data_154:給湯室で聞いたこと

「でも……タニラにあんな顔をさせるのはやめろよな……おまえは覚えてないらしいけど、タニラは昔は、あんな顔じゃあなかったよ……もっと真っ白で純粋で、なんていうか──」


 彼の怨嗟を遮るようにして、やかんが音高く噴き上げる。

 それで、邪魔が入ったことでエイワも我に返ったようになり、いそいそと火を止めに戻っていった。


 ソーヤは一言も発さず、まだ痛む肩をそっと押さえながらエイワのようすを眺める。


 下ろしたやかんを鍋敷きらしい厚手の布の上に置いて、テーブルにシュガーポットやカップを並べながら、エイワはもう一度口を開いた。

 今度はもう、いつものような穏やかな声に戻っていた。


「俺さ、タニラのことになるとダメなんだよな。昔っからずっと。


 で、タニラはタニラで、おまえのことになると俺よりもっとダメだった。俺なんか眼中にないって……知ってたけど、それでもよかった。

 だってタニラがいちばんいい顔すんの、おまえを見てるときなんだ」


 話しながら、エイワは少し冷ました熱湯を透明なサーバーに注ぎ、コーヒーを作っている。


「それが今じゃなんだよ。泣いてばっかで、おまえの前だと作り笑いでさ……。


 でも……あー。しょうがないよな、こんな話したってさ、なんかごめん。悪かった」

「……悪い、俺、何て言えばいいんだかわかんねえ……」

「いいって、聞き流せよ」

「でもよ、……そもそもの原因は俺が何も覚えてないことで……」

「だからそりゃ、おまえのせいじゃないし、どうしようもないんだろ? まあ、しいていえば、恰好つけずに初めっから俺に正直に言ってくれてりゃ、タニラもあれこれ悩まずに済んだかもだけど。

 ……それだってもう今さら言ってもしょうがないじゃん」


 それだけじゃない、と言おうとして、口を噤む。


 エイワが起きるより前からタニラを何度も泣かせてきたのだから、彼女が苦しんだ原因は、何もソーヤとエイワの関係だけではない。

 昔の約束や思い出を忘れてしまったことでも傷つけてきた。

 でもたぶん、それをわざわざ言わなくてもエイワにだってわかるだろう。彼もタニラと同じ立場なのだから。


 そのうえで敢えてこれ以上は責めないというのだから、なんというか達観しすぎている。

 不思議に思って、だから尋ねた。


「……なんでおまえ、そんな諦めが早いんだよ」

「いや言いかたひどくね?」

「あ、悪い……」

「諦めっつーか、あんま抵抗しねーだけかな。しても無駄っぽいときは。つーかガーデン時代のソーヤと十二年つるめばこうもなるわ」

「……どんだけ横暴だったんだよ俺」

「うんまあ、ガキだったし。……それを思えば今はすっかり丸くなっちまってよー。あ、でもオフィスじゃ今でも暴君かもな? 前にそんな話……」


 途中まで少し笑っていたエイワが、そこでふいに言葉を途切れさせたかと思うと、また顔を曇らせた。

 けれども先ほどまでのような怒りというわけでもない。

 どちらかというと、何かを悲しんでいるような顔つきで、……それを見て、ソーヤははっとした。


 重なったのだ。ワタリの顔と。

 ふたりの面立ちはまったく似ていないが、浮かべる感情が同じ色だ。


「……っと、あーできたできた! じゃあ俺もう行くわ。ニノリが温いやつ嫌いでさー、あいつ早く持ってかないと機嫌悪くなるから、そーなるとあとが面倒なんだよ」


 妙に明るい声でそう言って、エイワはお盆を手に慌ただしく立ち上がった。

 どう見たって何かを誤魔化している。

 声音と表情が合っていないし、喋っている内容だって、なんというか唐突で不自然だ。


「おい、さっき──」

「ああこれソーヤのぶんな、ゆっくり飲んでけよ。じゃーまた明日なー」


 しかし引き留めようとしたソーヤの目の前に、こちらの言葉を遮るようにしてカップがひとつ突き出される。

 勢いに押されて思わず受け取ってしまった。

 カップの中身はコーヒーらしい、見なくても鼻先に芳しい香りが上ってくる。


 そしてエイワはあっという間に出て行ってしまったので、ソーヤはカップとともに取り残された。

 唖然として手許を見下ろす。


 湯気が立つ黒い水面に、困惑する己の顔が映り込んでいた。



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