data_135:いわゆるひとつの初体験
まだ心臓がばくばく鳴っていてうるさいし痛いし恥ずかしいし、可能ならこの場で転がって何か叫びながら気が済むまで悶絶していたい。
実際そうするわけにはいかないことをなんとか理解できたヒナトは口許を手で押さえて呻くのが精一杯だった。
顔がめちゃくちゃ近かった。いや近かったのは顔だけじゃなかったがその詳細を思い出すと頭が破裂しそうだから敢えて考えない。考えてはいけない。
それに、あれだ、それよりもっとすごいことがあった。
たしかに触れていた。
というか当たってしまっていた、という表現のほうが正確だが要するに同じことだ。
口と口がくっついていわゆるひとつのキスというやつがヒナトの身に起きていたのは間違いようのない事実であるわけでつまりはあれが乙女の果てしない憧れのひとつであるファーストキスということになってしまうことも否定はしきれないのであってつまりはその。
「あ、あた、たし、そ、そ、ソーヤさ、んと、き、ききき、~ッ!?」
そのつもりもなかったのにうっかり声に出してしまったが、どのみちまともな発声などできようもない状態だった。
ヒナトは絶叫しそうな口を再びぐっと押えてもう一度その場にうずくまる。
なんていうか思っていたのとは違った。
さほど具体的に妄想していたわけではないのだが、もっとこう素敵でロマンチックな雰囲気で甘ったるい感じなのかという夢を抱いていたし、なんならイチゴかレモンの味がすることさえ期待していたのだ。
どうせならかわいい服を着てきれいな色のリップを塗ってから臨みたかった。
味なんてしなかった。
ただ思ったよりも柔らかい、そして少しかさついたものが、ふにょっと当たっただけ。
それだけなのに、いやそれだけでヒナトの心身を再起不能にするには充分すぎる破壊力だった。
たぶんもう顔どころか全身真っ赤だし、身体中の血が沸騰したみたいだし、頭なんてもう太鼓を打ち鳴らしているみたいにどんどんがんがん大騒ぎだ。
悲しいわけではまったくないが、心が落ち着かなさすぎて涙が出てくる。
このままではまずい。
お茶の用意ができそうにないし、もたもたしているうちに誰かが来たらどうしよう。
そして、それがもしもタニラだった日には、もうヒナトは生きてオフィスに帰れるかどうかもわからない。
ヒナトがソーヤに恋をしているということは、タニラが秘書としてだけでなく女としてもライバルになってしまったということなのだと、今さらながら気が付いたのだ。
「し、しんこきゅう……しよ……すー、はぁぁ……」
努めて深く息を吐きながら、もう一度ゆっくりと立ち上がる。
敢えてやかんに手を伸ばしたのは、どうにかして気を紛らわせるためだった。
じっとしているよりは身体を動かしたほうがまだマシだ。
できたらもっと激しい運動のほうがいいのだけれど、さすがに仕事をほっぽり出してフィットネスルームに駆け込むのはまずい。
水を落としながら、しかしどう頑張っても他のことなど考えられなかった。
意識して深呼吸を続けても、どうにもならない。
ソーヤはどう思っているのだろう。
さっきのことは間違いなくただの事故だったわけで、彼は今どんな気持ちでいるのだろう。
嫌だったかな、と考えると胸がずきんと痛むが、実際のところどうかはわからない──ここを出ていったときは彼もかなり動揺していて、その先の感情までは見えなかった。
(ソーヤさんも初めてだったのかな。それとも、タニラさんとしたことあるとか……?)
止せばいいのにそんなことを考えてしまい、また新しく涙が滲む。
苦しい。
給湯室に来たときは違う苦しさでいっぱいだったけれど、そのほうがもしかしたら多少マシだったかもしれない。
結局そのことをソーヤに問い詰められずに済んだから、それだけは少しだけありがたいけれど、だからといってこのあとどんな顔でオフィスに戻ればいいかわからない。
ただでさえわかりやすいことに定評のあるヒナトなのだ。顔に出さない自信がない。
でも、戻ったらミチルがいる。
彼女の冷たい目線を浴びたら少しはこのふわついた感情も落ち着くかもしれない。
それはそれでまたしんどいけれど、……そしてまた給湯室に逃げてワタリに心配されて、その繰り返しになってしまうかもしれないけれど。
どんなに仲良くしようと頑張っても、向こうは身体中でヒナトを拒否している。
前ほどひどい言葉は返ってこないけれど、それはふたりきりになるのを避けているからで、たぶんミチルが攻撃の手を緩めたわけではない。
でもそれはいい。
ヒナトの掲げる目標は、彼女と友だちになることではないから。
できたらそうなれるといいな、とは思っているけれど、それ自体を目指しているわけじゃない。
──だけど。
「ソーヤさんの秘書はあたしだもん……」
独りごちながら、ヒナトは水を止めた。
最近閉まりの悪くなった蛇口から、ぽたぽたと滴り落ちるそれを、まるで自分の未練みたいに見下ろしている。
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