受難その④

― 過去 ―


 若きオイデクレスは絶望していた。

 学問を究めどれだけ知を探求しても身の内をむしばむ虛無は去らない。

 永遠を約束したはずの女性にも手酷く裏切られ、心の痛手を癒す為に各地を放浪した。

 永遠の創造などというものに一体何の意味があるのだ。ただ無にかえるだけだ。初めから何も無かった方がましではないか。

 彼はそう考えていた。


 遍歴へんれきを繰り返すうちに知ったその場所に足を向けたのはただの好奇心だった。

 名も忘れられた古い伝説の邪悪な生き物の―強欲に黄金を集め、持ち去ろうとする者には死の呪いをかける―住処すみかだったというその黒い洞窟は、人里を離れた更に深い山の奥にあった。

 

 今では誰も訪れる事のなくなった暗い闇の中に僅かな灯りを伴い足を踏み入れていく。

 時間の感覚が薄れるほど歩いて行き着いた先に、岩を切り出した巨大な空間があった。

 手前中央に打ち捨てられた古い祭壇と赤黒い文字で描かれた魔法円サークル

 常であれば慎重に事を運ぶオイデクレスだが、その時はまるで何かに呼ばれるようにふらふらと円の中央に立ち、古代の言語で描かれた文字を目で拾った。


「やみ…にひそ…む…いだ…いな…る…そん…ざい…すが…たを…あら…わし…われと…たま…しいの…ちぎ…りを…かわ…せ…」


 声に出しているつもりはなかった。だが言い終えると同時に手元の心もとない幻燈ランプの灯りまで全て消える。

 自分の手すら見えない深い闇に怯え動くことも出来ない。


 迫る恐怖の中でオイデクレスは気づいた―なんて事だ、これは契約の円環だ―何か来る。


 そして、その何かが現れた。



―その眼を寄越せ


 闇におごめくその存在は直接頭の中に話しかけてくる。


「……誰だ」


 オイデクレスは震えながら目を凝らす。闇さえも捕らえられた桎梏しっこくの黒の中に、巨大で邪悪な気配が満ちている。

 今、環の外側に一歩でも出ればその存在に引き裂かれるだろう―否が応でも契約するしかない。


―中に黄金が詰まっているかのようだ

―深い虛無と絶望

―実に…好ましい


「欲しいのは眼だけか」


 どんよりと停滞した気を震わせる事もなく、原始の悪にも似たその存在が低く含み笑う。


―眼は魂の入口だ

―魂のちぎりを結び、命を終えたあかつきには全て頂く


 今か、後か。どうせ創造物はいつか無に帰する運命だ。

 オイデクレスは自嘲気味に笑った。


「……いいだろう。お前は?何を寄越す?」


―我が名はフレイズルの息子、ファーヴニル


 声は契約の証に己の真名まなを告げる。


―汝が意志する事を行え

―汝の命が尽きるまで、それが我等われらの法の全てとなろう


「承知した」


 オイデクレスが答えると同時に、闇の奥に青銀の光がぼんやりと浮かび上がる。


 最初に見えたのは目だ。光すら吸い込んで溶かす晦冥かいめいの黒い瞳。

 そして青と銀の鱗に覆われた翼。一振りで命を奪えるであろう長い尾。生臭く熱い息を吐く大きな口。下顎に鋭い牙が覗く。腹側の白銀の鱗から続く太い脚の先には黒く鋭い爪。

 

 息を呑んで見上げるオイデクレスの前に―巨大な青銀の翼竜ドラゴンが、その全貌を現した。

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