data_121:静かすぎる日
今日はまだ一度もソーヤに怒られていないな、と思いながらヒナトは立ち上がる。
もちろんそういう日が今までなかったわけではない。
というか、さすがにヒナトでも毎日彼の逆鱗に触れるほど粗忽者ではない──それに匹敵しかねないレベルのうっかり者ではあるが。
ただ、ヒナトだって自分の調子くらいは弁えている。
昨日聞かされたことがまだずっと思考の大半を占めているような状態だ。
朝からずっとそれでぼうっとしているのに、普段なら確実にツッコまれているだろうとヒナト自身ですら思うのに、ソーヤは何も言ってこない。
たぶんそれは間にミチルがいるからだろう。
彼女が壁になって、ソーヤからはヒナトがよく見えないのかもしれないし、もしくは今朝ワタリが言っていたように、こちらの緊張関係に配慮してくれているのかもしれない。
ありがたいようで、どこか寂しい気持ちがするのはどうしてだろう。
とにかく午前中の業務は滞りなく終わった。
会話らしい会話はほとんどなく始終オフィスは静まり返っていたが、いつか見た第二班のような穏やかな静寂とは、まったく違ったように思う。
食堂でいつもどおりサイネたちと集まるが、やはり中心となる話題はミチルだった。
もちろんミチルも食堂にいる。
かなり隅っこのほうでひとりでぽつんと座っていて、気にならないといえば嘘にはなるが、きっと話しかけても良い結果にはならないだろう。
それがわかっていて相席を誘おうと思えるほどヒナトは善良にはなれなかった。
「見れば見るほどよく似てるよねぇ。やっぱりその、ヒナちゃんのクローン……なの?」
「う……ん、まあ、そうみたい」
ヒナトの歯切れの悪い回答が気になったのか、サイネがじっと見つめてくる。
しかし意外なことに、そのあと彼女の口から出てきた言葉は、ヒナトが隠していることを問い詰めるためのものではなかった。
「なんで今、出してきたんだろう」
意味が掴めなかったヒナトとアツキは顔を見合わせる。
するとサイネは補足するように続けた──今までずっとミチルの存在そのものを隠してきたのに、顔見せどころか一足飛びにGHに入れたのは、花園としてはどういう意図があるのか。
それも、よりによって所属先をヒナトのいる第一班としたのはなぜなのか。
「たしかに。いろいろ急だよねぇ、エイワくんだって顔出してからちゃんと配属になるまで、ちょっと時間かかってたのに」
「そっちはリハビリの都合もあっただろうけどね。
ふつうに考えたらヒナトもミチルも穏やかな心境でいられないのわかりきってるんだから、一班は避けてうちに入れると思うんだけど、そうしなかった。何が目的なんだか……」
その答えをたぶん知っている、とヒナトは思ったが、口にはしなかった。
ふたりに伝えても仕方がないことだとわかっていたし、きっと落ち着いて話すことはできないだろうとも思ったからだ。
余計な心配や気遣いをさせるより『いつも』の三人の空気に浸っていたい。
なんということはないこんな日常も、いつか失われてしまうかもしれないと思えばどうしようもなく愛おしくて、泣きたいほどに幸せなのだ。
そんなことはフーシャが死んだあの日からわかっていたはずなのに、ずいぶん今さらになって考えてるよなあと自分でも思う。
何も知らないとミチルに罵られたけれど、ほんとうに無知だった。
すべてを理解した今は、だからこそ、前を向いて笑っていたいとヒナトは思う。
そして、そのために深く息を吸って、代わりに言葉を──今ヒナトが伝えられるいちばん幸せで楽しい情報を、ふたりに提供することにした。
「ところでふたりに相談というか報告というか、があるんだけど」
「うん? それはミチちゃん関係?」
「あー、えっと、あんまりミチルとは関係ないかも」
「別に話題を絞る必要はないでしょ。とりあえず聞くから言ってみなさい」
胸の奥でことことと震えている心臓が、このごろは日夜叫んでいること。
「あのね……あたし、ソーヤさんのことが好きみたい……」
→
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます