data_117:パンとミルクとコーンスープ

 一夜が明けてしまったが、ヒナトの頭はまだぼんやりとしていた。


 情報の整理が追い付いていない。

 聞かされた難解な言葉たちが耳の奥でぐるぐると回っているけれど、それを脳みそのどこに運べばいいのかわからなくて、神経のぜんぶが肩を竦めて首をかしげているようだ。

 たぶんこのままではまともに仕事ができないだろうな、と自分で思えるほどだった。


 それでも時間に合わせて自然と身体が動く。

 これまでずっとそうしてきたように、いつもと同じ時間に食堂に行って、いつもと同じ椅子に座って、いつもと似たようなメニューを手に取るのだ。


 この『いつも』も、作られたのはヒナトが『目覚めて』からの話で、それまでは存在しなかった。

 ミチルが言ったように、それまでのヒナトは存在してなかったも同然だったのだ。


 じゃあどこで何をしていたのか。

 ヒナトは何のために生まれ、どうして目覚めてしまったのか。

 そんな話を、聞かされていた。


 とてもにわかには信じがたい、そして数時間経った今もなお、まだ呑み込み切れていない嘘みたいな現実を。


「おはよう」


 聞き慣れた、けれど珍しい声がしたのでヒナトはゆっくりと顔を上げた。

 そこには穏やかな笑みを浮かべたワタリがいた。


「向かい、座っていいかな」

「どうぞ。……あ、おはようございます」


 この時間に彼に会うのは初めてかもしれない。

 前にちょっと観察してみたことがあったが、そのときはワタリがGHでいちばん起きてくるのが遅かったし、たぶんそれも『いつも』のことだったはずだ。


 今日は早起きですね、という軽い言葉が、上手く喉から出てこなかった。

 まだ頭が半分くらい活動を放棄しているみたいだ。

 いつもよりぽやんとしているヒナトを見て、まだちょっと眠そうだね、と少し笑って言うワタリに、ヒナトも曖昧な微笑みを返す。


 ふたりの間にゆっくりと湯気が躍った。

 今朝はトーストとミルクに、温かいコーンスープがついている。


「……ミチルのことなんだけど」


 ワタリの声を聞くと同時に、手許でスプーンがかちりと硬い音を立て、ヒナトはそれで自分の身体が強張ったことに気付いた。

 そんなヒナトにワタリも気づき、もともと柔和な顔に苦笑が混じる。


「彼女の相手はできるだけ僕がするよ。ヒナトちゃん、昨日、彼女にキツいこと言われたんじゃないかな」

「……えっと、その、……言われたといえば、言われたかも、です」

「うん……これからも、あの子がきみに優しくなるのは難しい。けどそれは仕方がないことなんだ。あの子にもいろいろあるから……だから許してあげてとは、僕からは言えないけど」


 とうもろこしの甘い香りに、ミチルに吐かれた悪態が混ざって苦くなる。

 ヒナトの存在が第一班にとって不必要だと断じられた、その言葉のほんとうの意味も、今のヒナトはなんとなく理解できる。


 でも、だからといって秘書の席を譲ろうとは思えなかった。

 それだけはどうしてもできなかった。

 ヒナトがするべきことが別にあるとわかった今も、ヒナトはやっぱり、ソーヤの秘書でいたいのだ。


 それはたぶん、彼のことが好きだから。

 できるだけ長く、できればずっと、彼の傍にいたいから。


 だから今日もそうするべきではないと知りつつも、ヒナトはGHのオフィスに向かうつもりだ。


「ほんとはミチルを異動させたいんだけど、その権限は僕らにはないしね。ソーヤが上に直訴してもすぐには動かないだろう。

 だからひとまず、あの子ときみがふたりきりになることを避けよう。ソーヤにも言っておくよ」

「ありがとうございます。……あの」

「ん?」

「ワタリさん、どうしてそんなに、あたしたちに気を遣ってくれるんですか?」


 不思議だったので、ヒナトはそう尋ねた。

 何よりもまずワタリのその気遣いが向けられている相手というのが、第一に自分ではなくミチルであることを、なんとなく言葉の端々に感じられたのが奇妙だった。

 まるで彼はもともとミチルのことを知っていたみたいだったから。


 そしてワタリは紅茶を置いて、静かに答える。


「……きみの笑顔が曇ってほしくないから、かな」


 妙に芝居がかったその言葉を、なぜかワタリは泣きそうな声で口にした。

 まるで何かの罪を告白しているようだったけれど、かつて彼がどんな罪を犯したのかなんて、ヒナトは知らない。



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