娘vs父
「うーん、う〜ん……」
俺、大塚
「どうした。さっきまで二階で勉強していたのではなかったか?」
「あっ、父さん。いや、部屋で勉強してたらママに『柔と正道が起きちゃうから下で唸りなさい』って言われて」
つまりこやつ、壁越しに聞こえるほど唸り散らかしておるのか。まあ古い家で防音など効いておらんからな……う〜む、子供部屋を我等の寝室の隣にしたのは失敗だった。正道と柔もいずれ大きくなるわけだし、それも見越して歩美は別の部屋へ移動させるか。
まあともかく、今日のところはこの父が悩みを聞こうではないか。俺は娘の真向かいに座った。
「歩美よ、どんな悩み事だ?」
「悩んでるじゃないよ。いや、悩んでることは悩んでるけど、この問題が解けないだけ」
なるほど、よく見ればノートと教科書を開き、シャーペンを片手に握っておる。
「宿題か」
「宿題っていうか……まあいいや、ここなんだけど……」
「数学だな、どれ」
おや? なんだか俺が中二だった頃よりずいぶん先へ進んでおるな……今時はこんなに早いのか。
まあ、このくらいなら歳を食った俺でも辛うじて教えられる。
「よいか、これはこう考えてみるがよい」
「おおっ!」
答えは教えず解き方のヒントだけ伝えると、歩美はすらすらペンを走らせ始めた。うむ、解答も合っておる。
こやつ頭は悪くない。むしろ賢い方だろう。ただ、時々このような要領の悪さを見せる。
(麻由美に似たな……あやつも中学高校と不器用でヒヨコと呼ばれていたものな)
外見は亡き実父の雨道殿に生き写しだが、ちゃんと母の血も受け継いでおるらしい。
そういえば、しばらく浮草のご両親にも会いに行っていない。そろそろ孫の顔を見たい頃だろう。今度の休日にでも出向くとするか。
などなど俺が次の家族サービスの計画を立てておったら、ようやく全ての問題を解いた歩美は勢い良く後ろへ倒れ込んだ。
「終わったー!」
「ご苦労」
せめて片付けくらいしてやるかと思いノートと教科書を閉じると、表紙を見た俺の目に予想外の文字が映る。
「お前、これは三年生用の教科書ではないか」
「うん、友達の姉ちゃんから借りてきた」
「何故来年度の勉強をしておる?」
「だって先生になるなら勉強できなきゃ駄目でしょ?」
「……将来のためにということか?」
「まあね。私、そんなに頭良くないから後で困らないように、どんどん先へ進んでおいた方がいいかなって。そしたらさ、勉強で躓くことがあったり他に何かあって時間を取られても、余裕があるぶん安心でしょ」
ううむ、先を見据えて行動できるのは父として褒めてやるべき美点かもしれん。しかしこれは無理しすぎではないか? お前の学力ならば、そう心配することもあるまい。
(いや、本人が決めたことならば、その意志を尊重してやるべきか……?)
迷いを抱いた俺の背中を次の瞬間、誰かが叩く。
「……」
またか。気のせいかもしれんが、たまにこういうことがある。何かを決断しようとする時、見えない手で背を押されるような奇妙な感覚。
いつぞやの、見えるはずの無い満月を見た青い月夜を思い出す。思えばあれからだったかもしれぬな。
うむ、やはりそうしよう。心を決めた俺は、普段なら絶対やらぬ悪事に手を染める覚悟を決めた。
「歩美、育ち盛りの我が娘よ」
「なに?」
こやつ、天井を見上げたまま返事しおって。まあよい、そんな疲れたお前に朗報だ。
「腹は減っておらんか?」
「い、いいの? こんな時間に出かけたりして」
「親同伴だ、構わんだろう」
俺はいつもの和装に着替え、財布を持って外へ出た。歩美は部屋着のままである。別段おかしな格好ではなかろう。
音を立てぬようそっと閉めた玄関の鍵をしっかりと施錠し、心の中で麻由美や双子達に謝りつつ歩き出す。
「夜の散歩はいいぞ。空気がひんやりとしているし、街は静かだ」
一人暮らしをしていた時には、よくこうして深夜の散歩を楽しんだものだ。まあ、社畜時代は残業に次ぐ残業の結果だったが。
「たしかに……この時間帯って、外はこんな感じなんだ」
もうすぐ午後の十時。こやつ、以前は母方の祖父母と暮らしておったからな。麻由美も基本的に早く寝るし意外と箱入り娘なのだ。こんな時間に出かけたことはあるまい。
「あまり大声は出すなよ。もう寝ている人達もいるだろうからな」
「わかってるって」
声をひそめて話していると、なんともいえない背徳感が湧き上がって来る。これもまた夜の散歩の醍醐味よ。
すれ違う者もおらぬまま、歩くこと十分ばかり。駅前に着いた。このあたりはいわゆるベッドタウンだが、流石に駅前まで来ればコンビニや飲み屋が軒を連ねている。そのためまだ明るい。
ただ、俺達の目当てはそれらの店ではない。華やかな光の輪から少しばかり外れた場所、酒を飲んだ連中が帰りがけにふらりと立ち寄りたくなる絶妙な位置に佇む屋台だ。
まだ少し早い時間だからだろう。幸いにも他に客はいない。気兼ねせず俺達が近寄って行くと、俺より少し年上の店主が顔を上げ、少しばかり驚いた。
「大塚さん」
「久しいな」
「珍しいっすね、一人で来るなんて」
「一人ではない、連れがおる」
「おや? ほんとだ、えーっと……」
「娘だ」
「あ、大塚 歩美です」
軽く頭を下げる歩美。えらいぞ、挨拶できたこともそうだが要らぬ誤解を受けずに済むのが何より助かる。
「あー、娘さん! 前に話してた、下の子達をめちゃめちゃ可愛がってるって言う!
