が気になるのかもしれない。



「……出来たぞ。ゆっくり、食べるように」

「はい、ありがとうございます」



 ……とりあえず、けして口外しないよう口止めだけでもしておくべきだろうなあ。


 そう考えつつ、椀を差し出せば……少女は嬉しそうに受け取ると、「……いただきます!」ふうふうと小さい口で冷ましながら……ゆっくりと食べ始めた。



「――美味しい! こんなに味噌を入れてくれたのですね」

「……そうだよ、いっぱいある。身体を治すためにも、とにかくいっぱい食べて、ゆっくり休め」

「はい、ありがとうございます」

「俺も食べるけど、おかわりが欲しかったら遠慮せず言ってくれ。あまり量を食えない身体でね……気にせず、食べてくれていいから」

「はい、本当にありがとうございます!」



 そう言うと、少女はアチアチと忙しないながらも、消耗した身体が求めるがままに椀を傾け、胃袋へと掻き込んでゆくのであった。


 ……。


 ……。


 …………その、最中。



「……うっ、ふぅ……うぐっ、ふぅ、ぅぅ……」



 手当をされ、食事を取る事で、ようやく張り詰めていた気が緩んだのか……椀に顔を隠しながら、ぽろぽろと涙を零し始めた……少女を前に。



(……何にせよ、間に合って良かったよ)



 我知らず……彼は、笑みを浮かべたのであった。



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