data_114:鏡と観察者

 ヒナトとミチルは一緒に戻ってきたようだったのに、中に入ってきたのはミチルひとりだった。


 しかし見間違いではなく、たしかにドアの向こうにヒナトの姿も見えていた。

 顔色があまり良くなかった気がするが、それは廊下の電灯のせいで、室内に比べて少し暗いからだろうか。

 ワタリも彼女が心配だったが、それ以上にソーヤが立ち上がるほうが早かった。


 しかしオフィスを出ようとした彼の目前に、ミチルがカップを突き出す。

 柔らかな湯気に混じり、香ばしいコーヒーの香りが少し強いくらいに漂っていて、ソーヤはちょっと面食らったような表情をした。


「おい、これはあとで──」

「ダメです。温かいうちに飲んでください。……ヒナトのことが気になるんですか?」

「あ? ……あ、いやまあ、班長としてはな」


 最近はその肩書きを誤魔化しの定型文にしているな、とワタリはこっそり思ったが、とりあえず口を挟まずにふたりのやりとりを観察する。


「……彼女、あたしのことで少し混乱してるみたいで。まあ、急に自分と同じ顔の女が現れたんだから、無理もないと思いますけど……。

 ちょっとひとりになりたいって言ってました」

「おまえはなんつーか、冷静なんだな」

「彼女のことは前から知ってたので。……とにかく、今はそっとしてあげてください」


 ソーヤは答えなかったが、代わりにカップを受け取って、もう一度腰を下ろした。

 それを見たミチルは満足げに微笑み、次にこちらを見る。


 彼女の浮かべたいたずらっぽい笑顔になんとなく状況を察したワタリは、けれどもやはり口を開かず、座ったまま手だけ伸ばした。

 渡されたカップからは紅茶の匂いがつんと立ち上っている。

 けれどもすぐには口をつけず、あくまでワタリは場の観察に神経を費やした。


 ミチルが自分のデスクと隣のヒナトの席にも飲みものを置いている。

 それをソーヤ越しに眺めていたワタリは、ふとソーヤの表情に一瞬喜色が混じったことに気付いたが、その理由には思い至れなかった。


 結局ソーヤは一口飲んだだけでまた立ち上がり、やっぱり気になるといってオフィスを出ていく。


「ワタリ、あと頼むわ。おまえとミチルのふたりでなんとかしといてくれ」

「……りょーかい」


 観察対象が去ったのを見とめてから、ようやくワタリも紅茶を口に含む。

 そしてすぐに理解した。


 この、一瞬飲み込むのに抵抗を感じる力強い植物の気配、そして舌に絡まって刺さるような渋み。

 久々に味わう懐かしい不快感に、ワタリも思わず笑いそうになる。

 なるほどこれか、と納得するワタリとは対照的に、ミチルはさきほどとは打って変わって少し不満げな表情でこちらを見ていた。


 ワタリはカップを置いて、ミチルに向き直る。


「で、ヒナトちゃんに何言ったの?」

「教えてあげただけ。あんたはソアじゃない、ってね」

「……やっぱりか。あのさ、それは時期を見て僕から言うって約束じゃなかったかな」

「あたしはそんな約束なんてしてない」


 ミチルはふんと鼻を鳴らし、手にしている紅茶かコーヒーかわからないそれを、一口飲んだ。

 どちらにしてもそれなりの味がするだろうに、彼女はまったく表情を変えない。


「……なんであいつの肩を持つの?」

「そんなことはないよ。僕は中立」

「嘘だ。今だってソーヤが出てくの止めようとしなかった!

 なんなの? あんたあいつが好きなんでしょ? あいつとソーヤが親しくなってもいいの?」

「だからそんなことないってば」


 ワタリは困ったように笑った。

 その間も、ミチルの口がもそりと動き、うそだ、という形を作ったのが見えた。


 昔からそうだった。

 彼女は思い込みが激しくて、この世のすべてが自分の敵だと信じている。

 そしてその最たるもの、彼女を苦しめ傷つけてきたもっとも憎むべき怨敵は、他ならぬヒナトだと決め込んでしまっているのだ。


 それはある意味では正しいと、ワタリは知っている。

 そして同時に間違っていることも。


 けれどもそれを口にしたところでミチルは容易には信じない。


 ミチルがもともと疑い深い性格だというのもあるが、とくにワタリの言葉には重みがないのだ。

 なぜならそこに行動が伴っていないから。

 いつも手は出さず、口だけで彼女を慰めてきたこの男に、とっくに信頼など失われている。


「前から言ってるだろ。僕は何もしない。彼らを守ることもしないけど、きみを助けるようなこともしない。協力を期待されても困るよ」


 突き放すようなこの言葉に、ミチルがきっとワタリを睨みつけた。

 そのうぐいす色の瞳に滲んだものをそのまま零してしまえばいいと思うのに、ミチルはそれをしゃにむに堪えて、すぐに顔を逸らしてしまう。


 ワタリは知っている。

 ずっとひとりぼっちだったミチルには、涙を晒せるような相手がいないことを。

 たとえ長い付き合いになるワタリに対してさえも、まだワタリが敵ではないと信じられないから、縋って泣いたりはしないのだ。


(……まあそうされても困るんだけど)


 決してミチルを特別好いているわけではない。

 ただ他の者と違って前から彼女の存在を、その孤独を知っているというだけで、それ以上の関係ではない。

 それ以上になるつもりもない。


 だけど、僕はきみの敵じゃあないよ。

 ──喉元まで上がってきたそんな言葉を、ワタリは口にするのをやめた。

 ミチルが信じるはずがない、自分でも胡散臭いと思うのだから、なおさら無意味だ。


 もう冷めてしまったカップを摘み上げて、まずい紅茶を口に流し込む。

 一緒にもう一度飲み込みなおしたその言葉が、そのあといつまでも喉にひっかかって、ちくちくと痛かった。



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