data_171:涙のあの日、手のひらの今日

 そうして訪れた給湯室で、タニラは思いもよらぬ光景を目の当たりにする。


 床に散らばる割れたカップの破片やスプーン、インスタントコーヒーの粉に、踏み砕かれた角砂糖。

 その中心にうずくまって号泣しているひとりの少女。

 周りに転がった破片にはわずかにだが赤いものが混じっていて、彼女がどこか怪我をしていることは一目で理解できた。


「……大丈夫!? これ……何があったの? とにかく怪我を――」

「触ッる、なぁ!」


 声をかけたとたんに悲鳴に近い声で喚かれて、タニラの肩がびくりと跳ねる。

 とりあえず、彼女――ミチルにそれ以上近寄らないように少し遠回りをして、持っていたトレーをテーブルに置いた。


 その間もしゃくりあげる声が聞こえる。

 よく見てみると棚の戸が開きっぱなしになっている。その一方で一班のトレーは出されておらず、そもそも飲みものを用意しようとした痕跡はほとんどない。

 床の状態からしても、落としたのではなく投げた感じだ。


 タニラはひとまず箒とちりとりを出して、片づけをすることにした。


 どうも破片で手かどこかを切ったようだし、泣いていることも気にはなるが、今は声をかけても刺激してしまうだけ。

 それより彼女が怪我を増やさないように危険なものを退けるべきだろうと思ったのだ。


 そうしてタニラがあらかた床を片づけ終わったころには、ミチルも少し落ち着いたようだった。

 というかあの勢いで泣き続けるのは無理だろう。タニラ自身も涙脆いほうだったから、どれほど体力を使うかはよく知っている。

 それにどんなに拒絶しても、泣いているときに周りに誰もいなかったら、ますます辛いということも。


 破片がもうないのを確かめてから、タニラは床に膝をついた。


「……ミチル、いったい何があったの?」


 できるだけ静かな声でそう尋ねる。

 すると涙でどろどろになったうぐいす色の眼がタニラを見たので、タニラは思わず溜息を吐きそうになってしまった。


 ほんとうによく似ている、と思ったからだ。

 こうしていると、まるでヒナトが泣いているように見える。


 そして今の光景はちょうど、いつかここでタニラが泣きじゃくって彼女に宥められたときと、そっくり逆転したような状態ではないか。


「あ……あんたが聞いたって、わかんない……わかるもんか……ッ」


 返された言葉にしても、あの日タニラが発したものによく似ている。

 だからきっと、タニラが今感じている気持ちもまた、あの日のヒナトの心情とどこかで重なっているに違いない。


「そうね、わからないから教えて。事情を知らなければ何もできない。でも、教えてもらったら、何かしてあげられるかもしれないわ」

「……そういう……上から目線が……ッ! 放っといてよ!」

「それはできない相談ね。

 ……怪我をしてる人を、知ってて無視するなんて。見せてちょうだい」


 振り払われてもいいと思いながら手を伸ばす。

 あの日、ヒナトがハンカチを差し出したときも、きっとこんなつもりだっただろう。

 タニラは直前までひたすら逆恨みで攻撃していた嫌な女だったのに、どうしてヒナトが逃げなかったのか不思議に思っていたが、今ならわかる。


 こうしたいと思うからだ。

 自分で、嫌な人間になりたくないから、優しくしたいと思うから、そうする。

 そのほうが、自分にとって心地いいから。


 これは身勝手なエゴかもしれないけれど、それで誰かが楽になる可能性があるのなら、悪いことではないだろう。


 ミチルはしばらくタニラをじっと睨んでいた。

 黙ったまま、怒りや恐怖がないまぜになったような眼差しでこちらの動向を見張っているようだった。


 そしてタニラが他に余計なことは何もしないとようやく理解して、彼女は血まみれの右手を、こちらに向かっておずおずと差し出してきた。



・・・・・+



 ミチルは手当を受けながら、ぽつぽつと話した。


 自分の過去のこと。ガーデンにいたころは、オペラやヒナトのことなど知らずに生きていた。

 ソーヤの事故があって初めて彼女たちの存在を知り、ただでさえ受け入れがたい衝撃的な事実を前に混乱していたミチルを、研究所はおぞましい闇の中に隔離した。

 だからずっと、みんなを憎んで生きてきたのだ、ということを。


 けれど今日の涙の理由はそれじゃない。

 根っこは同じかもしれないが、枝は違う。


「……あたしとヒナトは似てるから……気持ち悪いくらい……」



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