data_133:ふれあうはなびら

 驚いて駆け寄ろうとしたソーヤの胸に、一瞬ずきりと痛みが走る。

 思わず漏れた呻き声に気付いたヒナトがはっとして顔を上げた──てっきり泣いているのかと思っていたが、その頬に濡れたところは少しもなくて、ソーヤは拍子抜けした。


「ソーヤさん!? 大丈夫ですか!?」


 逆にヒナトのほうがソーヤへ駆け寄ってきたわけだが、もうすでに痛みはどこかへ消え去っている。

 脚は少しふらつくが、それは元からだ。……というのも妙な表現だが、つまりは慢性的な症状であって、今ここで発作的に起きた異常ではない。


 平気だと答えるソーヤに、ヒナトはそれでも心配そうに椅子スツールを勧める。

 それで半ば強引に座らせられながら、ソーヤはじっと少女の表情や仕草を眺めてみたが、とくに顔色が悪いわけでもどこかが痛むようなそぶりもない。

 変なところでしゃがみこんでいたから具合でも悪いのかと思ったのだが。


「びっくりしたぁ……っていうか、なんでソーヤさんがここにいるんですか?」

「俺のことはいい。それよりおまえ、さっき何してたんだよ」

「えっ」


 ヒナトは明らかに動揺したようすで眼を泳がせた。

 うろうろと彷徨う視線はひたすら給湯室の床を這いまわり、必死で言い訳を探しているのが窺える。


「おい、なんか言え」


 じっと彼女を見つめながら、ソーヤはあえて追い詰めるような声音でそう言った。

 嘘を吐こうとしているのがわかったからだ。

 そしてそれはソーヤとしては許しがたいことだったから、わざと彼女の思考を遮るように言葉を紡ぐ。


「ちゃんとこっち見ろ。ヒナ」

「え、と、あの」

「くだらねーこと考えてんじゃねえぞ。秘書の分際で、この俺に隠しごとしようとか思うな。……ほらこっち見ろって」


 あくまで逃げようとする視線を捕まえるために、所在なさげな手を掴む。

 反射的にヒナトがこちらに向けたのは、猛獣に捕らえられた草食動物のような眼で、それに胸が痛まなかったと言えば嘘になる。


 でもそれは、残念ながら、ヒナトを怯えさせたことに対してじゃあない。

 拒絶されることへのソーヤ自身の苦痛だ。

 我ながら最低なやつだと思うが、しかしヒナトの心身を第一に慮れるようなソーヤだったら、そもそも彼女を秘書になんてしなかった。


 うぐいす色の眼がじわじわと潤んでいくのをじっと見ている。

 また泣かせてしまう。


 やめればいいのに、やめたいのに、他にうまくやれないから何度でもこれを繰り返している。


 そしてヒナトの手首を掴んだまま、ソーヤはつい立ち上がろうとしてしまった。

 やはりまた頭に血が上っていたのかもしれない、自覚はなかったが、たしかにその瞬間は自らの容態など忘れていたような気がする。


 瞬間にきちんと力が入らなかった脚が、よろりと一歩前にもつれた。

 ヒナトは咄嗟に支えようとしたようだったが、前より痩せたとはいえ彼女より体格のいいソーヤを押し止められるはずもなく、ふたりは一緒になってその場に崩れ落ちる。


 椅子が倒れて耳障りな音を立てたのが、なぜか他人事のようだった。


「……いったぁ……」


 小さな声でヒナトがそう呻く。

 こちらに痛みが少ないのは彼女を下敷きにしてしまったからだろう。

 身体の下に温もりと柔らかさがあるのでそれを感じて、まだソーヤの視界は衝撃のためにぼやけていたが、せめて早く退いてやろうと身を捩る。


 上手く動かせない手足をもどかしく引きずって、できたのはほんのわずかに上体を浮かせただけだった。

 まだ身体の大部分がヒナトに重なって温かいままだ。


「う……ソーヤさん……だいじょ……ッ!?」


 ヒナトの声が途切れた。

 同じタイミングで、にわかにソーヤの視界も晴れる。


 そのど真ん中、恐ろしいほど近くに見慣れた顔が、しかし未だかつてないほど真っ赤に染まってまるでトマトかパプリカのようになって、ソーヤを凝視していた。


 状況を理解するのに二秒ほど要した。

 端的に言えばふたりの顔がちょうどぴったりと重なっていて、顔面のいくつかの突出した部分が触れ合っている。

 眼窩の上部、鼻梁、それから──くちびる。


 それらを把握した瞬間ソーヤは跳ね起きた、もとい、そうしようとして起き上がり切れずによろけた。

 傍に転がっていた椅子の脚を掴み、それに縋りつくようにして身を起こす。


 それぞれが何かにしがみつきながら必死で立ち上がるのに、何分かかかっていたような気がする。

 誰も来なかったことを奇跡だと思えるほどには動揺していた。

 ソーヤですらこれほど狼狽しているのだから、ヒナトなどもっと混乱していたに違いない。


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