data_153:エイワの怒り
給湯室の扉を見た瞬間、なぜかぎくりとした。
理由はわからない。
班長であるソーヤがここを訪れる機会は少なく、よって悪い思い出などあろうはずもないのに、なぜか全身が強張る感覚がした。
どうも胸がざわついて気持ちが悪いが、エイワに呼ばれて拒絶するわけにもいかず足を踏み入れる。
見たことのある光景。背もたれのない丸い椅子と、テーブル、その奥には茶葉などが並ぶ棚。
エイワはソーヤに椅子を勧め、自分はコンロの前に立って作業を始めた。
その背中を眺めながら考える。
なぜソーヤは今、こんな場所にいるのかと。
答えはひとつ出ている。
他ならぬエイワが、少し話がしたいから付き合ってほしいと言い、ソーヤはそれを了承した。
給湯室は時間帯によっては他に訪れる人間もおらず、いたとしてタニラかミチルとわかりきっているので、ソアが人目を盗んで長話をするのにはちょうどいい場所らしい。
問題はエイワが何を言い出したいのか見当がつかないこと。
あるいは心当たりがあって、それがソーヤとしては都合が悪いものだということ。
……だからこの妙な居心地の悪さはきっと、そのせいだ。
「おまえが寝てる間に、聞いた。病気のこととか。それと」
やかんを火にかけながら、エイワは呟くようにそう言った。
ソーヤは顔を上げて彼のほうを見たが、彼は振り向いておらず、そこにあるのは妙に広い背中だけだ。
「……記憶喪失のことも」
そしてやはり、こちらを見ずに告げられた言葉は、まさしくソーヤがいちばん恐れていたものだった。
休眠の前の記憶の一切を失い、共有するはずだった思い出を何一つ覚えていないことを──それに関する懺悔と償いさえしなかったことを。
結局言わずに誤魔化し続けてきた己のことを、彼がどう罵り責めたとしても仕方がない。
ソーヤは何も言い返さなかった。
両手を膝の上で潰れそうなほどに握り締めながら、彼の下す審判を待つだけだった。
もう顔も上げていられなくて、再び俯いて床を見下ろす。
しかしそんなソーヤのことを、なぜかエイワは拍子抜けするくらい明るい声で、励ますような口調でこう続けたのだ。
「ま、わかってたけどな!」
驚いて思わずエイワのほうを見ると、彼はこちらを向いていて、しかし顔はさすがに声ほど元気なようすではなかった。
けれども責めるでも喚くでもなく、ただ困ったような笑みを浮かべている。
「なんで……」
「いやすぐわかるわ、おまえの返事しょっちゅうズレてっから。俺もだてに十七年近くおまえのダチやってねーんだよ。
……まぁ四年は爆睡してたし厳密に言うと十二年ちょいだけどさ」
「そうじゃねえ、……なんつうかその……もっと怒るとかあんだろ……」
「あのなぁ」
エイワはつかつかと歩いてきて、ソーヤの肩にぽんと手を置いた。
「もっかい言うか? 俺、十二年おまえと兄弟みたいに育ってんの。だからおまえの性格はよーくわかってるし、記憶がなくてもそこんとこは大して変わっちゃいないみたいだしさ。
……だからわかってたよ、言うに言えなくて一人で詰まってんだろーなってことは」
「それは……そのとおりだ。悪い……」
「おまえが諦めて白状するのを待つか、でなきゃタイミングみてカマかけようかと思ってた。そしたら……こういうことになったんで、結局タニラたちから聞かざるをえなかったってわけだ」
その瞬間。
具体的には、彼がタニラの名前を出した直後。
ソーヤの肩の上に軽く置かれていただけだったエイワの手が急に強張り、そのまま掌の下にあった肩の肉を、ジャケット越しにも痛みを感じるほど強く掴んだ。
それはエイワが初めて見せた攻撃性で、つまり、やはり彼は、怒っている。
言葉にはしないだけで、内に堪えた感情が穏やかなものでは決してないことを、痛みがソーヤに教えている。
それに見上げた顔はもう笑んではいない。
困ってもいない。
虚無の上に、一筋だけどす黒い色を引いて、いつも星空のように小さな光をいくつも溜めていた温色の双眸が、今は闇夜のようにべったりと暗かった。
「……わかってたよ。俺は、わかってたから、それはいい……」
ぞっとしながらも、ソーヤは眼を逸らさなかった。
そんなことはできなかった。してはいけない状況だったし、不可能だった。
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