data_141:どうか扉は開けないでいて
なんかとんでもない現場に居合わせてしまった、とヒナトは思った。
お昼休みを終えてオフィスに戻ってきたはいいが扉を開けない。
開閉スイッチに手を置こうとして、中から誰かの凄まじい泣き声がするのに気付いてしまったのだ。
ここが第一班の事務室で声の主が女の子ということは、もう答えは明白である。
ここで中に踏み入るべきでないことはヒナトにもわかる。
ミチルはヒナトに泣き顔を見せたくはないだろうし、余計な地雷を踏んで彼女からの嫌われポイントを大量追加得点するわけにはいかない。
ドアを開ける前でよかったと胸を撫で下ろしつつ、さてどうするべきかと考える。
時間はもうない。
すぐ中に入らなければヒナトは遅刻してしまう。
ソーヤの厳しい教育の賜物として、わざわざ自らの勤怠記録に新しい罰印を増やしたくはないヒナトではあったが、今日は仕方がないだろう。
問題は、遅刻するとしてもその理由をどうでっち上げるか、そしてどこでどれくらい時間を潰せばいいかである。
ワタリは細かく追及してこないだろうが、適当な口実ではミチルはきっと怪しむだろう。
ヒナトはちょっと考えて、それから回れ右をした。
・・・・・+
「ちょっと電話貸してください!」
元気よくそう声をかけつつ、ヒナトは壁に設置された電話から白い受話器を取り外した。
そして職員の返事を待つことなく内線番号を押す。
しばしコール音が続き、やがて誰かが応答した──もしもし?
穏やかなその声にほっとしながら続ける。
「あ、ヒナトです。お疲れさまです」
『ああ、お疲れさま……って、どうしたの? もう時間過ぎてるけど』
「じつはちょっとソーヤさんに呼ばれたんで医務部に。えっと、たぶん十五分くらいしたら戻りますね?」
『……わかった。あ、そういうときは先に僕にも連絡してって、ソーヤに言っといて』
「了解ですー」
ワタリの返事には、なんとなくこちらの意図を察した気配があった気がする。
ともかく受話器を置くと、廊下の少し先に立っていたリクウが苦い顔をしているのが見えた。
「ずいぶん堂々と嘘吐いたな、俺の目の前で……」
「緊急事態なんで許してくださいっ。……ってわけで、ソーヤさんのお見舞いしてもいいですか?」
「……まあいいか」
嘘というのはもちろん呼ばれた云々のことである。
もしほんとうにソーヤがヒナトを呼びつけたのなら、医務部に勤務するソアであり、GHと医務部の連絡役でもあるリクウが知らないはずはないのだから。
彼の後をついて歩き、ヒナトはのほほんとしながら廊下を歩いてソーヤのところへ。
しかし、リクウがノックをしてからドアノブに手をかけたところではっとなり、思わずその手を掴んで止めてしまった。
怪訝そうな顔の先輩に見下ろされながら、ヒナトは急に歯切れ悪くもごもごと口を動かす。
「あの、えっと、その、ちょ、ちょっと待って、ください……」
「何だよ? ソーヤに会いに来たんだろ」
「それはそうなんですけどそれが目当てってわけでもなくてえ……えっと……そのぉ……」
そうなのである。
事務室に戻らない体のいい口実としてソーヤを思いついたが、ヒナトはついさっきまでうっかり忘れていた。
というか、思い出してしまった。
給湯室でのなんていうかファンタスティックな事故のことだ。
あのとき感じた意外と柔らかな感触が唐突に蘇り、それだけで赤面してしまう。
逆によく今の今まで忘れていたもんだと思う。
まがりなりにもあれがヒナトのファーストキス体験なのですが。事故をカウントしていいならの話だけども。
むろんリクウはこちらの事情など知らないわけで、急にもじもじし始めたヒナトに妙なものを見る眼を向けている。
いや、それにしても冷めすぎなように思う。
「……おまえらまさか」
「え……っち、ちが、違いますよ!? なんにもしてません! あ、あ、あれは事故ッですっ!」
「……。そうだな、なんか違うっぽいな。ならいい」
なんか呆れたような顔をされたのにはもやっとしたが、ヒナトはそれに構っている場合ではなかった。
ドアが開いたのである。
一瞬リクウがやったかと思ったのだが、そうでないことにすぐ気づいた。
扉の向こうからソーヤが顔を覗かせたからだ。
どうやらあまり体調か機嫌のどちらか、あるいは両方がよろしくないようであり、ヒナトたちを見るなりなんなんだよと小さく悪態を吐いたのが聞こえた。
ノックしたのになかなかドアを開けないので、たぶんソーヤのほうでも不審に思ったのだろう。
「あ、……そ、ソーヤ、さん……」
「がたがたやってないで中に入れよ。……あ、あんたは外で。気になるならドアの前にでもいてくれ」
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