data_140:割れたかがみが望むこと
つい笑顔を浮かべそうになりながらオフィスのドアを開けると、電気がついていた。
まだ昼休憩の時間だというのにデスクの前には見知った姿がある。
「や。……ずいぶん機嫌がいいけど、今度は何を企んでるの?」
「それを聞いてどうするわけ。どうせ何もしないくせに」
冷たく笑ってそう返したが、ワタリは表情を変えない。
「ミチル、きみは何がどうなったら満足するの? 一度ちゃんと聞かせてほしい」
「もう一度言おうか? それを聞いて――」
「何もしないかどうかは、ミチルの話を聞いてから決めるよ」
思わぬ返しにミチルはむっとしてワタリを睨む。
彼を味方だと信じられるような土壌がないのだから、この発言はミチルにとっては敵対を宣告されたようなものだった。
明らかに身構えるミチルを見て、ワタリは小さく息を吐いた。
「……僕もね、どうしたら責任をとれるのかって、ずっと考えてるんだよ」
その言葉の意味がわからない。
勧められた椅子には素直に座りつつ、ミチルはあくまでワタリを訝った。
これまで中立を貫いてきた彼がどういう心変わりをしたのか――ついに完全な敵になったのか、それとももしかするとミチルの肩を持つ気になったのか、それを見極めなければ。
ワタリは棚を指さして、ファイルを持って行ったんでしょ、と小さく尋ねる。
否定してもしょうがないのでそれは頷く。
「てことはソーヤに会いに行ったんだ」
「まあね。……どんな話してきたと思う? 実はね、あたしの恨みつらみをぶちまけてやった」
「……それはまた、思い切ったね」
「元々いつかは言おうと思ってたし、うっかりあんたが先んじて微妙な感じで話したら腹立つもん。それなら早いほうがいい」
ついでにかなり脚色したことは、わざわざ言わなくてもわかっているだろう。
「そっか。……じゃあ、一歩前に進んだって感じだ」
「はあ?」
何の話だ、とふたたび怪訝な顔をするミチルに、ワタリはゆるく笑んだ。
それもやっぱりどこか泣きそうな、寂しい微笑みだった。
「大事なことだよ。何があったか、何を感じてるかってことを誰かに伝えるのって……僕はすごく、大切なことだと思う。
だからどんな理由や目的でも、ミチルがそれを自分でしたのは紛れもない進歩だ」
「……はあ、何言ってるかわかんないけどすっごい上から目線ぽくてムカつく」
「うん、……そういう感情を、僕以外の人にもきちんと伝えていくべきだよ。そしたらいつか……ミチルも、誰かを憎まなくても、生きていけるから……。
それこそミチルが言うように、僕が変に仲介するよりずっといい。それはそれで大変だろうけど」
ワタリは笑っている。
和やかに、けれど悲しげに、その背に負った十字架を隠そうとするように。
彼の言葉はどれも穏やかで優しいものだったが、ミチルの心はなぜか、ずたずたに引き裂かれるような思いがした。
だから自分でも気づかないうちに立ち上がっていた。
ワタリに詰め寄り、すがりつくようにしてその胸倉を掴み上げ、叫んだ。
「嫌だ!」
自分でも、何を言っているのかわからなかった。
ただ濁流のように凄まじい感情が胸の奥から溢れ出てくる。
どろどろに淀んだ気色の悪いものが、悪意を隠さないミチルですら目を背けたいと思うような何かが、とめどなく。
「嫌だ嫌だ嫌だッ……なんでそんなこと言うの! やだぁーッ!!」
そのあとも、自分の口が勝手に同じ言葉を叫び続けるのを、ミチルはどこか他人事のように聞いていた。
いやだ、いやだと小さな子どもが駄々をこねるようなその口ぶりが、ほんとうに自分のものだとは信じられないくらいだった。
眼があっという間に涙で潰れ、もうワタリがどんな顔をしているのかもわからない。
ワタリからの返答はなかった。
ただ、温かい感触に包まれたのを感じたから、たぶん彼はミチルを抱き締めたのだろう。
泣き喚きながら、ミチルは熱と痛みを帯びる頭でぼんやりと考えた。
(あたしはなんでこんなに怒ってるんだろう。何がそんなに嫌なんだろう)
わからない。ただ苦しい。
けれど同時に、我が身を包む温もりが抗いがたいほどに幸せで、もう気が狂ってしまいそうだった。
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