data_134:何かありましたって顔

「……悪い。……怪我、ねえか」


 やっとそう声をかけられたころ、ヒナトは机に張り付くようにしていた。

 何がどうしてそういう体勢に落ち着いたのか、その過程をソーヤは見てないのでまったく想像がつかなかったが、彼女がどれほどのパニック状態にあるのかは察せる。


「だ、い……じょぶ……です……っ」


 返答の声はめちゃくちゃに震えている。

 まだ顔は絵具でも塗りたくったように赤かったし、すでに頬には濡れた痕がついていた。


 それを見て頭が殴られたようにがんと痛む。

 今度はたぶん、自尊心ではなく良心のほうだったと思う。いやわからない。

 もうまともに頭が働く気がしない、わけがわからないソーヤは少しでも冷たいものに触りたくて、壁に手をついた。


 それで少しでも脳にこもった熱が下がってくれないかと思ったからだ。

 もちろん現実はそんなわけはなくて、このままだと情緒が狂ってしまいそうで、ソーヤは無理やりに背を向けた。


 先にオフィスに戻る、と最低限の言葉だけ絞り出して給湯室から逃げる。

 返事は聞かなかった。

 ヒナトが何も返さなかったからだし、聞いたところでソーヤの選択は変わらなかっただろう。


 今はただ、適切な距離を置くことしか考えられなかった。



 ・・・・・



 ふらつく脚でオフィスに戻ると、ちょっと不思議そうな顔をしたワタリと眼が合う。

 ミチルは相変わらず画面に集中していてこちらを窺う気配すらないが、今のソーヤの心境としては、ヒナトにそっくりな顔をこちらに向けられなくてホッとした。


「……何やらかしてきたの?」

「なんの話だよ藪から棒に」

「自覚ないなら鏡見なよ。何かありました、って顔してるから」

「……たいしたこっちゃねえよ」


 いつもなら目ざといやつだと辟易する場面だったが、今日ばかりはさすがに自覚がある。

 動揺が顔に滲むのを誤魔化したかったが、真顔にはどうしてもなれそうになかったので、せめて仏頂面を心掛けた。


 むっつりして黙り込むソーヤを眺めながら、ワタリが怪訝そうに眼を細める。


「そもそも何しに行ったの? 給湯室覗いてきたんでしょ」

「いやそれは」

「嘘ついても無駄だよ、トイレじゃないのは方向でわかってる。ドアのとこに影が映るから」

「……ストーカーかおまえは」

「うーん、似て非なるものだけど、似たようなものかもしれないね?」


 ふざけた返事にソーヤが思わず彼を睨むと、しかしそこにあるのは想像していたようなおどけた表情ではなかった。

 ワタリの眼はまっすぐにこちらを見つめている。

 その眼差しは真剣というより、そして訝るというよりも、責めるような色合いが強かった。


 ある意味この副官は、班長の扱いかたをよく心得ている。

 そのまま正直に問い詰めてもまともに答えないと知っているから、わざとからかうような声でこちらの注意を引いたのだ。


 これは手管に落ちたソーヤの負けだった。

 眼が合ってしまったら、たとえ内心では無視かはぐらかそうと思っていても、プライドが邪魔になってそうできない。

 まして自らの足で戻ったオフィスから逃げ出すわけにはいかないのだ。


「……ちっとヒナのようすが気になったんだよ」

「うん。それで、ヒナトちゃんは何だって?」

「いや……あれこれ聞く前に俺がずっこけて、ヒナを巻き込んじまった。怪我はしてなさそうだしとにかく邪魔にしかならなそうだったんで戻ってきた。それだけだ」


 嘘はついていない。ただ、事実をすべて語らないだけ。

 たしかに問い詰めようとはしたが、答えを聞くことはできなかった。

 というかまず、今こうして口に出すまで、何をしに彼女を追いかけたのかすっかり忘れていたくらいだ。


 ワタリがどれだけソーヤの話を信じたかはわからない。

 ただ、少なくともこのときは何か反駁してくることもなく、そう、とだけ言って頷いていた。



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