第2話 北から『なにか』がやってきた?

 

 もうすぐ十五歳を迎えるドロシーは、湖をスイスイ泳ぐ家鴨あひるを眺めていた。

 『魔術師タウラ』がこの村を去る時に言った事が頭を過り、どうしようかと考えることが多くなった。当然、仕事の手伝いにも身が入らない。

 現在、三つ下の弟『ガラット』は父『リンヘン』と猟犬ムムを連れて狩りに、六つ下の妹『ジェティ』は母『エイス』と畑仕事を、祖母の『イズ』は揺り椅子に座りながら裁縫をしている。


「おねえちゃーん!」


 その声にハッとして、立ち上がる。


 ドロシーが湖を泳いでいる家鴨に「帰るよ」と言い家に向かって歩き出すと、家鴨達もいっせいにそれについてくる。彼女は村で一番動物の扱いが上手いと評判だった。

 

「おねえちゃん、またぼーっとしてた」


 ジェティに指摘され「うん。ごめんね」と素直に謝るドロシー。

 母エイスは「しょうがないわね」と困ったような笑顔。彼女も十五歳の頃にはいろいろな悩みを抱えていて家族に迷惑をかけたことがあった。だから、娘の事も少しくらい大目に見ることができる。むしろ、自分と比較したらおとなしすぎるくらいだと。

 家鴨達を庭の柵の中へ誘導したドロシーは、夕飯の支度の為に畑から採れた野菜を家の中へと持って行く。

 それを見た妹は母に心配そうに尋ねる。


「おねえちゃん大丈夫?どうして元気ないの?」


「おねえちゃんはね、五年前に村に来た魔術師様に言われたことを気にしてるんだよ」


「『まじゅちゅしぃ』さま?」


 エイスは五年前のことを少し振り返った。

 

 白い髪の魔術師から首飾りをもらった事を興奮したように話す娘。そして五年経ったら魔術の学校に来てもいいと言われたこと。両親そろって反対したこと。祖母のイズだけがドロシーの味方をしたこと……。

 それから一年、また一年と経ち、ドロシーの心境にも変化が生まれた。

 村に立ち寄る旅人たちとの会話から蓄えた知識、成長するにつれて高まる思考力。キトラにいる子供たちの中でも特に賢いドロシーは少しずつ「私みたいな田舎の娘が魔術学校に行ってやっていけるのかな」と思うようになった。

 タウラが去ってから4年。ドロシーの中では好奇心と不安が日夜戦いを繰り広げていた。


「ドロシーお姉ちゃんはね、魔術の学校に来ないかって言われたの。最初は行きたい!って言ってたんだけどね。だんだん、一人で遠くの学校に行くのが不安になってきたんじゃないかな」


「遠くに行っちゃうのやだ!おねえちゃんと遊べなくなっちゃうもん!!」


「そうね。……遊べなくなっちゃうものね」


 寂しげに微笑むエイス。


 愛しい我が子が遠くへと行ってしまうのを喜んで見送れる親などいるのだろうか。少なくとも私にはできない。だけど、ドロシーは賢く体も丈夫で生命力に満ち溢れているし、。彼女の成長のためにも西の王国へと旅立たせるのは必要なことかもしれない。……でも旅には危険が伴う。道中、あの娘をしっかり守ってくれる人でもいれば……。


 そんな風に考えているところへ、森へ狩りに行っていたリンヘンとガラットが大きな袋を抱えて帰ってきた。ムムが興奮気味に吠えて、仕留めた獲物が入っているであろう袋を気にしながら二人の周りを走っている。リンヘンが手にしている牡鹿の頭部が狩りの成功を物語っていた。


「おかえりなさい。今日の狩りはどうだったの?」


 わかっていても、母は息子の為にその問いを口にする。

 袋を開けながら「やったよ母さん!」とガラットは自慢げに猟果を見せた。中には解体された鹿の肉や毛皮が入っている。袋以外にも、肩から下げた兎が二~三羽目に入る。飼っている家鴨も含めれば、しばらく肉には困らないだろう。

 エイスは生活に余裕が出ることを喜んで「助かったわあなた」と声をかける。

 ところが、リンヘンは浮かない顔をしている。


「どうかしたのリンヘン?あまり嬉しそうじゃないけれど」


「……うん。狩りの成果は上出来だった。なにも問題はないよ。ただ、森の様子がおかしかった。北の山の方から、何かよくないものが来ている。……魔物かもしれない」


「本当なの……?森がおかしいっていうのは」


「間違い無い。昨日森で狩りをしていた村長のとこの『ハイハ』も言っていたから間違いない。危険を感じたらすぐに森を出ろとも言っていた」


「彼がそう言うのなら、そうなのね。でも、魔物って本当?前に言ってたマシラグマっていう猛獣じゃなくて?」


「マシラグマは確かに恐ろしいけど、こちらから襲ったりしなければ敵意を向けてくることはほとんどない。それに彼らはほとんど草食だからね。ちなみに北の山っていうのは湖の向こう側にある『カルシ山』じゃないぞ」


「えっ?それじゃぁ……どこの?」


常雪とこゆきの山『ラドガル』だよ」


「あんなところから!?魔物だってあの山を生きて越えるなんてできないでしょう?」


「普通ならそうだけど、こうも考えられる。……あの山を越えてくるくらい恐ろしい生命力を持っているヤバいバケモノだってね。もちろん、まだ魔物だとはっきりわかったわけじゃない」


「そう……。でも、あの山ってスオームの北の一番端じゃない。そこからここの森までいくつか村や町あるはずだし、本当にそんな恐ろしい魔物が来てるんだとしたら、大変なことになってるんじゃないかしら」


「そうだね。とにかく、しばらく森には近づかないようにしよう。皆も、湖の向こうの山や森に異変を感じたらすぐに教えてくれよ」


「わかったわ」


 横で真剣に聞いていたガラットも「はい!」と元気よく返事をする。ジェティも「はーい!」と答える。


「母さんとドロシーにも後で俺から伝えておくよ」


 リンヘンはそう言ってガラットと共に家の中へと入っていき、外での仕事が一段落ついたエイスたちも後を追うように家へ。

 その夜のセイル家はいつもより豪勢な食事で盛り上がった。祖母のイズも「やっぱり鹿の肉は美味しいわね」と喜んでほおばっている。老齢とは思えないほどの食いっぷりだ。ドロシーはというと「うん。おいしい」と言いながらも、どこか心ここにあらずといった風だ。食卓を囲む家族はそんなドロシーの様子を気にしながらも、森の恵みに感謝しながら幸福な夜を過ごした。


 湖と山を中心にして北西に広がる森。

 そこに潜んでいる黒く巨大な影が、少しずつ村へと近づいていることなど、誰にもわからなかった。


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