data_177:オペラの目覚め

 あくまでこの万能細胞は、他者に与えられるためだけに存在しているのだ。

 試行錯誤の中でそれを何度も思い知った。

 オペラは誰からも何も受け取らない。いつか尽きるまで、ひたすら自らを割いて分け与えるだけなのだ、と。


 ほんとうに、果ての見えない道筋だった。


 冷たい保存液に沈む、人の形を失ってぐちゃぐちゃになった彼女の姿を最初に目の当たりにしたときは、蘇生など無理なのではないかと思った。

 その状態で生きていることが信じられなかったし、惨たらしくすら感じた。


 それでも、諦めなかった。だから今日がある。

 やるべきことはすべてした。


 今のヒナトは内臓のひとつも欠けていない。手足も揃っている。

 臓器の働きに問題はなく、神経をきちんと伝達物質が走っていることも確認した。

 心臓が動いている。全身を血が巡っている。代謝もある。


 あとは目覚めるのを待つばかりなのに、その時間が永遠のように長い。


 ソーヤはついに堪えきれなくなって一歩前に出た。


 透明なガラスの水槽の、その縁に置いた手を、ほんとうはヒナトに向かって伸ばしたかった。

 凍えた身体を引っ張り出して抱き締めてやりたかった。

 そうして温めたなら、少しは早く眼を醒ますのではないかと、思わずにはいられない。


 それに、この容器の形はあまりにも棺に似ていて、できれば長くそこにいさせたくはないのだ。


「――体温が」


 ふいにワタリが呟く。その隣でミチルがはっと顔を上げる。

 ソーヤも思わず駆け寄って、三人は一緒にモニターを覗き込んだ。


 そこに表示されたヒナトの体温が、少しずつ上昇している。


「ヒナ」


 水槽の傍に戻る。

 少女の顔を覗き込む。ずっと低温保存されて青白くなっていた頬が、ほんのり肌色を取り戻している。

 そこに、たしかに生気が宿っている。


 ぽこ、と小さく間の抜けた音がして、針の先ほどの気泡が浮かぶ。

 呼吸をしている。


 ソーヤが眼を見開くのと同時に、いつか聞いたのと同じ懐かしい音が響く――がぼ、ぼこ、ごぶり。


「……ヒナ!」


 苦しそうに息を吐く彼女を、制服が汚れるのも構わずに水槽から引き揚げた。


 ヒナトの身体は氷のように冷たく強張っていて、がくがくと震えている。ソーヤはヒナトを抱いたままふり返りもせずに手を後ろに伸ばした。

 こうなることは予想していたので、ワタリが用意していた毛布を差し出してくる。

 それでヒナトを包んでいると、さらに背後からトレーが突き出される。そこには温かいココアが載っている。


 事態に気付いたらしい他の面々が集まってくるのが、気配と音でわかる。

 足音が。声が。期待の眼差しがソーヤの背に降り注ぐ。


 ヒナトはどうだろう。目覚めた直後にどれくらいの感覚があるのかわからない。


「……う……」


 だからソーヤはじっとその小さな声に耳を傾けた。


「ッけほ、……けふっ……、……ふー……」


 瞼がふるりと震えて、眦の筋肉がひくひくと痙攣している。

 それが花のようにゆっくりと開くのを、その下の懐かしいうぐいす色が見えるのを、見守る。


 ヒナトはぱちぱちと瞬きをして、ぼんやりとしていた。

 毛布越しに、その中でもぞもぞと手足を動かしているのを感じるけれど、しばらくはまともに歩けはしないだろう。

 時間をかけて身体の感覚を確かめたあと、ヒナトはゆっくり顔を上げてソーヤを見た。


 そして何秒か無言でソーヤの顔を見つめ――もしかすると記憶の保持に失敗したのかと、かすかにソーヤが絶望しかけたその刹那、口を開き。


「そ……や……ん……?」


 呂律が回っていなかったけれど、たしかに言った。

 ソーヤの名前を。


「……やっと目が覚めたかよ、この寝坊すけの……遅刻常習犯が……」

「ぁ…………で……? あ……し……」

「何言ってるかわかんねーよバカ野郎……ッ」

「……い……ひゃ……れ……」


 痛いです、と言ったらしいのはなんとなくわかったけれど、抱き締める力を加減する余裕など、ソーヤにはなかった。



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