data_158:名前を思い出せない
温かいものが目尻の横を伝い落ちる。
ソーヤは眼を醒ましたが、そこから起き上がることもせず、もはや見慣れた医務部の天井を眺めていた。
そこに割り込んでくる無遠慮な顔は、今は存在しない。
しばらくして扉が開く音がして、そちらに視線だけ向けると、リクウとワタリが入ってくるのが見えた。
いや、彼らの背後にまだ他のソアがいる。
入口の前で何かぼそぼそと複数の話し声がしていたが、ソーヤには聞き取れなかった。
ただその中に泣いている者がいるのだけはわかる。
たぶんそれはタニラで、あともうひとりいるようだが、アツキだろうか。
いつかの研修生の言葉が蘇る――班長さんは、女の子を泣かせたことはありますか。
それにソーヤは何と答えたのだったか。そんなのしょっちゅうだ、と言ったのではなかったか。
いつもいつも、誰かを厳しく叱っては泣かせていた。
そして今もすぐそこで泣きじゃくっている女子たちがいる。
けれども……たぶん、その涙の理由は、ソーヤひとりが原因なのでは、ないだろう。
「……気分はどうだ。つっても、……良いわけはないだろうが」
「お、れ……は」
リクウの言葉に答えようとして、喉が渇ききっていることに気付く。
それに吐いたときの胃酸で食道がやられ、ひりひりと痛む。
わかっているというように、ソーヤの前にボトルに入った水が差し出された。
受け取りはしたものの、飲むどころか身を起こすのさえ億劫で、それを握ったまま再び虚空を眺める。
それを横から覗き込んでくる誰かのことを、待っていた。
「……どこまで思い出したの?」
小さな声でワタリが言う。
ソーヤは寝たまま、首を振った。
「えが……なま、え……が、で……て……こな……」
名前が、どうしても出てこない。
だから呼ぶこともできない。
それが悲しいのに、けれどきっと呼んだとして返事がないことを、薄々察してしまっていることのほうが、もっとひどくソーヤを殴りつける。
だってそうだろう。
彼女がここにいるなら、こんな状態のソーヤを放っておいたりしない。
駆け寄ってきて、泣いたり笑ったりしながら、あれこれ世話を焼こうと騒ぐはずだ。
そう思う。確信している。
……そうであるように、ソーヤが躾けた。
だから彼女はここにいない。
そして、ならば今どこにいるのか、ソーヤにはわかってしまう。
すべてに辻褄が合う仮説をもう持っている。
あの子は植木鉢の中から現れた。
だからきっと、そこに戻ってしまった――そこが本来いるべき場所だから。
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