data_131:帰ってきたソーヤ

 久しぶりに制服に腕を通す。

 といってもほんの数日ぶり程度のことなのに、もう身頃や肩まわりがだぶついて感じるのは気のせいだろうか。


 トイレの鏡で入念に寝癖を直していると、入り口から胡桃色の頭がひょっこり覗く。

 ここ最近は毎日顔を合わせている、もうそろそろ見慣れたを通り越して見飽きたという表現に到達しそうな顔──リクウだった。

 眼が合った瞬間ぴたりと足を止めたところからすると、用足しではなくソーヤを探しに来たらしい。


「黙って単独行動は控えてくれ。俺があちこち使いにやらされる羽目になる」

「一挙一動を監視されてるこっちの身にもなってくれよ」

「諦めろ。とにかく、俺の知らんところでぶっ倒れられたら困る。病室を出るときは誰でもいいから一言言ってけ」


 ソーヤは不満を顔にありありと浮かべたまま、わかったよ、と雑に答える。

 それを見てリクウも苦笑を隠さない。


「……身だしなみはそこらへんでいいだろ。あんまり時間かけすぎるとオフィスにいる時間がなくなるぞ」


 笑われている理由は他にもあったらしい。

 まだ何か所か気に入らない部分が残ってはいたが、ソーヤは憮然としながら髪を整える手を止めて、備え付けのペーパータオルで手を拭った。

 指先が、自分のものとは思えないほど冷たかった。


 リクウとはエレベーターホールで別れ、ひとりでかごに乗り込む。

 たった二階ぶんのさして遠くもない距離をわざわざ機械に頼るのもどうかと思うのだが、転倒のおそれがあるという理由で、階段を使うことは医務部から禁じられている。


 もっとも、エレベーターの特有の浮遊感にすら軽く眩暈を覚えてしまうような今の身体では、医務部の言うことももっともだ。

 沈み込むようにして壁にもたれかかりながらソーヤは溜息をついた。

 この体たらくがあまりにも情けなくて、煩わしい大人たちの言葉を何一つ否定できない現状が恨めしい。


 到着を知らせる短い電子音に、のそりと身体を起こす。

 誰にも見られていないことを確かめながら、壁に手をついて、ゆっくりと外に足を踏み出した。


 目に飛び込んでくる廊下の長さも壁の色も、閉じられた扉の形すらもどこか懐かしい。


 そこに班員たちがいる、ソーヤが来るのを待っているのだと思うと、不思議と両足に熱が灯る。

 次の一歩はだから、思ったより速く進めた。


 ワタリ。

 人が好いようにみせかけてソーヤには存外毒舌な、しかしなんだかんだで頼りになる副官。

 ミチル。

 いまいち信用しきれない部分が少なくないが、たしかに優秀な少女。書記。


 そして、それから、もっともそこに──ソーヤに必要なのは。


「──あっ! ソーヤさん!!」


 思いがけないほど眩い笑顔に出迎えられて、ほんのわずかに面食らう。

 誰より扉に近い席に座っているからか、真っ先にドアの開閉に気が付いた秘書の少女は、そこにソーヤの顔を見とめてすぐさま破顔したのだ。


 最後に見たときは暗く打ちひしがれていたはずの、ひまわりが再び顔を上げていた。


「よ。順調にやってるか?」

「はい、たぶんソーヤさんが想像してるより十倍くらい順調ですよ! ね、ワタリさん、ミチル」

「確かに調子はいいけど十倍は言いすぎじゃないかな、……ソーヤがどんな悲惨な想像してたかにもよるけど」

「……ことによっては百倍かもね」


 ヒナトのとびぬけて明るい声には劣るものの、班員たちからも概ね穏やかな返答が続く。


 そこにソーヤが危惧した光景はなかった。

 仕事をすべて取り上げられて落ち込んでいるヒナトや、彼女から何もかも奪っておいて冷たく見下ろしているミチルなんていないし、ましてそんなふたりを扱いあぐねて困惑しているワタリの姿もない。

 あるのは思いのほか平穏で、温かさすらある理想的なオフィスの形だった。


 もしかして自分がいないほうが上手く回るのか、自分よりワタリのほうが運営能力に長けているのかと一瞬ショックを受けたソーヤだったが、ワタリに手招きされてはっとする。

 呼ばれるまま彼の隣、いつもの──自分の席に腰を下ろすと、途端に持て余すほどの安堵が降ってきた。


 ここだ。ずっと、ここに戻りたかった。


「おかえりソーヤ。さっそくで悪いけど、ここからここまでの下書きになってる報告書を確認してほしいです」

「……なんだよ、ずいぶん溜めやがったな」

「用意してくれたテンプレは踏襲したんだけどね……どうも不安で送信できなくてさ」


 らしくもなく弱気な発言をするワタリに、ソーヤははっと息を吐く。

 単純な話だが、頼りにされるのは、悪い気分ではない。

 仕方ねーなぁと大儀そうに言いながら、頼まれたファイルをひとつずつ確かめていく。



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