data_112:ゆがんだ鏡、ひずんだ記憶②

 ヒナトが止めないのを悟ったタニラは、まだ少し戸惑っているようすながらも、ミチルにひととおりのお茶汲みを指導してくれた。

 やはりなんだかんだで親切な人なのだ。


 ……先日の夜の恐怖体験さえなければ、もっと彼女を好きになれそうなのだが。


 あれはいったい何だったのだろう。

 今はふつうに見えるけれど、だからこそあのときとの差が激しすぎて怖い。

 とてもじゃないが尋ねられる気がしないし、向こうはヒナトがいたことに気付いていなかったようなので、今後もこの件については黙っていようと思う。


「ふむふむ、なるほど……。ありがとうございました」

「いえいえ。ところで書記って初めて聞く役職だけど、秘書と似たような仕事なのね」

「さあ? 具体的に何をしろとは言われてないんですけどね。この人の仕事に手落ちが多すぎるんで、結果的に尻ぬぐいしてるだけです」

「……そ、そう……。あ、それじゃ私、もう行くね」


 タニラは苦笑を隠さずにそう言って給湯室を出て行った。


 夏前の彼女だったらきっとミチルと一緒になってヒナトの悪口をいっぱい言ったのかもしれない、そう思うと彼女と和解できたのはほんとうによかった、と改めて思うヒナトであった。

 味方、とまでは呼べないかもしれないが、せめて敵は少ないほうがいい。


 一方ミチルは練習がてら淹れていたコーヒーと紅茶をカップに分けて注ぎ、四人分の飲みものを用意していた。

 コーヒーがふたつと紅茶がふたつ、そこにシュガーポットとミルクピッチャーを添えて、少なくとも見た目は完璧に仕上がっている。

 まあタニラに教えられたのだからよっぽど味も問題はないだろう。


 ……いやちょっと待って。


「ミチル、あの、あたしいつもココアも作ってるんだけど……」

「だから?」

「だ、だからって……その、えっと、ココアの作りかたも覚えたほうが……」


 べつにココアが飲みたかったわけではない。

 いやこの悲惨な心境を慰めるためにはぜひともココアが欲しいけれど、そういう意味じゃない。


 ワタリは第一班の味を覚えろと言った。

 コーヒーと紅茶に関してはヒナトもタニラに習ったのでこれで問題ないが、ココアだけはもともとヒナトが得意としていた、数少ない『誰にも教わらずに上手にできたこと』なのだ。

 そして毎回必ず三種類とも用意するのが第一班の秘書、すなわちヒナトの流儀である。


「作りかた? 牛乳に適量溶かす以外に何があるわけ?

 だいたいもうコーヒーと紅茶が人数分あるのに、このうえココアなんか要らない。

 その程度の判断もできないとか、あんたの存在ごと必要ないんじゃない?」


 ぴしゃりと言い捨てて、ミチルは出て行った。


 そこでヒナトが給湯室に残ったのは、決して自分のためにココアを作るためでもなく、そしてミチルと距離を置きたかったからでもない。

 ただただ驚いていた。

 まさかココアに絡めて存在否定までされるとは思っていなかったものだから、突然の暴言に、傷つくよりも先にびっくりしてしまって呑み込むのに時間がかかったのだ。


 とにかくミチルの向けてくる感情が刺々しくて、一体何をすればここまで嫌われるのかと不思議にすら思う。

 だいいち彼女に何もした覚えがないのに──そこまで考えてふと、今さらなことを思い出す。


 覚えがないもなにも、そもそもヒナトは眠りの前の記憶をなくしているのだった。


(もしかしてガーデン時代にあの子に会ってる? 知り合いだった?)


 可能性はある、というか、むしろそれ以外に考えられない。

 見たところ同じくらいの歳なのだし、たぶん彼女とヒナトはガーデンで一緒に育ったのだろう。

 そこで何かひどい喧嘩をしたまま別れてしまったのかもしれない。


 そこまで考えて、ヒナトは給湯室を飛び出した。

 もう頭を動かすよりも先に身体のほうが走り出してしまったのだ、廊下を走ってはいけないことは知っているが、ミチルがオフィスに着く前に追いつきたかった。



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