data_113:ヒナトの告白

 果たして階段を慎重に上がっているらしい彼女を見つけ、ヒナトはその名前を叫ぶようにして呼ぶ。


「ミチル!」

「っ……いきなりデカい声出さないでよバカ! 零れたじゃない!」

「あ、ごめん」


 息を切らしながら隣まで駆け上がる。

 そして横目にトレーに散った数滴の茶色い点を見て、なんだ、と思わず笑ってしまった。


「これくらい零れたうちに入らないよ。ソーヤさんも怒らな……」

「……は?」

「あ、いやその。……そうじゃなくって……あのね、ミチル、怒らないで聞いてほしいんだけど」


 思えばこのことを他人ひとに言うのは初めてだ。

 顔だけは鏡映しのようにそっくりな相手だけれど、それでも別人には変わりない。


 話しながらも足を動かしていたので、すでに階段を上りきり、オフィスの前まで来ていた。

 ミチルは意外にもこちらの話を聞く気があるようで、ヒナトが足を止めると彼女もそこで立ち止まって振り向いた。

 ……まだ中にいるふたりには聞かせるつもりはないので、ここで言いたい。


 込み上げてきた緊張を、手をぎゅっと握ってその中に押し潰し、ヒナトは意を決して口を開いた。


「あたし、ガーデンにいたときのこと、覚えてないんだ」


 少し震える声でそう伝えると、ミチルの眼が少し見開かれたような気がした。

 しかし彼女は何も言わない。

 トレーの上のカップもしんと静まり返っていて、それ以上ミチルが動揺しているようなようすは見られなかった。


 とにかくヒナトは続ける。

 ──だからあなたがどうして怒ってるのか、わからない。


「ミチルに何かひどいことしちゃったのかなぁ? もしそうだったら謝るし、なにかあたしにできることがあったら、やるよ。

 だけどその前にまず、なんであたしたちが喧嘩してるのか教えてくれないかな……」


 ミチルはじっとヒナトを見つめている。

 そのまま、しばらく黙ったまま向き合っていた──そして最後に静寂を破ったのは、ぷっと噴き出す声。


 きっと怒られるか喚かれると思っていたのに、ミチルはヒナトの決死の告白を笑ったのだ。

 でもそれは笑顔と呼ぶにはあまりにも禍々しい表情だった。

 こちらに対する好意的な感情が微塵も含まれていない、嘲りや憐れみの色がごちゃ混ぜになった、いびつで冷酷な笑みを彼女は浮かべている。


「……ほんっとに何にも知らないんだ」


 思いのほか静かな声でそう言って、ミチルはふーっと息を吐く。


「覚えてないって。……あっはは。覚えてるわけないじゃん、んだから」

「……え?」

「だってそもそも、あんたはソアじゃないし」


 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。


 ソアでは、ない?

 それってどういう意味なのだろう?

 遺伝子操作をされていないただの人間の子どもなんて、花園研究所にいるはずがないのに。


 もしそうならヒナトは一体何者で、……そのヒナトにそっくりなこのミチルもまた何者なのだろう?

 なぜミチルは笑っているのだろう……?



 完全に硬直したヒナトを放置し、ミチルはオフィスに入っていった。


 室内のソーヤとワタリが開いたドアのほうを向いて、ミチル越しにヒナトのことを見とめたのにも気づいたが、動けなかった。

 不思議そうな顔をしたふたりがこちらを見ている、それが閉じていく扉にゆっくりと遮られていく。

 すべてがスローモーションのように遅く感じられる。


 ドアが完全に閉じられるのを、ヒナトは無言で眺めていた。

 まるでその向こう側が、扉によって分断されて、ヒナトの知らない別の世界になってしまったみたいだった。


 もうそこはヒナトの居場所ではない。

 硬く冷たい鋼鉄の壁が、異分子ヒナトが入ってくることを拒んでいる。

 そんな、気がした。



 →

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る