「……父さん?」
「んんっ! 親父、二杯頼む」
ジトッと見つめられ、咳払いしながら席につく俺。歩美は隣に座りつつ、なおも下から覗き込んで来る。
「……この店はしょうゆだけだ。代わりにトッピングを選べる。好きな物を頼むといい」
「……まあいいや。人のことを勝手にあれこれ喋ってたっぽいことは、それで手を打つよ。おじさん、私チャーシュー五枚とネギ増量。玉子もつけて」
注文内容を聞いて鼻白む俺。いや、別に大した値段にはならんが、この時間にそんなに食って大丈夫か?
「お前、本当に食えるのか?」
「成長期ですから。何? それとも、少しは遠慮した方がいい?」
「いや……」
好きな物を食えと言った手前、仕方ない。その代わり、ちゃんと完食しろよ。
俺達の会話を聞いた親父が笑う。
「ははは、大塚さんの話は自慢ばっかなんだけどね」
「自慢?」
「運動会で一等賞になったとか、期末試験で良い成績だったとか、歳が離れてるのに良いお姉ちゃんしてくれてるとかさ」
「親父」
それこそ、べらべら語らんでもよかろうに。
「父さん照れてない?」
「気のせいだ」
「ふうん」
歩美は一拍置いて指を一本立てた。
「父さんのもチャーシューとネギ増量で」
「待て、中年にそれはきつい」
「っはあー、美味しかった。父さんのオススメなだけあるね」
「だろう?」
「気に入ってもらえて良かったよ。歩美ちゃん、また来てな」
「うん、また父さんに連れて来てもらう」
「そのうちにな。親父、また来る」
「あい、今後とも親子揃ってごひいきにっ!!」
勘定を払い、屋台の親父に見送られ、再び夜の街を歩き出す俺達。寄り道はせず家路を辿る。
最中、俺は語りかけた。
「歩美よ」
「何?」
「あの親父、十年ほど前に会社を辞め、有名なラーメン店に弟子入りした」
「へえ、どうりで美味しいと思った」
「うむ、そして一年前、ようやく独り立ちして夢だった屋台を始めたわけだ」
俺と知り合ったのはその時だ。市に提出する書類に不備があり受付の職員と揉めているところへたまたま通りかかって仲裁した。その後も色々手伝っていたら情が湧いてしまい、部下や友人達を誘ってたまに顔を出すようにしている。もちろんあの店のラーメンが旨いことこそ最大の理由だが。
特に考えがあってあの屋台に連れて行ったわけではなく、単に歩美に気晴らしをさせてやりたかっただけなのだが……結果的に親父のおかげで俺は言うべき言葉をまとめることができた。
「あの店のラーメンが旨いのはな、親父がラーメンというものに対し、真剣に向き合って一つ一つ丁寧に学び、積み重ねて来たからだと思う。歩美よ、お前は同じことをしているか?」
「え?」
「学校で先生の話を真剣に聞いているか? もう勉強したところだからと、聞き流してはいないか?」
「……」
「お前の努力を否定したいわけではない。ただな、急いで頭に詰め込んだ知識はしっかり身に着くことはない。そう思うのだ。教えの一つ一つにきちんと耳を傾け、教科書を読み返し、学問というものに対し理解を深めていかなければ、良い教育者になどなれんのではなかろうか?」
「……うん」
歩美はため息をつき、空を見上げる。
「なんか焦り過ぎてたね、私」
「それもまた良い経験だろう。だが、そういうことだ。ゆっくりでいい、一歩一歩着実に進め」
お前の目指す場所に向かって、お前だけの道をな。
「そうするよ。でも、あの屋台にはまた連れてってよね」
「無論だ。だが母さんには言うなよ? 怒られる」
「わかってるって」
子は学び すくすく育ち やがて行く
「いつかは、二人で飲みにも行きたいな」
「あと六年待ってよ」
「楽しみだ」
偶然、私は目撃した。屋台から離れ行く二人の後ろ姿を。
(もしかして、大塚さんと歩美ちゃん?)
気になってしまい、後を追いかけようとする。
でも、すぐに足が止まった。
やっぱり歩美ちゃんには会えない。会う資格が無い。
「あの二人は親子だよ」
立ち止まり、そのまま去り行く二人の背を見送っていたら、唐突に屋台の店主から声をかけられた。
「え?」
「刑事さんかなんかだろ、あんた。あの旦那はあんたが考えてるような悪党じゃないから安心しなって。娘さんが勉強のしすぎで根詰めてたから、気晴らしにうちまで連れて来ただけだよ」
「……そう、ですか」
何故だろう? 昔からよく警官や刑事に間違われる。ただのOLなんだけどな。表情が硬いせいだろうか。
あとは目かな。
彼にそっくりだとよく言われていたけれど目元だけは違った。彼はいつも優しい眼差し。私はその対極。射貫くような視線で人を威圧してしまう。
「……一杯ください」
「あいよ」
椅子に座って注文すると、一分も経たないうちにしょうゆラーメンが出て来た。なんで食べたくなったのか自分でもわからない。少しでもあの子と同じ体験を共有したかったのだろうか? 彼と過ごした幼少期のように。
湯気が目に染みる。
「これ、サービスな」
おやじさんが玉子を一個おまけしてくれた。感謝を述べつつ一口齧る。思ったより塩気が強い。
「なんか辛いことでもあったかい? よければ聞くよ」
「いえ……」
私の抱えた秘密。それを他人に話す勇気は無い。
たった一人、例外はいたけれど、きっと二度とは会えないだろう。とても遠い世界の人だから。
ごめん歩美ちゃん、麻由美さん。
私は今日も、まだ息をしてます。
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